おきまりの朝食
@75nanajugo
おきまりの朝食
琴子は、毎週土曜日の朝に、ライ麦パンを一つ買うのがおきまりだ。
行きつけはドイツパンが売りのパン屋さん。ドイツパンというとハード系のイメージが強く敬遠していたが、数年前にできたこの店のライ麦パンが美味しく、すっかり虜になっていた。ライ麦の香りがクセになるし、口の中が痛くなるような硬さを感じず、むしろもっちり感もあるのだ。袋でパックされているラグビーボール大のパンを慣れた手つきでトレイに乗せレジへと向かう。
「いつもありがとうございます」
レジのお姉さんにもすっかり顔を覚えられた。休日の朝のパン屋の匂いは格別だなあ、と名残惜しみつつ、特に常連らしい振る舞いもせずにサッと店を出る。
少し遠回りをして公園の池のほとりをぐるりと一周し、15分ほど歩いてマンションにたどり着く。目覚ましにちょうどいい運動量なのだ。陽の光を浴びて、ぼんやりしていた頭がしゃっきりとしてくる。エレベーターではなく階段を上がり、3階にたどり着いた。ちょっとだけ上がった息を落ち着かせながら玄関のドアを開ける。
「オッケーグーグル 、ただいま」
スマートスピーカーに話しかけるといつも聞くピアノの曲が流れ出す。一人暮らしは長いけれど、このスマートスピーカーというやつはなかなか良くて、どこにも出かけない日でも声を出すことになるので孤独も紛れる。以前は、土日に声を全く発していないことに気づきどことなく暗澹たる気持ちになっていたものだったがそういうのがなくなった。
音楽を聴きながら、台所へ向かい先ほど買ったパンをスライスする。薄めに切るので、だいたいいつも10枚くらいになる。琴子は、いつも包丁を入れるときにするバリッとして音が好きだなあとしみじみする。かけらをつまみ食いしながら、2枚だけ避けて他はラップに包んで冷凍庫にしまった。
やかんに水を入れて火にかける。その間にコーヒー豆を挽く。以前は電動のミルを使っていたが、一人分には不要だなと思って見た目重視でいい手挽きミルを買った。海外の某自動車メーカーが作っているものだ。歯の切れ味がいいのか、豆を挽くときにあまり力を入れないでいいのがとても良い。
豆は挽き終わったが湯が沸かないので、先に冷蔵庫からサニーレタスとハム、スライスチーズを出す。レタスをちぎって軽く洗い、水を切る。先ほどのパンにバターも塗らずそのままその3つを挟んで出来上がり。
湯が沸いたので、珈琲をゆっくり淹れる。部屋の中にはピアノの音と、珈琲がカップに落ちていく音だけが響く。それに加えて、時たま外から子供の声が聞こえてきた。のどかな休日の三重奏だ。
感染症の流行以来、と書くとSF小説のような心持ちがする。琴子自身も、すっかり土日にいわゆる「お出かけ」をしないルーチンが出来上がっていた。さて、それで困ったかというと寧ろ良かったことがとても増えていた。
前段の、洒落臭いような土曜日の習慣も、この世の中が作ってくれたようなものだった。それまで琴子は、土曜日の朝と言ったら金曜日の酒が残ったまま午前中が終わり、インスタントコーヒーを流し込んで目を覚まし金曜の仕事の続きをし、日曜に彼氏とのデートをこなしていた。当たり前の日々。そういうものだと思って何年も過ごしてきた日々。世の中が変わると、それが一変するとは、想像できていなかったんだなあと琴子は思う。ライターの仕事は、すっかりリモートが主体となったし、取材もリモート対談が増えた。飲み会はそもそも禁止になったし、おじさんの武勇伝なんてもうずっと聞いていない。遠い昔の話のようだ。
珈琲が美味しく入ったので、サンドイッチと珈琲を持ってダイニングテーブルにつく。テーブルの上には黄色のチューリップが一輪飾ってある。こういう景色が、琴子の心を満たしていく。
「いただきます」
誰に見られるでもないのに、琴子は「いただきます」と「ご馳走様」は丁寧に言う。母の教えだった。母はこんな簡素な朝ごはんを見たら文句言っただろうけどな、といつも思いながら少し可笑しい気持ちになる。サンドイッチのチーズは、必ずチェダーチーズにする。味が濃くて、ハムとの相性が最高なのだ。普通のスライスチーズからチェダーのスライスに変えただけで、サンドイッチが豪華になったように思えた。それ以来、これまたおきまりになっている。卵があれば目玉焼きを挟んだり、ベーコンがあればカリカリに焼いてハムの代わりにしてみたり。そのくらいの変化を楽しみながらこのルーチンを味わっている。
おきまりのことなんて面白くない。琴子は20代の時はそう思っていた。しかしどう言うものか、歳を重ねて色々知った上でのおきまりというのはなかなか、と思うようになっていた。あと何回、この一人の土曜日の朝を迎えることができるのだろうかと考える。
長年なんかやんや続いていた彼氏は、数年前に北の方の戦争に徴兵されてしまった。ずっと戦争だなんて関係ないと思っていたのに、自衛隊に入っていたばかりに先に逝ってしまった。「お仕事だから仕方ない」とでもいうのだろうか、呆気なかった。今は停戦状態だけれど、一度ああいうものを肌で感じてしまうとただただ日々が愛おしい。国産ライ麦の産地はほとんどが北海道なのに侵略された日にはこのパンの味が変わってしまうかもしれない。
そういう大した願いでもないのだけど、琴子はこの願いを邪魔されたくないな、と思いながらテレビをつけ、今日も世界のニュースをチェックし始めるのだった。ふと、外から、サイレンの音がけたたましく鳴った。
おきまりの朝食 @75nanajugo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます