終わり

十八歳。引きこもり生活は二年続いていたある日。祖母から電話があった。

要件は自分の店でバイトしろ。だった。

祖母は居酒屋を切り盛りしていて何もすることがないなら手伝えということだった。

柚葵だって何もしていないわけではなかった。作った料理のレシピを動画配信に載せたり、ブログに載せたり。絵を描いたり、小説を書いたり。自分でも出来ることを模索していた。……お金にはならなかったけど。

でもこのままでは何も変わらない。そう思ってその誘いにのってみることにした。身内がいると働きやすいだろうと祖母も言ってくれた。

その日からは少しだけ日常が変わった。

動画配信やゲームの日々に十七時からは接客をするようになった。その中で思い出は何ですか? と聞かれると真っ先に酔っ払いがもっと嫌いになった。と声を大にして言いたい。なんなんですか、あのハメの外し方は……。

それに長く家族以外とは話さなかったから会話がうまくできなかった。

「柚葵何歳になった?」

と聞かれれば必然的に【学校】の話題が出る。その度に怒られることもたくさんあったし、【学校】の話題にはいつも肝を冷やした。うまく流せないのが悪いんですけどね。

『学校も卒業できない奴に仕事なんて出来るか』

『そんなんじゃ世間に出ていけないよ』

『こんな孫をもっておばあちゃんがかわいそうだとは思わんのか』

酒臭い息と共に吐きだされたそれらはいちいち柚葵の心をえぐり、胃を痛くさせた。

 何も知らないくせに。そう思いながら布団に入る日も幾度となくあった。なぜ今日あったばかりの他人にとやかく言われないといけないんだ。その思いが強くなり、話題を振られないように会話本を買い勉強した。

怒られないように来店した時に話していたその人の好きないものとか今気になっているものや話題を家に帰ってからたくさん調べた。

釣りをするにはこの時期は何が釣れるよ、お勧めしたいケーキ屋さんがどこそこにあるよ、とそんな話題を自ら話すようにしてみた。

するとどうだ。これが効果覿面。

『若いのにそんなことまで知ってるの?』

『あのケーキ、美味しかった』

『逆にいい子と教えたるわ』

怒られることがだんだんと減っていった。『やるな! 自分』とここだけは自分で自分を褒められるところだと思う。

そのことで少しずつだけど働くことが楽しいと感じてきたりした。

引きこもりの時には感じなかった、生きているという感覚で日常が輝いて見えたりもした。



「お祝いはお寿司にしたいと思います!」

 運転する横でことりは子供みたいにはしゃいでいた。

「自分が食べたいだけでしょ」

「え? なんでわかったの! あたしのこと大好きかよー」

 そう言い、わき腹をつんつんしてくる。やめろよ。事故るだろう。

「だってことりお寿司好きじゃん、ぶりとか」

「そういう柚葵だってエビが食べたいんでしょ? ほれ、言ってみ。僕はエビが食べたいですって」

「ボクハエビガタベタイデス」

「何そのむかつく棒読みー!」

 隣でケラケラとの中を抱えて笑うことりはいつも以上に楽しそうだった。

「…………柚葵は安全運転だね」

 さっきまで笑っていたと思ったら今度はどことなく寂しさを漂わせる表情でそう言った。

「急にどうしたのさ」

「特には、どうってことはないんだけど。安産運転だよねって思ってさ」

「そりゃ、大好きな人を隣に乗せているんだから安全運転に決まってるよ」

「ふーん」

「興味なしかーい」

「…………興味ないことはないけど、最近思うんだよ。免許取ってた方がいいのかなって」

「身分証明書とかになったりするからあってもいいと思うけど今そんなに困って無いよ?」

「うーん、柚葵だけに運転してもらうのも悪いなって思って。でも事故起こしそうで怖いなとも思う」

 元気な下げに口をとがらせることり。彼女は彼女なりに考えてくれているのだな。ただすぐに慌ててしまうところがあるのは事実だから事故はあり得ない話ではない。でも柚葵だって似たようなところはある。そんな柚葵も取れたのだから大丈夫なようにも思う。

「教習所ってどんなところだった?」

「教官によって言うことばらばらだよ」

「なるほどね」

 柚葵が教習所に通いだしたのは少し暑さも落ち着いた十月の頃だった。

 普通のアルバイトよりは金額は少ないもののアルバイト代を祖母は用意してくれていたのだ。そのお金で通うようにした。

 初めての教習所内を走行するのには緊張した。テーマパークにあるゴーカートともゲームセンターにあるゲームともそれは全然違った。違いがあって当たり前なんだけど……。

 特に今ではそんなことも感じないが教習所内での四十キロはジェットコースターに近い感覚があった。

「もっとスピード出そうね」

 教官にそう言われてしまうほどビビっていたみたいだ。仕方がないだろう。ジェットコースター嫌いなんだから。

 それを抜いて苦手だったのが高速道路の合流だ。猛スピードで走ってくる車の中を上手に走るのは今になっても慣れない。優位と言っていいほどに。

 あれを毎日行う職業の方は拍手ものだ。

 そんなこともありながら順調に仮免許に進み、本試験も一回で合格してはれて運転免許証を獲得することが出来た。

『免許取れた』

 そのことが、そんな些細なことにその時の柚葵には大きな前進で自信がついた。これがクリア出来たんだから何でもできる気がする。

 もう一度、もう一度。身内ではないちゃんとした会社で働いてみたい。その気持ちが増えた。

 今よりももっと誰かの役に立てる仕事に。

 そうして面接を受け、決まったのが子羊さんや店長がいる会社だった。

 覚えることが多く、初めはたくさんミスをしたけど充実した日々を送れた。その日々の中で出会えたのがことりだった。出会いはネットだ。

今では驚かれることも少なくなってきてはいるものの当時はよくないものとしてワイドショーがにぎわっていた。

『ネットで知り合った男に襲われた』

『ストーカーの始まりはネット』

 数々の言葉がネットやテレビ、新聞に載っていた。

 世の中怖いものだらけ。ネットで会うなんて……。最初はそう思っていた。

 しかし、好きなアニメの話やお互いの好きなものが似ているところなんかに少しずつ惹かれて行ってしまった。

 会いに行くきっかけが出来たのは柚葵が人生初のコンサートに当選した時のこと。姉が一緒に行くことになっていたのだが「行きたくない」の一言がとんできた。一緒に行ってくれると言ったから二枚も応募したのに。柚葵は焦った。それはとんでもなく。

 かたっぱしに『一緒に行ってほしい』と友人に当ったが断られてばかり。

さあどうしましょう。

迷って出した答えはネットで聞いてみようだった。最初に声をかけたのがことりだ。でも返ってきた返事は案の定『いけない』それが普通だよなと思った。その後に来た返事にこれまたびっくり。なんと東北に住んでいるときた。

遠すぎるわ!

素直に思った。関西に住んでいる柚葵にとって東北は未知の世界だった。

それがありお互いの住んでいる話をたくさんやり取りした。結局コンサートは一人で行った。初めてながらもすごくすごく楽しかった。

その出来事があって電話で話すようになった。電話まで話すのに二か月かかった。うぶだな、と当時の自分を褒めてやりたい。

「もしもし、ことりさんですか?」

『はい……。ことりです。柚葵さんですか』

「はい。柚葵です」

 会話しろよ、と頭で唱えるも本当に女の子だったという衝撃の方が大きくて多分どもってしまっていたと思う。

 さぞ気持ち悪かったことだろう。

 それから電話をする度に色んな会話をしていつしか会ってみたいという話題がちらほら上がり始め、その年の夏に会ってみようということになった。

 しかし、柚葵には不安があった。障碍のことをどう伝えようかと。会いに行くと決まってしまった手前、柚葵も男だ。

『やっぱりいけませんでした』

 なんてことは言えそうにない。かといって精神の方は隠せたとしても身体となると隠せるようなものでもない。

 この関係が終わってもいいから伝えるほかなかった。あんなに手の震えた電話は初めてだった。

「…………」

『……どうしたんです。柚葵さん?』

「……あ、あのですね……。その……ことりさんに黙っていたことがありましゃて……!」

 噛んだ。それも思いっきり。

『黙っていたことですか』

「は、はい。実は僕、牛尾柚葵は……。障碍者なんです!」

 勢いあまって大きな声が出てしまった。

『…………』

「……あ、もしもし? ことりさん……?」

 いきなりそんなこと言われたら困るよな。なんて返事すればいいかわかエア亡くなるよ、そりゃね。

 内心諦めを決めた。

『……あっ! ごめんなさい! 突然のことでびっくりしただけです。でもそれだけですか?』

「それだけとは……。障碍者ですよ? 僕」

『それがどうしたのかなって思って。それがあるからって柚葵さんが何か変わるんですか? 柚葵さんは柚葵さんですよ。それに私楽しみにしてるんですからね、カラオケ一緒に行くこと』

 一生に一度くらいの気持ちで言ったことをすんなり流されてしまったのだ。

 これには驚いた。

 その日が過ぎて会う日の当日。

二泊三日で僕が彼女のもとに向かった。友達と旅行に行くと嘘ついて……。

 人生初めての一人で乗った飛行機は酔いました。盛大にトイレでリバースしました。

「大丈夫ですか!」

 客室乗務員さんにそう言われるくらいに盛大に……。柚葵の顔色の悪さに笑っていたようななかったような気がする。多分思い違いだろう。

 


「やっぱりお寿司はブリだよね!」

 脂ののったブリを口に運びながら幸せそうにこよりが笑った。

「俺はエビだな」

「ホント柚葵はそればっかりだよね。まあ美味しいけどね」

「次はエビ天うどんにする」

「はいはい。そういえばさ、初めて会った時もうどんじゃなかった?」

「うどんじゃないよ。キノコ雑炊だよ」

「あーそうだったね! あの時、柚葵吐いてたから二人で分けたんだよね。雑炊。で私が柚葵の嫌いなキノコ全部食べてあげたんだよね!」

「そうですそうです。その節はありがとうございましたよ」

 テーブルをはさんでふざけたお辞儀をする柚葵にことりのデコピンがさく裂した。痛いんだぞ、それ。

 あの時と一緒だし。

 初めての東北の空気は関西とは比べ物にならないくらいに美味しく感じた。

緑がいっぱい。テレビでよく見た東北は辺り一面銀世界の様子しか見たことがなかったので緑があるのはとても新鮮だった。

「柚葵さん、緊張しすぎです」

 額に緊張の汗を流す柚葵にことりは優しくデコピンしてきた。

「痛いですよ! っていうかことりさんが可愛いのがいけないんです」

「何言ってるんですか? 私可愛くなんてないです。ブスです」

「そんなことないですよ! 素敵なんです!」

 多分だけど、いや確実に鼻息出まくりだったと思う。それくらい伝えたいことだった。ここに向かう途中まで頭にあった『お金をだまし取られるかもしれない』という感情はこの時には東北の空気と同じように澄んで消えていた。

「遠いのに来てくれてありがとうございました。疲れてませんか?」

 コンビニで買った飲み物を手渡しながら心配そうにことりが顔を覗き込んできた。

「だ、大丈夫ですよ。それよりも会うのが楽しみでずっとドキドキしていました」

「ホントですか?」

「本当ですよ! 会いたくなかったら来ませんよ」

「嬉しい……」

 クシャッと笑う彼女は幼さが見え隠れしていた。

「逆にあの、僕はおかしくないですか?」

「おかしいですよ? 寝癖が」

 僕の髪を指さしながら彼女はクスクスと笑い、言った。

「こちらこそ、ここは関西みたいに都会でもないですし田舎だから何もなくてすみません……。楽しんでもらえるか不安です」

「いやいや。そんなこと気にしてほしくないです。自然がいっぱいで僕はこの場所、もう大好きになってますよ!」

「それは言い過ぎじゃないです?」

「そんなことないです……。それにことりさんが育った町を見たいんですよ」

 そう言ってやりすぎかと一瞬迷ったがそっと手を繋いでみた。それに彼女は頬を赤らめながら優しく握り返してくれた。

「カラオケ行きませんか? 柚葵さんの歌聞いてみたいです」

 握った手を引き、ことりは歩き出した。

「行きたいって話しましたもんね! 音痴ですけど行きましょう」

 その姿はどこにでもいる恋人とさほど変わりなかっただろう。

 その日は音痴なりにたくさん歌った。ことりさんの歌声は歌手のように上手だった。途中から聞き役に回りたくて仕方がなかったのは今でも黙っていること。

 一日目はほとんどカラオケにいて二日目に色々まわることにした。

 温泉にも行った、博物館にも行った、冬の氷が解けるように道路から水が出されることも初めて知った。

 今までの人生で一番濃い二泊三日だったかもしれない。それくらい心に残ったことだ。こんなに人といて楽しいかったことはない。そう断言できること。

 そんな時間の最終日。ことりさんに自分の気持ちを伝えた。

 返事は言うまでもない。人生初めて尽くしの出来事は唇が濡れて少し、潮の香りがした気がした。



「お寿司よかったね! また行こうね、柚葵」

「そうだね、また行こう」

 帰りの車内はいつもと同じだった。あの時と違うのは隣に大事な人がいるということ。そして視線を向けられていること。

「どうしたの? もしかして米粒ついてる?」

「ついてないよ。いやねえ! 一緒のお家に帰れるって嬉しいなって思って」

「そのことか。確かにな! ことりは泣かなくて済むもんな」

「泣いてないよ! 柚葵の方こそたくさん泣いてたじゃん!」

「声出してないからセーフ」

「なにそれ!」

 またデコピンされた。今度は耳に……。沈黙の車内に音楽だけが流れている。この空気も好きだ。だけど今は……。 

「なあ……、ことり……結婚しないか」 

「…………何言ってんのよ。当たり前でしょ」

「いいの?」

「柚葵のほかに誰が私をもらってくれるのよ」

 強がってはいるものの彼女に頬には綺麗な結晶が流れていた。

 もしかしたら理想とはほど遠いプロポーズだったかもしれない。でも、こうして泣いてくれている。

 「幸せにする。今先何年も」

 


これが僕の人生。

 いっぱい悩むことがあった。

障碍者と笑われることもあった。人を笑うよりも楽しいことがあるはずなのに。その人にもいずれ分かる日が来るだろう。

障碍があるから何だというのだ。健常者よりも出来ることがきっとあるはず。きっと。

これからもたくさんの苦しみ、悲しみ、そして挫折があるだろう。今まで以上にでもこうして生きている。

たまに落ち込むこともある。倒れてしまう時もある。苦しくて苦しくて起き上がれそうにない。そんな時もあるだろう。

それでもね……。

日常に隠れる楽しみと嬉しさ。小さな幸せを見逃さないように生きていこうと思う。

 障碍者として人間として立派に胸を張れるように……。たくさんの人の役に立てるようにたくさん笑って泣いて。

 誰よりも無様に、そして人間らしく生きていこうじゃないか。

 たった一つの物語を大きく早大に描ききろう。

 たとえ障碍があったとしても、なかったとしてもその人、一人ひとりに出来ることが、役割があるのですから。

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