Miss-engel

 シラクサが裏庭の風景画を仕上げて、年が明けた。そうして僕らは並んで電車に揺られていた。

 クレーの絵を見に行こう。年内の最終登校日、そう誘ったのは僕だった。

 彼女はどうして、と聞くことはないままで「受験生なのに?」と笑って言った。理由も考えずになんとなく誘った僕からすると、その反応はありがたかった。

「行かなかったとしてその日一日中勉強をするはずもないだろ」

「君はそうだろうね」

「君は?」

「私だって言えるほど真面目じゃないけど、君よりは真面目なんだよ。ちゃんと欠かさず毎日単語帳を見るくらいにはね」

 それは、受験生としては威張れるほどのことではないかもしれないけれど、確かに僕よりはずっと真面目だった。酷い、どんぐりの背比べだ。

 しかし、彼女の言いようからするに断られたということだろうか。なんとなくの思いつきではあったものの、僕からすればそれなりに勇気を出して告げた誘いだったので、断られると少なからず傷つくところがあるのだけれど、強制をする力なんて僕にはどこにもない。むしろ、時期が時期だから断られたと言い訳が出来るだけましなのかもしれない。人間嫌いに限りなく近い何かの僕でも、人に嫌われることは中々辛いところがある。

 ただ、シラクサは悪戯っぽくにやりと口角を上げた。

「でも、クレーの絵を持ち出されると、私は弱いのですよ」

 そうして、僕らはクレーの絵が飾られている美術館に行くことになった。クレーの絵が飾られていない、近場の美術館も候補にあったのだが、クレーの絵のある方を選んで改めて良かったと思う。

 電車の中で僕らは、思い出した記憶を拾うようにぽつりぽつりと話をした。それは、閑散とした車内で喋ることが憚られたというのもあるのかもしれないけれど、やはり単に僕らの気性がゆえというものだったような気がする。元から特別話すことが得意というわけでもなかった僕らは、あの美術室の中で沈黙というものにすっかり慣れてしまっていた。何を言うでもなく肩を並べる姿は、傍から見ればもしかしたら素っ気なかったり、仲が悪いように見えるのかもしれないけれど、それは僕らが積み重ねてきたものだった。個人的な関係というものは、他人に理解される必要なんてない。その中で完結して、完成しているのなら、それでいいのだ。

 僕らは他愛のない話をして迫る受験からの逃避をしつつ、何度か電車を乗り継いで目的の駅に降り立った。僕にしても彼女にしても、ここまでの遠出というのは慣れたものではなくて、スマホに表示されたマップと睨みあいながら美術館に向かう。スマホがない時代の人たちはどうやって見知らぬ街を歩いたんだろうか、なんて模範的な現代っ子らしいことを考える。まあ、なんとかしていたんだろう。便利に毒されているから気が付かないだけで、やりようなんていうのは多分幾らでもあるんだろうから。

 美術館に着き、チケットを購入してから中に入る。高校生料金ということで一般料金と比べればそれなりに安くはなっているが、高校生の財布からすれば安い値段ではない。美術品の保管にはかなりの費用がかかるだろうし、そもそも高校生がわんさか来るような前提をされていないだろうし、仕方のないことなのだろう。

 美術館の中は年明けだからか思いのほか閑散としていて、僕としては気が楽だった。こういうところは人のいない方が集中が出来て、雰囲気が楽しめて僕は好きだ。僕らは動線に乗るまま、人の少ない館内を歩き始めた。

 シラクサはクレーの絵だけを見る、というような偏った見方をすることはなく、しっかりと展覧順に絵を見た。クレーの展示会をしているということでもなかったのでむしろ他の作家の作品の方が多かったけれど、シラクサは丁寧に絵を見て、それから解説の文章を読んで、進むという風にじっくりとひとつひとつの絵に時間をかけて見ていた。これだけ見られるのであれば描いた人間だって本望だろうし、何よりチケット代の元をとるには十分だろう。

 僕は殆どの時間、シラクサの横顔を流し見ていた。絵画に対する真剣でひたむきな表情に見惚れる、なんていう初心な理由ではなくて、彼女の移動に合わせて僕も移動をするからいつ動き出すのかを自然に窺っていたのだ。美術館に二人で行くというのは、思いのほか難しいものだということを、僕は初めて知った。

 ふと、僕はひとつの絵に惹かれた。それは、運命か、あるいは見慣れていた画風だったからこそひっかかるものがあったのか、パウル・クレーの絵だった。

 表題は『蛾の踊り』。藍色を基調として描かれたその作品は、どこか吸い込まれるような力強さがあった。表題から中央に描かれたものは蛾だと推測出来たが、僕にはそれは天へ昇る天使のようにも見えた。気高く、美しい、天使の踊り。

 画集で見るのと本物を見るのに、大した差なんてないと思っていたが、実際にこうして心を動かされるような作品に会うと分かる。これは、実物だからやはり感動するのだ。小さく画集に収められた絵ではここまで大きな感動は出来やしないだろう。

 僕は改めてシラクサに感謝をする。彼女がいなければ、僕はこのような世界を知らないで一生を終えていただろう。あるいは、何年後かに他の誰かに影響をされて出会っていたとしても、十代に出会うのとそれ以降に出会うのではまるで意味合いが異なる。彼女は僕の世界観を間違いなく押し広げてくれた。

 惚けたように『蛾の踊り』に見入ってから、暫くしてシラクサの方を見た。僕を待っていたのか、彼女も丁度そのタイミングで見終えたのか、彼女も僕の方を見て、目が合う。

「綺麗だね」と言って、これだとシラクサの容姿を褒めているように思われてしまうんじゃないかと気付く。ただ、そんなことを思ったのは僕だけみたいで「うん」と何事もなく彼女は頷いた。

「来て良かった。本当に」

「なら受験勉強をサボらせてまで誘った意味があったよ」

「淡々とイディオムを覚えるよりは、人生のためになってる気がする」

 僕らは『蛾の踊り』の前でくすくすと顔を合わせて笑った。天使のような蛾が僕らのことを見守っている。

 美術館で高校生が顔を合わせて笑っている。それは俯瞰して見れば酷く不可思議で、あるいは邪魔だと煙たがる人もいるだろう光景だったけれど、あつらえたように周りに人が通ることはなかった。

『蛾の踊り』を抜けて、多くの絵画と幾つかのクレーの絵を見て、僕らは美術館を出る。ただ絵を見るだけだろうと思っていたけれど、じっくりと絵を見て解説を見てとすると予想よりもずっと時間がかかって、昼前に入ったにも関わらず出た時には昼時をとっくに過ぎていた。

 ずっと立っていたせいで足もそろそろ悲痛な声をあげていて、冬眠明けの熊みたいにお腹だって空いている。互いにもうどこでもいいやという暗黙の了解の元、わざわざ遠出をしたにも関わらず近場にも溢れているハンバーガーチェーンで食事をとることにした。

 昼下がりという時間のお陰か、年明けにわざわざジャンクフードを店内で食べるような物好きが少ないからか、空席が多く、特に苦労をすることもなく席に座り、僕が彼女の分の注文も取りに行く。これくらいの甲斐性くらいは意地として見せたがるものなのだ。甲斐性なんて大仰な言い方をせずに、単純に親切と言えば済むだけの話なのだけれど。

 五百余円のセットを二つ、トレーに乗せて運び、シラクサから彼女の分の料金を受け取ってから僕らは向かい合ってハンバーガーを貪る。病気がちなイメージがあったからこういうものは食べないのかと思っていたけど、美術館にあれほど長く貼りついていたり、案外彼女は逞しい。

 一年話していても、僕はシラクサのことを全然知らなかったことを知る。人間関係なんて、所詮そんなもので、時間と関係の深さが比例するとはまるで限らない。それでも見えない何かを積み上げてきたと信じたいけれど、そんなものは希望的観測の域を出ない僕の願望に過ぎない。コーラを飲むといやに炭酸が喉を刺した。アールグレイを飲むシラクサを見ながら、自分は子供っぽいのだろうかと不安になる。でも、ハンバーガーと紅茶は食い合わせが悪い気がするし、もう暫くの間はコーラを頼み続けるんだろうなと思う。

 ハンバーガーを食べ終え、ポテトをぽつぽつと食べながら美術館の感想や将来への不安や現在への焦燥、過去への憧憬について語る。高校生らしい昼下がり。一月の受験生らしくない昼下がり。生産性のない充実した時間を過ごし、彼女が最後の一本のポテトを食べ終えると僕らはゴミを捨て、トレーを戻して店内を後にした。

 来た道を再びスマホと睨みあいながら歩き、駅に向かう。丁度良く着いた電車に乗り、席に座ると疲労からかシラクサは早速うつらうつらと船を漕ぎ始める。ゆっくりと進んでいく車内は夕方に向けて段々と落ちていく陽の光を入れて、心地よい揺り籠のようだった。これは、僕が起きていないと乗り過ごしてしまいそうだなと思い、なんとか微睡からの手招きを払いのける。

 これが終われば、正真正銘もう逃げることも出来ずに僕らは受験に向かうしかない。それが終わればさしたる間もなく卒業で、順当にいけば僕は東京に行くことになるんだろう。

 終わりはもう近い。僕らのこんな時間ももう訪れないのかもしれない。訪れたとしても、きっとその時こそが本当の最後で、くだらない感傷のような意味が込められることになる。

 冬の海に放り出されたような寒さと孤独感がした。僕は今、ゆるやかにそこに進み続けているのだ。僕の懊悩に関係なんてなく電車が走り続けるように、時間も僕を待ってはくれない。

 春は近い。ただ、誰もが春を待ち遠しいと思っているわけではない。いつかこの冬のことを思い出す時は、凍傷のように痛むのだろうか。そんなことを思いながら、目を瞑り電車に揺られるシラクサのことを見た。彼女は終わりなんてまるで知らないような、あどけない天使のように穏やかな顔をしていた。

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