Engel im Kindergarten

 その日は雨のせいで、窓から見える裏庭は溶けた油絵のように歪んでいた。

「東京に行くんだ」

 僕がそう告げると、シラクサの筆を動かす手が止まった。

「あっちの大学に行く予定なんだ。一人暮らしもしたかったしさ」

「動機が不純だね」

「十代なんてこんなもんだよ」

 例えば、いい大学に行くために上京をするとかなら良かっただろうけれど、僕がいける大学なんてたかが知れていて、実家から通える場所でも良かった。それでも、上京をしようと思ったのは、このまま朽ちるように死んでいくのかもしれないという焦燥感に押されるがためだったんだろう。大層な理想や目標はないけれど、それでも無為のもとに死んでいくのはどこか恐ろしかった。

「シラクサは?」

「私は、ここから通える適当なところに行くよ」

「へえ、意外だ」

「私は、君みたいな行動力がないからね」

「でも、それだけ絵が描けるならそういう大学に行けばいいじゃないか」

 シラクサの絵が絵を描くような大学で評価されるようなものなのかは知らない。けれど、少なくとも彼女は僕が見ている限り殆ど毎日のように絵を描いていた。飽きることなく、これだけひとつのことを続けられるのは間違いなくひとつの才能だ。挑戦をする価値は十分にある。

 けれど、シラクサは自嘲気味に笑って「無理だよ」と言った。

「君は私しか見てないから言えるのであって、ちょっと探せば私よりも努力していて上手い人なんて山のようにいる。そういう人たちがわんさか集まって、私が勝てると思う?」

「思うよ」

 僕としては大真面目に言ったつもりだったけれど、シラクサは「それはどうも」と笑って流した。人に言えることではないが、彼女は自己評価が低い。謙虚と言えば美徳に聞こえるかもしれないけれど、それは結局周りにとって耳障りが良いと言うだけであって、本人のためになるはずがない。もう少し自信を持てばいいのにと思う。自分のことは棚に上げながら。

「まあ、仮に私に才能があっても、一生を賭けられる覚悟はないからさ。いつかふっと絵が描けなくなったら、興味がなくなったら、そんなことを考えたら怖くて行けないよ」

「そんなもしもを考え始めたらきりがないだろ」

「別に、私だって心配性とか偏執病ってわけじゃないよ。でも、今私が描き続けている理由はあまりにも不安定なものだし、絵において重要なのはモチベーションだからさ」

 シラクサは歪んだ裏庭を見た。彼女の話に集中していて気が付かなったが、いつの間にか雨は激しくなっていて、不安になるほど強い雨音だけがどさどさと積もっていく。

「知ってた? 絵なんて描かなくたって人は生きていけるんだよ」

「それは、そうだろうけど」

「だから、やる気がないなら絵なんて描く必要ないんだよ、誰に強制されたわけでもないんだからさ。絵なんて描いてませんって人の方が多いんだし、そっちの方が正常なんだ」

 正常。まるで絵を描く自分を異常というような、突き放す言い方。その声自体に冷たさのようなのものは感じないけれど、だからこそ寂しさのようなものを感じてしまう。

「君は、絵が嫌いなの?」

「絵は好きだよ。でも、描くことに関しては、分からないんだ。どうして描くのかとか聞かれても、私は困って何も言えなくなるだけだよ」

 僕にとってその話は意外だった。芸術に関してとんと知らないからこそ、何かを表現する人というのは目標や情熱を持っているものだと勝手に思っていたからだ。少なくとも、万人がそうでなくても彼女ほど淡々と続けている者であるなら、何かしらあるのではないかと考えていたからだ。

「私にはないんだ。誰かに訴えたい気持ちも、考えも。どうにかして吐き出さないと狂いそうなほどの感情も、不安も。何も、ない」

 自らに鋭いナイフをつきたてるように深く、彼女は言って、再び筆を握った。僕は何も言えない。何を言ってもそれが無神経な慰めにしかならないことを知っているからだ。言った方の自己満足のためにしかならない言葉なんて、最悪だ。

 美術室は灯りをつけていないせいで薄暗いままで、降り続ける雨の音が時が止まっていないことを思い出させてくれる。僕はいつものようにシラクサが描いている姿を眺めながら、東京のことを考えた。昔、一度だけ訪れた時の灰色の街という印象と、田舎に住む者特有の都会への憧憬が混ざり合ったその印象は、恐らく半分ほど正しくて半分ほど間違っているんだろう。思っているほど悪いところでも、思っているほど良いところでもきっとない。問題はそこに自分が順応出来るかどうかだ。

 もし東京に行ったら、いや仮に行かなかったとしても、この関係は終わるんだろうと思う。習慣のように続けていた絵を見ることも、会話も、何もかもが零れ落ちるように僕の中からなくなっていって、やがて現実は思い出に劣化する。それは耐えがたいことだった。

 けれど、僕らみたいな人間は、この場所がないと繋がることが出来ない。世の中の多くの人には笑われるだろうけれど、そういう種類の人間は存在するのだ。能動的に人と関わることが怖くて、何かを介さないと人と繋がることが出来ない人間というのは。

 僕は未来の寂寞を紛らわせるように、近くにあったクレーの画集を手に取った。いつも、シラクサはふと呼吸を思い出したように画集を取るせいで自然と近くの棚に置きっぱなしになっていた。これが、彼女の本なのか美術室に元から置いてあった本なのか、僕は知らない。

 適当に開いたページには『幼稚園の天使』という絵があった。白い背景に、少ない線で描かれた不思議な絵。簡素で稚拙な絵にも見えるけれど、どこか惹かれるものがある。名の残る芸術家の絵というのはそういうものなのかもしれない。理解がなくとも心に残るものがある、そういう絵。この一年間、一冊の画集に目を通しきるということも出来ていない程度にはまばらにクレーの絵を見てきたが、僕はこの作家のことが作品の名前を幾つか覚えている程度には嫌いじゃなかった。

 クレーの絵を見ると泣きたくなる。彼女はそう言っていた。僕にはその理由が分からない。けれどいつか分かるようになるのかもしれない。あるいは、彼女とは別の意味で、泣きたくなるのかもしれない。そんなことを思いながら僕は『幼稚園の天使』を見ていた。

「もうすぐ今年も終わっちゃうね」と彼女は呟いた。「そう言えば、そっか」と僕は画集を眺めながら頷いた。今の今まで、年月という感覚を忘れていたのだ。結局、年とか月とか曜日というものは人間が勝手に決めた尺度に過ぎなくて、気にしようとしなければ案外それでも生きていける。受験生としては、気にするべきなんだろうけれど。

「もう殆ど時間が残ってないね」

 ゆっくりと刺すように告げられたその言葉に、僕は思わず顔をあげて彼女の方を見た。まるで彼女も僕がついさっきまで考えていた、関係の終わりについて言及をしたように思えたからだった。

 しかし、冷静に考えれば彼女が指しているのは受験までか、卒業までかという方がしっくりくるし、何より彼女は自分の中で完結させるようにずっと絵を描き続けながら言っていた。僕に対しての言葉にしては、些か虚しいものだった。

「君は、最後まで絵を描き続けるのか?」

「うん。これと、あと一枚描きたいと思ってるんだ」

「あと一枚も?」

 一枚の絵を描くのにかかる正確な時間なんていうものを僕は知らないけれど、受験生が十二月の半ばを過ぎた今、卒業までに一枚絵を描くというのはなかなか難しいように思える。

「どうしても描きたい絵があるから」

 ぽつりと、彼女はそう呟いた。「へえ」と僕は思わず意外そうな声を出す。彫像や学校の裏庭を好んで描くような人間は、いないとは言わないけれど少ないだろう。シラクサにしても僕の想像とは違ってはいなくて、望んで描いていたようには見えなかった。ただ何となく、描くものがないから描いているといった様子だった。そんな彼女が描きたい絵があると言ったのが意外で、そして嬉しかった。

 シラクサの描きたい絵とはどんなものなんだろう。それこそ、クレーのような絵なのだろうか。僕はそれについて考えつつも、しかし聞かないようにすることにした。口に出してしまえば崩れてしまう考えや情熱というものがあるからだった。話したいのならそれを拒むつもりはないが、少なくとも僕の方から聞くべきではない。

「楽しみにしてるよ」

「されるほどのものじゃないよ」

「前々から言ってるけど、僕は結構君の絵が好きなんだ。確かに、美術的な目利きなら君の方があるだろうし、自分の作品だからこそ粗が見えてきて君自身では納得がいかないことも多いだろうけど、少なくとも僕は君の作品が好きだということは、覚えておいて欲しい」

 人は自分の視点からでしか世界を見ることが出来ない。だからこそ、自分で自分を嫌ってしまえば、自分という人間があたかも世界中から嫌われているようにも錯覚をしてしまいかねないけれど、そんなわけは勿論ない。大体、どんなものでも物好きはいるのだ。そう悲観的になんてならなくてもいい。

 シラクサは筆の動きを止めて、ひとつため息を吐いた。

「……君のそういうところ。美徳だと思うよ、私」

「そういうところ?」

「人のことを素直に褒められるところ」

「そうかな」

「そうだよ」

 人のことを褒めたことなんてシラクサの絵くらいだし、そんな普遍的に僕のことを良い人間みたいに言われるのはどこかむず痒さを覚える。言うまでもなく、僕はそこまで出来た人間ではない。だから、僕は信頼とか信用とか、そういうものは苦しくてあまり好きじゃなかった。勝手に期待をされて、そこから外れれば落胆されて。まるでお互いのためにならない。

「そうかな」と僕はもう一度呟いた。

「そうなの」とシラクサは再び言って、それからまた筆を動かし始める。単調な筆の音が、雨音の中でメトロノームのように周期的に響いていた。

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