Vergesslicher Engel

 退屈ながらもそれなりに感慨を覚える卒業式を終えて、僕は美術室に足を向けていた。

 遠くからは卒業を喜び、別れを哀しむ生徒や教師の声が聞こえて、それを縫うようにぺたりぺたりと僕の上履きの音が響く。その音を噛み締めるように、そして急く自分の気持ちを落ち着けるように、僕は出来る限りゆっくりとした速度で歩いて行く。もう訪れることなどないであろう校舎に対しての感傷に浸りつつ向かう。もうすぐ春を迎えるという冬の温かな陽差しが窓から廊下に差し込み、ぼわあと身体を温める。

 特別教室の多い区画に向かうにつれて喧騒は小さくなっていく。ただでさえ静かなこの辺りに、卒業式の日に訪れる生徒なんていうのは当然のようにいなかった。死んだような校舎の中を、僕の歩く音だけが響く。最初にシラクサに会った日のことを思い出した。あの日も、こんな静けさの中で美術室に向かっていた気がする。違うのは、あれが冬と僕らの始まりへと向かう歩みであり、今は冬と僕らの終わりへと向かう歩みであるということだろう。

 いつの間にか、美術室のドアの前についていた。校舎内の移動と考えれば僕の教室から美術室までの距離は短いものではないはずだったが、思索をして郷愁を想うには些か短すぎる道筋だったらしい。迷っていても仕方がないので僕は躊躇うこともないまま、ドアに手をかけて開けた。

「お疲れ様」とシラクサは開口一番に言った。挨拶にしては随分と奇抜なチョイスだ。

「それは座りっぱなしの卒業式に対して? それとも高校生活に対して?」

「両方だけど、どちらかというと後者かな」

「そうか」と頷いた後で「君もお疲れ様」と付け足しておく。彼女は満更でもなかったようで「うん、ありがとう」と笑った。なんだか、ひどく久しぶりに彼女の笑った顔を見た気がした。

 僕らはいつもみたいに座った。ただ、話すために向かい合って、美術室の背もたれのない小さな椅子に腰かける。その改まったような恰好が僕らには全く似合わなくて、小さく笑みをこぼす。

「君がここにいて絵を描いてないところを見たのは初めてかもしれない」

「その言い方だと、私が絵を描く機械みたいなんだけど」

 会って初めのうちは、暫くそれと似たようなことを考えていた。勿論、そんなことを正直に言っても怒られるだけだろうから笑って過ごすのだけれども。

 そうしてふと、沈黙が場を満たした。僕らからすれば、それはいつもと変わらない日常の一部なはずだけれども、今日に限ってはどうもそれに堪えられなくて声をあげようとしたところで「あのさ」と先にシラクサが喋り始めた。

「絵、出来上がったから見てよ」

「ああ、うん。分かった」

 出鼻をくじかれたような気もしたけれど、彼女はたっ、と立ち上がって絵を取りに行く姿を見るとそういう消化不良のような気持ちは霧消した。いつも見慣れていたその光景に安心感のようなものを覚えたからだった。

 彼女は布をかけたまま、イーゼルごとその絵を持ってきた。緊張をしているのか、どこか動きが強張って見える。

 布をいつでも取ることが出来るように、シラクサは布を軽く握る。その切実な、縋るような握り方に僕の方も段々と緊張してくる。

「……笑わないでね?」

「笑うもんか」

 どこの誰がどうして笑えると言うのか。僕は背筋を伸ばして、姿勢を正して、キャンバスを向かい合う。

 小さな呼吸の音が聞こえる。規則正しく、部屋の中に響き続ける。それが何度か続いた後で、シラクサは丁寧にかけられた布を取り去った。

 その絵に描かれていたのは美術室と、少年と少女。机にはクレーの画集が置かれていて、少女の方は絵を描いている。

 後姿だけで、その二人の顔は見えない。しかし、それは間違いなく僕らだった。

 言葉を失う。まさしくその慣用句の通り、僕は何も言えないままでただその絵を食い入るように見ていた。

 これは、存在した日常だ。いつの日か分からないけれど、あるいは何度も繰り返したことなのかもしれないけれど、現実にあった日常だ。しかし、僕らに見えるはずがなかった。このうちの一人として絵の中に存在している彼女自身が、本来この絵を描けるはずがなかった。

 けれど、彼女は描いたのだ。見えなかったものを見て、僕らの今までをかたちにしたのだ。

「感動したよ。今までの中で、間違いなく一番」

 どれくらい見入っていたか分からないけれど、ともかく長い時間をかけて、僕は零すようにそう言った。それ以上言葉にしてしまうと陳腐にしてしまいそうで、僕には拙いそんな言葉しか紡げなかった。

「ありがとう」と彼女は言った。

「大切なものだったから、どうしてもかたちにしたかったんだ。そうしないと、本当のことじゃなかったんじゃないかって思ってしまいそうで。良い形にも悪い形にも歪めてしまいそうで」

 彼女はそう言って慈しむようにキャンバスの縁に指を伝わせた。その眼差しは、終わってしまった過去に意味をもたらしてくれて、心が軽く、温かくなったような気がした。

「シラクサ」

 そう呼びかけると、彼女はキャンバスから目をあげて僕の方を見た。僕は彼女と目線を合わせるように立ち上がる。僕の方が背が高いせいで少し見上げるように彼女は僕のことを見る。

 息を吸って、吐いた。ただ、言うだけだ。それだけなのだから大丈夫だと思っていたのに、一気に不安や焦燥が頭の中を塗りたくる。じとりと嫌な気配が背中を這い、喉が異常に渇く。良くない考えばかりが思い浮かんでは消え、動悸が早まる。

 僕はシラクサの顔を見た。この奇妙な間の意味を考えあぐねているのか不思議そうな顔をして、僕の方を見ていた。それが笑いそうなくらいにいつも通りで、肩の力を抜いた僕は口を開いた。クレーの画集を見ながらキャンバスに向かう彼女に話しかけたいつかのように。

「君のことが好きだ。だから、付き合ってくれませんか」

 散々考えて、結局告げたのはこれ以上ないほどに単純でありふれた言葉だった。視界がちかちかするようで、よくシラクサの表情が見えない。窓から入って来た、冬の終わりの冷たさの余韻を残した風が頬を撫でたことだけが分かった。

 僕は、この関係を終わらせるのが嫌だった。だから、美術室の代わりになる、僕らの間に挟まる何かを必死で探した。どうにかして、僕らを繋ぎとめるものがないかと考えた。

 彼女は芸術にしか興味がないし、僕は彼女についていけるほどの芸術への興味はない。クレーへの愛にしてもそうだ。そのような脆弱な繋がりなら、僕よりも彼女に適した人なんてごまんといる。僕である必要なんてどこにもない。

 だから考えた。僕はどうしてここまで必死になっているのか。どうしてこの関係を終わらせるのが嫌なのか。

 笑われるかもしれないけれど、僕は自分が彼女に恋をしていることに気が付くのに途方もないほどの時間をかける必要があったのだ。一年という時間をかけて、話して、笑って、美術館に行って、失ってしまうかもしれないというようやくのところで、僕は気付いたのだ。気付けたのだ。

「遅いよ」と彼女は言った。

「ごめん」と僕は言った。

 彼女の言う通り、僕の気付きはあまりにも遅かった。もっと早ければ、僕はきっと彼女と同じ近場の大学に進んだだろうし、時間だって十分にあった。どうしようもなく、間違っていた。

 けれど、僕はどう足掻いてもここまで来ないと気付くことが出来なかったんだろうと思う。そういう歪で不定形だったからこそ、僕らのこの関係は保っていたのだとも思うから。愚かで、間違っていたのかもしれないけれど、過ちではなかったのだ。

 時が止まったように錯覚をするほどの永遠を、僕は待った。何を言われようと受け入れるために握りこぶしを作り、何を言われようと笑えるように心の中で笑う練習をした。そうして、僕はずっと待っていた。

「ちゃんと電話をすること」

 止まっていた時間を動かしたのは、イエスでもノーでもない、そんな言葉だった。

「都会の空気に中てられて浮かれないようにすること、留年しない程度には勉強を頑張ること、定期的に会うようにすること」

 彼女はつらつらと言葉を並べ続ける。未だその理解が出来ていない僕に対して、最後に彼女はにっと笑って言った。

「それから、また一緒にクレーの絵を見に行くこと。それさえ守るなら、付き合ってあげる」

 一瞬、遅れて染み込んだ言葉は一気に柔らかくて温かい何かを身体中に伝えた。多幸感がぼうっと脳味噌を熱して、思考が遮断される。それでも僕は、ちゃんと大切な言葉を返した。

「じゃあ、よろしくお願いします」

「うん、よろしく」

 そう言ってから、彼女は軽やかな足取りでイーゼルから過去の僕らの絵を取り、持ってきていたらしい大きな鞄に仕舞った。

「それじゃあ、行こっか」

「……うん、行こう」

 そうして、彼女が先に美術室を出た。なんてことのない足取りで、二度とは戻らないそこを後にした。

 その後を追うようにドアに向かう。その前に、僕は振り返って美術室を見た。数えきれないほどのささやかな思い出がたくさん詰まった、寂しいけれども優しいその部屋を。

 ふと、クレーの画集が机の上に置きっぱなしになっているのが見えた。どうやら、あれは彼女の持ち物ではなくて美術室に置いてあったものらしい。ずっと抱いていた疑問が最後の最後でようやく解けた。

「早く行こうよ」とシラクサが急かす。「分かった」と僕は答える。

 今までありがとう。残されたクレーの画集に向かってそう心の中で呟いてから僕は美術室を後にして、シラクサを追いかける。

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クレーのいた冬 しがない @Johnsmithee

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