クレーのいた冬

しがない

es weint

「クレーの絵を見ると、泣きたくなるの」

 冬の美術室で、彼女はそう言って笑った。溢れ出しそうな涙を抑えるために作ったような、ひどく脆い、悲しい笑顔だった。

「なんでなんだろうね」

 その言葉は、問いかけの体を保ってはいるものの、十二月の終わりに白い息を吐くような、彼女の中で完結した行為だったんだと思う。それでも僕は、その虚しさに耐えきれなくて「さあ」という曖昧な言葉で沈黙を埋めた。彼女は僕の答えなんか聞いていないみたいにぼうっと窓外を眺めて、それから再びキャンバスに向き直る。寂寞とした裏庭の風景が、油絵具をもとにキャンバスの中に積み上げられていく。

 シラクサは絵を描くことが好きだった。絵を描くことだけが好きだった。病気がちな、唯一の美術部員。望んだのか結果的にそうなったのかは知らないけれど、孤独を選るようなその姿は彼女の果敢なさをより強めているようで、どうしても痛ましく思えた。

 僕は芸術なんて分からない。ゴッホやダリの良さなんてまるで分からないし、そんなよく分からない絵に対して偉そうな顔をした人間がやたら小難しい言葉を使って解釈を付け足しているのを見ると馬鹿らしいとさえ思ってしまう。ただ、シラクサの絵だけは別だった。

 彼女の絵は岡本太郎のようにアヴァンギャルドでも、ミレーのように精緻に現実を写しだすわけでもない。彼女よりも上手い人なんていうのは山ほどいるだろうし、色彩の少ないその絵を味気ないとかつまらないと言う人もいるだろうと思う。けれど、彼女の絵には危うい力があった。草木のひとつもない、誰もいない荒涼とした平野のような、不安定で一度手放してしまえばそのまま崩れてしまいそうな美しさがあった。

 シラクサの横にはパウル・クレーの画集があり、『泣いている天使』のページが開かれていた。その絵に込められたメッセージや背景なんていうのは分からないけれど、良い絵だな、と思った。本来、芸術への評価はこれくらいささやかなもので良いのかもしれない。

 僕はパウル・クレーについて、名前と、数枚程度の絵しか知らない。だから、どうして彼女がその人物の絵を見て泣きたくなるのか、僕には分からない。分かるはずもないのかもしれない。

 筆がキャンバスを彩る音を聞きながら、僕は彼女と会った日のことを思い出す。丁度一年前の冬の日、死んだように静まり返った校舎の中で寒さに急かされるように歩いた廊下に響く上履きのぺたりとした音を。

 僕は美術の鑑賞用のプリントを提出するために美術室に向かっていた。別に、出さなくてもどうにもならないだろうけれど、時間は有り余っていたのだ。そして、有り余った時間を勉強に充てるほど僕は勤勉な人間ではなかった。

 その日の校舎は部活の音すらしなかった。単に定休日が重なっただけなんだろうけれど、部活動も冬眠に入るのかもしれないとか、そんなことを考えた。

 美術室に着き、特に考えることもなくドアを開く。ノックをして名前を告げなければいけないほど堅苦しい空間ではないはずだし、僕は美術を教えている教師が嫌いじゃなかった。口数が少ない、気難しそうな先生だけれど、それは芸術に携わっている人間特有の気難しさで、僕はそれに少なからず憧憬を覚えるような人間だったのだ。

 ただ、美術室にその先生はいなくて、代わりに一人の少女がキャンバスと向かい合っていた。それが、シラクサだった。

 まるで、美術室に置かれた彫刻のひとつのように彼女は美しく、入って来た僕をまるで気にすることもなくキャンバスに向かい合い続けた。しんしんと響く筆の音が、心地よく耳朶を撫でる。

 この部屋が、ひとつの芸術品であるかのようだった。スノードームのように、あるいは箱庭のように完成された小さな空間。そこには独自の世界が出来ていて、だからこそ僕はこれ以上踏み入って良いのかと考えあぐねる。しかし、美術室の入り口から絵を描く彼女を見るというのは全く苦ではなくて、むしろ進んで眺めていたいくらいだった。だから、彼女が口を開いたのは、僕がドアを開いてからどれくらい経ってからだったのか、正確なことは分からない。

「何か用?」

 筆を置いて、彼女は小さくそう言った。彼女は、僕に気が付いていなかったわけではなく、単に絵の進み具合のキリが悪かったんだと、その時に僕は知った。

「美術の先生にプリントを出したくってさ。いつもここにいると思ってたんだけど」

「もう帰ったよ、あの人。非常勤だから、帰りが早いの」

 考えてみれば当然でもある話だった。美術の先生がいつまでも学校に残る必要もない。

「もっと早めに来ないと駄目かな」

「そうだね。放課後に入ってすぐなら顔出すから、その時に渡せば良いと思うよ」

 彼女の声は冷たかった。けれど、それは素っ気ないとか不愛想という意味ではなくて、眠った猫のような柔らかい冷たさだった。

「渡しておこうか、それ」

 そう言って彼女は筆を握っていた、白い右手を僕の方に差し出した。細い、触れればなくなってしまいそうな手。その手が差し向けられるその提案はひどく魅力的なものに思えた。けれど、僕はその手に応えることはなく、プリントを畳んでポケットの中に仕舞った。

「自分で渡すよ。どうせ、暇なんだ」

「そう」

 彼女は厚意を無下にされたことを怒るでもなく、ただ短く頷いた。彼女にとっては、厚意とも言えない、ささやかな当たり前の所作だったのかもしれない。この時既に僕は彼女に惹かれるものを覚えていたんだろう。

「君の名前は?」

「シラクサ」

 シラクサ。口の中で繰り返す。冬の雨が屋根をノックするような、軽やかで耳障りの良い、綺麗な音だ。あるいは、それは彼女の口から零れ落ちるように出たからこそそれほどに良い音だったのかもしれない。

「そういう君は?」

「アズマ」

「良い名前だね」

「ありふれている名前だよ」

「ありふれていることは悪いことじゃないと思う。勿論、珍しいことも悪いことじゃないけどね」

 ありふれたという言葉を陳腐と捉えるか正道と捉えるかの違いなんだろう。僕のような、何にでも陰鬱に曲解してしまう人からすると、そうして考えらえることは眩しかった。

「いつもここで絵を描いてるのか?」

「うん、一応美術部員だからさ」

「へえ、ウチに美術部なんてあったんだ」

「部員は私だけだけどね」

 ふふ、と可笑しそうに彼女は笑った。空虚な美術室に対して寂しさのようなものを感じているわけではないようだった。強かな人なんだろう。ただ、その強かさは天性のものではなく、痛みに慣れて得た強さだ。そういう危うさを彼女は内包していた。

「楽なんだよね、独りだと。画材も自由に使わせて貰えるし、良いことばっかだよ」

「確かに、それは良いかもしれないな。画材なんて安くないだろうし」

「そうなの。絵具とかキャンバスとか筆とか、一々自分で揃えるってなると高くて仕方がないんだよね」

 彼女は重たいため息とともに乾いた笑いを零す。昔の画家のような悩みだなと思ったけれど、僕が知らないだけでどの時代の画家もこんな風に悩んでいるのかもしれない。

「上手いね、絵」

 シラクサが描いていたのは幾つか並べた彫刻だった。ローマ人らしき白い頭部を、油絵具で描いている。少なくとも、素人目からすれば十分に上手いと思えるような出来だ。

「お世辞?」

「まさか。本心だよ」

 僕は自分に出来ないことが出来る人のことを尊敬している。特に、絵や音楽に関しては関心があるだけに尚更のことだった。

「なら、ありがたく受け取っておくことにする」

「そうして貰えると、僕も助かる」

 行く宛てのなくなった感情は虚しさを引き連れて心の中に帰って来ることになる。それは冬の寒さには些か滲みる痛みだし、厄介な病のように暫く身体の中に巣食うことになる。僕は蝕むようなその痛みに堪えられるほど、強い人間ではないのだ。

 邪魔をしているのかもしれないと思った。それと同時に、もう少し彼女と話していたいとも思ってしまった。折り合いのつけられない気持ちはせめぎ合い、冷たい静けさだけが美術室に反響する。シラクサは何を言うでもなくただ僕の言葉を待っている。

「また、来てもいいかな」

 いつの間にか、花が散るように自然とその言葉を告げていた。

「邪魔はしないよ、ただ、君が絵を描くところを見たいんだ」

 断られるだろうと思った。芸術を試みたことはなくても、人に見られてするものではないということくらいは分かる。それでも、僕は縋りたかった。また、この世界から隠されたような美術室で彼女のことを見ていたかった。

「いいよ」と彼女はあまりにもあっさりと頷いた。

「でも、毎日いるわけじゃないから、いなかったら申し訳ないけど」

「僕が好きで来るだけなんだ。申し訳なさを覚える必要はないよ」

「それもそうだね」

 シラクサは笑った。僕も笑った。そうして、僕は美術室に通い始めた。一年も。

 季節は冬から春に変わり、夏へ、そして秋、再び冬と移ろった。シラクサが描く対象も彫刻から風景画へと変わったし、僕らは三年生になった。けれど、変わっていないことが二つある。シラクサはクレーの絵が好きだということと、僕らの関係。生まれた時から決まっていたように、これらは何も変わらなかった。

 ただ、春が来て雪が溶けるように、僕らは変わっていく。クレーの描いた天使は変わらず涙を零したままで。

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