無為に死んで逝かれた皆様におかれましては。

零河 昏

第1話

「麦茶か緑茶か……水か…………、」


 譫言うわごとのように呟きながら、彼女は自動販売機と睨み合う。堂々と佇む赤い長方形は、西日に照らされ、より一層赤みを増していた。


「あー、もう! もういい! いいや! 全部どうでもいい!! コーラ買ってやるッ! 二本――いや三本買ってやる!! わたしが経済を回すんじゃァァアアア!!!」


 言下、彼女は千円札を自動販売機に突っ込み、コーラを購入し、お釣りを再入し、コーラを購入し、もう一本買おうかとした所で煩雑さに敗北を喫した。

 彼女がここまで取り乱し、コーラの力を以て執拗に日本の経済を回そうとしている理由は、以下の通りである。



 物事に終幕はつきものであり、そしてそれらは何の前触れもなく唐突に訪れるものであり――事実彼女、日下部くさかべ 飛鳥あすかの人生もその例に漏れず、女手一つで彼女を育ててくれた母親の一生は急逝という呆気ない幕切れを迎えたものであるし、飛鳥自身もまた、味気のない幕切れを迎えようとしていた。

 或いは、既に今現在こそが、彼女に取って事実上の人生の終着点であるのかも知れない。


『ステージⅣの末期癌――本来こういう事を言うのは避けるべきですが、私の経験から推測するに、余命半年といった所でしょうかね。まあ、治療を施せば充分に回復が見込めます。現に近頃の日本では、あなたのような患者さんでも、内48%は五年以上の生存が認められている訳で――』


 と、掛かり付けの医師より伝えられ言葉はこれに限らないが、彼女の記憶している分はこれが全てだった。と言うのも、彼女はこれより後の言葉が頭に入っておらず、そもそも確りと聞いていなかった節があるからだ。


 ――余命半年。


 未だ治療の余地は残っているものの、失敗すれば徒に時間と金を浪費するだけであったし、成功しても約百万円を失う事となる。貯金総額二百二十万円の彼女に取って、その治療費は高価なものに他ならず、財産の半分を賭けた大博打には、終ぞ踏み切れそうもなかったという寸法であった。



 適当なベンチに腰を下ろし、飛鳥はコーラを一缶呷る。

 盛大なゲップを幾度かに分けて解放し、腹内の二酸化炭素を充分に吐き出した所で、それを発端としたか堰を切ったように押し止めていた溜息までもが止め処なく溢れ返った。


「はぁ……」


 日下部 飛鳥、現在二十四歳。

 余命半年。その事実が彼女を掴んで放さない、思わず目を窄め、視力の低下を恐れずに西日を直視してみた。所詮は六ヶ月の命、その間に落ちる視力など、最早どうあろうとも構わない。


 しかし、何も彼女は人生を諦めた訳ではないのだ。確かに生きる事は――半年後の生は諦めているが、それは現在を彩る為の選択に過ぎない。即ち、彼女は退屈な未来よりも楽しい今を欲した訳であり、


(まぁ、思い悩んだ所で結局は死んじゃう訳だし?)


 これからは自堕落に過ごし、天気の良い日には外をぶらぶらと散歩して、家ではスナック菓子を心ゆくまま食し惰眠を貪る。そういった、己の欲望と忠実に向き合った暮らし――彼女なりの「幸せ」な日々――を送る事に決めていた。


「たとえ短くっても、楽しい方が良いに決まってるよねー」


 これで良いものかと僅かに生じた疑義から目を背ける為、敢えて口に出した独り言はしかし、


「そうだね、僕もそう思うよ」


 直ぐ傍で相槌を打たれたばかりに、独り言足り得なくなってしまった。


「ぅへあっ!? 誰っ!?」


「僕は天使。天使のマスカルウィン――」


 その人物は、背中に猛禽類を思わせる広翼を有しており、字面通りの赤毛が眩い、その頭上には輝く光輪が浮遊していた。

 は真っ赤な双眸で飛鳥を見遣り、中性的な顔に悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべ、さながら幼児が母親に玩具を強請るが如く、


「――君の寿命が欲しいな」


 などと、とんでもない事を言って退けた。さも平然と、まるで何でもないかのように。


「僕なら君を三時間で殺せる。穏やかに、緩やかに、一切の艱難辛苦かんなんしんくを伴わずに死なせられるんだ。どうだい、魅力的な提案だとは思わないかい?」


「ふぅむ――」と、やけに落ち着き払った様子で飛鳥。「わたしは残り半年の人生を謳歌する積もりであって、何も死に急いでいる訳じゃないんだけど……」


 しかし脳内では、マスカルウィンが果たしてショタに含まれるのか否かを、割と真剣に考えていた。やけに落ち着いていたのではなく、自棄ヤケが故に落ち着いていたのかも知れない。何分マスカルウィンの見た目は十三歳かそこらである、ショタか否かは重大な問題であった――と言うかマスカルウィンに性別の概念はないのだが。


「でも、考えてごらんよ。君の人生が残り半年だったとして、満足に遊べる期間はどれくらいなのかな? あとどれだけ、君は活発に動けるのかな?」


(いや、ってかこれ幻覚だ。わたしの寿命は思っていたより短かったのかも知れないねえ)


 続けて飛鳥が『あ、天使って事はもしかしてお迎え?(笑)』とか何とか思っている間にも、マスカルウィンはお構いなしに話を進める。


「僕なら君の願いを叶えてあげられるよ。とっても楽しい数ヶ月か、天使との希有な三時間。君はどっちを選ぶのかな?」


 斯くして――日下部 飛鳥は、天使マスカルウィンと手を繋いでデートをしていた。と言うのも、身体的接触こそが、寿命を吸い取るトリガーとなっているらしい。

 貴重なショタ(仮)との時間――ではなく、希少な天使との時間である、飛鳥は心の底から三時間の余生を楽しんでいた。


「そう言えば、」ソフトクリームをペロペロと舐めながら、マスカルウィンが切り出した。「君の願いを聞いていなかったね」


「わたしの願い? そうだねえ、君とのデートは願うまでもなく必然的に叶っちゃったし……あ、そうだ。良いこと思い付いちゃったー」


 道徳心と倫理観を母親の胎内に忘れて来てしまったかの如き悪辣極まる笑みを浮かべ、クツクツと邪悪な嗤い声を奏でながら、己の望みを、飛鳥はマスカルウィンに耳打ちで告げた。


「叶えてあげよう、その願い。約束は違えない、僕は飽くまで天使だから」


 それからは、うふふあははと笑い合いながら――マスカルウィンが真顔であったのは些細な事である――浜辺を駆けてみたり、私服のままで――マスカルウィンがとても嫌そうな顔をしたのは些細な事である――海を泳いでみたり、二人して自転車に跨がり――マスカルウィンが呆れ返りながらも案外怖がっていたのは些細な事である――存在しない青春を感じてみたりと、そんな風にデートを楽しんだ後、気付けばあっという間に三時間が経とうとしていた。


「マスカルウィン……わたしがを願ったのはさ、何も社会への反骨心だとか、復讐心だとか、そういう負の感情とセットの動機じゃないんだー」


 ゴホ、ゴホッ、と何度か咳き込む飛鳥。


「どうやらわたしの寿命もそろそろお終いみたいね……」


 一切の艱難辛苦を伴わずに死ねる、とマスカルウィンは言っていた筈だが、咳は苦しみの内に入らないのだろうか? という疑問を抱く飛鳥。


「タピオカ喉に詰まらせて何言ってるんだか。あと十分くらいは猶予あるってば」


 優しげな手付きで飛鳥の背を擦るマスカルウィン。その姿は一見慈愛に満ち溢れているようであったが、その実マスカルウィンは例によって真顔だった。

 無論、それが何の感慨も抱いていない証拠にはならないのだが。


「あぁ……眠くなって来た。どうやら、お迎えが……」


「遊びまくったからでしょ。そりゃ眠くもなるよ」


 畢竟ひっきょう、飛鳥はそのままマスカルウィンの膝に頭を乗せ、スピスピと寝息を立てて、静かに、静かに、そして最期に『コーラもう一本!!』と特大の寝言を残して息を引き取った。何とも呆気ない幕切れであるが、彼女に取ってこの上なく幸福な終わりであった事に違いはない。

 その最期を見届け、マスカルウィンは失笑混じりに優しげな笑みを浮かべた。


 ……。

 …………。


 日下部くさかべ 飛鳥あすかが消息を絶ってから三日後。世界は未だ彼女の消失に気付いてはおらず、そもそも知った事ではないとばかりに、ニューヨークの夜空は澄み渡っていた。

 星空が煌めく中、赤髪の天使は自由の女神が掲げる炬火の上から、静かに辺りを見下ろしていた。深夜とあってか、観光客の姿は認められない。


(……まったく。本当に贅沢だなぁ。自由の女神の上で、札束風呂みたいな棺に入って火葬されたいだなんて……)


 天使マスカルウィンは呆れたように嘆息を零した。だが、契約は契約。取り交わした約束事は守らなければならない。

 自由の女神の上で、札束風呂の如き棺桶に入れられ火葬されたい――というのが飛鳥の願いであるのならば、マスカルウィンにはそれを叶える義務があるのだ。


「叶えてあげよう、その願い。約束は違えない、僕は飽くまで天使だから」


 いつかも口にした決まり文句を吐き捨てて。

 指を鳴らし、札束風呂の如き棺を、そしてそこに飛鳥の遺体を出現させた。


「要するに、君は派手に死にたかったんだろう?」


 飛鳥はマスカルウィンへの願いを打ち明けると同時に、己の境遇についても語っていた。曰く、彼女の家は昔から貧乏で、贅沢をする余裕もなく、そして清貧であろうと自分に言い聞かせていた為、彼女はあまり人様に迷惑を掛けて来なかったのだ。

 だからこそ、した。

 別に自由の女神ではなく、姫路城でもマチュピチュでもピサの斜塔でも良かったのだが、そこは飛鳥の塩梅である。


 死んだ後の事なんてどうでも良いとばかりに。


「もっと派手にしてあげよう。これは僕からの、せめてものサービスだよ」


 ――マスカルウィンは、札束とに包まれた棺に火を放ち、その場を立ち去った。


 ……。

 …………。


 自由の女神の炬火上に不審人物の姿が捉えられた五分後に、自由の女神が爆破され、バラバラになってしまった事は、怪奇現象の一つとして脈々と語り継がれていく事となった。何せ様々な分野のプロがこぞって現場の調査をしたにも関わらず、下手人の手がかりは何一つとして見付からなかったのだから。

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