Schellen-Engel

 やる必要がないながらも学校から強制された共通テストを終えて、本命の東京の私大のテストを受けた。文系というのは昨今では就職に厳しいと避けられがちらしいが、興味も才能もないところにいっても仕方がない。僕は大人しく文学部を志望していた。

 流石に怠慢な僕も、浪人はさせないという親からの強い圧を受けて美術館に行ってから暫く美術室に通うことも出来なくなっていた。それは、本来あるべき姿なんだろうけれど、それでも一年僕の何かを埋め続けていたその時間がぽっかりと失われるのはやはり寂しいところがあった。空いた穴に冷たい冬の風が入り込み、どこか虚しい気持ちが滲むように身体を巣食う。これから訪れる別れへの予行練習なのかもしれない。いきなり来られたら困るだろうからという猶予期間。

 僕らしくない寂寥感に苛まれながらもなんとか現実が僕を引き留めて、出来る限りはつくしたテストの結果をぼうっと待ちながら僕は今日も家で惰眠を貪っていた。

 僕が受験から解放されて自由登校になってなお登校をするような物好きなはずもなく、また昼過ぎに目を醒まし、食パンをトーストして何もつけずに食べる。寿命を削るために生きているような、我ながら酷い生き方だった。まあ、どうせ今の時期の同級生とか大学生なんていうのはこんなものだろうし、それでもこの国は平均寿命が高いんだからこれくらいのことで寿命は削れないんだろう。

 そう言えば、明日が合格発表の日だった。今更、そんなことに気が付く。どうやら、僕は思っていたよりもずっと何かに参ってしまっているらしい。それは受験が終わった安堵感から一気に押し寄せた疲労か、冬風邪か、あるいは。

 いや、違うだろう。ここに来て言い訳をしても意味がない。僕はのそりと動き出し、久しぶりに制服に袖を通す。取り敢えず、僕は美術室に行かなければならない。シラクサがいるかどうかは分からないけれど、行くことに意味があるのだ。あの静かで冷たいけれど居心地のいい空間に僕は浸りたかった。

 そう言えば、僕はまだ卒業までに描くと言っていたシラクサの絵を一度も見ていない。もう完成をして持ち帰ってしまっているならともかく、まだ残っているなら見ることも出来るだろう。彼女がいつも絵を置いている場所を僕は一年間見てきている。

 登校する機会も減ったことで定期は更新をやめていて、僕は学校までの切符代くらいならあることを確認してから財布を持って家を出た。何も背負わずに向かう学校というのは、何故かいつもよりも格段に気分がいいもので、自然と早くなる歩調のままで僕は駅へ向かう。歩き続けると思いのほか寒くて、マフラーでも巻いてくれば良かったかもしれないと思った。

 昼過ぎの地方の電車なんていうのは見事に伽藍としていて、僕だけがぽつねんと鉄の箱に揺られていく。窓外には荒涼とした風景が流れていく。東京に行けば、こんな寂しい風景を見ることはまずないだろう。なんてことのない日常も、残り僅かと考えれば特別に見えてくる。通学のイメージが不可分的に結びついていて嫌で嫌でしょうがないこの電車も、いつかノスタルジックに思う時期が来るのだろうか。ボロが来ている電車の暖房と一人の体温では車内は冷たいままで、僕は身体を縮こまらせながら高校前の駅に着くのを待った。

 暫く揺られて、独り駅に下りる。無人駅がゆえ、僕だけがこの駅に立っている。乾いた音とともに去って行く電車を見送ってから、僕は切符を入れるための箱に切符を入れてから高校に歩き始めた。

 駅から高校に行くまでには坂がある。距離自体はさほど遠くないけれど、この坂が見た目よりも急な角度をしていて、帰宅部の僕からするとなかなかしんどいものがあった。いつも、行きは決まって一人。帰りは、たまにシラクサと帰る。思い入れらしい思い入れもない、ただの坂。ここに限っては、いくら時が経てど美化されることはないだろう。そんなことを思いながら坂を上り切る頃には学ランに不快感を覚える程度には身体が温まっていた。けれど、ここで脱ぐとそれはそれで寒くなるので我慢をして、僕は何日かぶりに校舎に入っていく。

 三年生は自由登校だが、一、二年生は当然のように授業がある。持久走をしている下級生を横目に僕は悠々と下駄箱に向かった。結局、あんな苦しいだけの走り込みに何の意味があるのか、僕には未だに分かっていない。

 上履きに履き替えて、そのままの足で美術室に向かう。校舎の中は先生の声とチョークが黒板をかつかつと叩く音だけが響く。静かながらも、心臓の鼓動のように確かに動いている。僕はなるべく音を立てないように気をつけながらぺたりぺたりと美術室に向かう。

 ドアの前に着いたところで、鍵が開いていない可能性に思い至った。いつもであればシラクサが先にいるからと鍵のことなんてまるで気にしていなかったが、今日に関してはシラクサがいない可能性だって十分にあり得る。職員室に寄ってから来れば良かっただろうか。

 まあ、開いてなかった行けば良い。そんなことを考えて、僕はドアに手をかけた。ドアはいつも通りなんなく開き、しんとした美術室が僕を迎えた。

 しかし、がたり、といつもの美術室には似つかわしくないような音がしてそちらに目を向ける。そこにはいつものようにシラクサがいて、キャンバスに向かい合っていた。

「ああ、いたんだシラクサ――」

「なっ、なんでアズマ君が来るの!?」

 今まで見たことがないほどにシラクサは動揺をしていた。集中をしている時に入ってしまったのだろうか。

「ごめん、別に驚かせるつもりじゃなくて、なんとなく来たかっただけなんだ」

「いや、来たことを責めたわけじゃないんだけど。急だったからちょっと驚いただけ。それだけだよ」

 本当だろうか。気を遣わせているなら申し訳ないし、邪魔なら帰るが、ただ彼女の表情を見る限り嫌悪というよりは戸惑いとか驚きのようなもののように見えたので少し安心する。

「それ、前言ってた卒業までに仕上げるって言ってた絵か?」

「ああ、うん。そう。あと少しだから多分ちゃんと卒業の日までには終わると思うよ」

「へえ、どんな絵描いてるんだよ」

 そう言って一歩踏み出すと「待って」と制止される。僕は犬のように従順にその指示に従う。

「完成したら見せるから、今日はそこらへんで座ってて」

「あー、分かった。了解」

 理由は分からないけれど、断る理由の方も分からなかったので特に何かを言う訳でもなく僕は大人しくキャンバスの見えない、位置に座った。キャンバスが見えてもいけないし、シラクサの視界に入ると集中もしづらいだろうということでいつもよりもずっと離れた場所で僕は斜め正面から筆を進めるシラクサを見る。

「大学、受かってた?」

 さっきまでの慌てた様子を取り繕うように、落ち着いた声色でシラクサは筆を進めながら尋ねる。

「君って意外と無神経だよな」

「だって君の場合、受かってなかったら努力不足のせいでしょ」

「それはそうだな」

 気を遣われる価値もない。

「それで?」

「明日発表だよ。まだ分からない。そういうそっちはどうなんだよ」

「私は受かってたよ。第一」

「おお、おめでとう」

「身の丈にあったところを選んだだけだよ。褒められるようなことじゃない」

「そう言うけど、そこそこのところに行くんだろ。やっぱりすごいよ」

 絵を描いてるところばかり目についていたけれど、僕みたいなのとは違ってシラクサは普通に頭が良い。僕みたいなのよりもずっと東京に出るべき人間だ。

「それはどうも」

 シラクサはは素っ気なく頷いて再び絵に集中を始める。僕は黙りながらその様子を見ている。今までとは少しずつ違うながらも、僕らは再び動き出した。ただし、残り僅かな終わりに向けて。

 白状をしよう。言うまでもないことだろうけれど、僕はこの関係が終わるのが哀しくて苦しくて惜しいのだ。大切な感情なんていうのは意外と自覚をするまでが遅いことが少なくなくて、今回も僕はそうして現実の感情から目を逸らし続けていた。

 駄々を捏ねて、地団太を踏んで、みっともなく足掻けばどうにかなるというのなら、僕はいくらでもしてやる。それでも、そんなことをしたところで何も変わらないことは分かっているから、だからせめて僕は抗おうと思う。僕なりの方法で、自分に正直になって。

「なあ、シラクサ」

「何?」

「卒業式の後さ、最後にここで少し話そう」

 それだけ言うと、シラクサは驚いたような顔で僕の方を見やった。なんだか、僕らしくない堅苦しい感じになってしまったなと思い「その絵も見せて貰いたいしさ」と付け足す。

「卒業までには仕上げるんだろ?」

「……うん」

「なら、その日に見るよ。シラクサ先生の卒業制作、それなりに期待してるからさ」

「そんな大層なものじゃないからやめて」

 そんなことを言われてももうどうしようもなく期待は膨らんでしまっていて、抑えようがない。まあ、大丈夫だろう。彼女なら、僕の期待に違わない作品を作るはずだ。ひたむきに描き続けていたその努力の足跡を、僕は知っている。

「じゃあ、今日は帰るよ」

 やけに短い滞在時間だったけれど、これ以上言うこともないなと思い立上がる。シラクサはキャンバスから目を上げないままで「じゃあね」と言った。

「ああ」と頷き、僕は美術室から出て、歩き出す。あるいは、それは終わりに向けて。

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