医者と僧侶と

 吉田兼好の徒然草(序段)になぞらえれば…。

「つれづれなるままに、日暮らしパソコンに向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ」と、コロナ禍を過ごす。


(第百十七段)

「友とするにわろきもの七つあり」という件。

 お偉いさん、青二才、不死身、飲んだくれ、冷血漢、うそつき、欲張り…。

 ごもっともだ。

「良き友三つあり」の件には思わず笑ってしまう。

 医者の(ビミョーな)社会的立場を言いえて妙。


  兼好の願ふ良き友三つありて〈物くるる人〉と〈医者〉と〈知恵者〉と


 〈職業〉という意味の英語には何種類かある。

 vocation(天職)もその一つ。

 なかでもprofessionは、専門的な訓練を受けて知識や技能を身に着けた者のことらしい。古くは3つの職業(医師・弁護士・牧師)を指した。

「他人の不幸で成り立つ商売」と陰口されたらしい。〈病〉と〈トラブル〉と〈死〉が飯のタネだとは…チョットひどすぎないだろうか?


  医者なれば「他人の病も飯のタネ」なんぞな言ひそ我が天職ぞ


 昭和23年7月30日、医師法は法律第二〇一号として公布された。

 当時まだ生後半年だった私も、今や医師法と同い年の自称「爺医」である。

 医師法第一条は謳う。

「医師は、医療及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする」

  医師法と同い年生まれの爺医われ第一条まもり地域に貢献す

 その第十七条には「医師でなければ、医業をなしてはならない」とある。

 高齢社会が進む日本、医師不足はもっと深刻になるだろう。かつて医師免許証を授かった身としては、隠居などしていられない時代だ。現役バリバリの専門医には前線で戦っていただき、われわれ爺医は殿(しんがり)に控えよう。


 老健施設は在宅復帰を支援する中間施設であった。

 しかし今や、穏やかな看取りを支える施設でもある。老衰で亡くなるかたが増えてきた。

 老健施設長は(医師法に基づき)医師として死亡診断書を書いている。一字一字ゆっくりと…。

  筆順をただし書きたれば「老衰」の形ととのひ情(こころ)も籠る

 人生を締めくくる診断書。

 しかし慎重になりすぎて、逆に書き間違いをすることもある。その際は新しい用紙に書き直す。唯一の訂正といえば、令和元年五月に古い診断書用紙を使ったとき…。


  〈平成〉を二本線にて消し去りて令和初なる診断書とす


 看取りに際し、爺医なれども決して慣れはない。

 茶会の心得「一期一会」の縁を感じる。

 老健カルモナが頼りにされたことへの感謝をこめて、嘆きながらも家族とともに語り合う。

「天寿を全う…」


  逝くものは斯くの如きと嘆きつつ令和の夜に診断書を置く


 最近よく聞く「スピリチュアルペイン」という言葉。

「魂の痛み」と訳されるが、終末期に「生きる意味を失う辛さ」とか「自己に対する虚無感」とか表現されることもある。

 掴みどころのない〈スピリチュアルペイン〉ではあるが…。

 『死にゆく人の心に寄り添う――医療と宗教の間のケア』を読み直した。

 著者は玉置妙憂…夫を自宅で看取った現役看護師で女性僧侶である。

 師は曰く。

「スピリチュアルペインとは〈問われても答えられないもの〉だと思っています。答えようのない問いを発し始めたら、それはスピリチュアルペインから出てきた言葉だと思うのです」

 …合点がいった。

 僧侶の基礎教養『五明』には『医方明』という医学が含まれていたそうな…。

「僧侶の基礎教養は『五明』と呼ばれ、声明(文法学)、工巧明(工学)、医方明(医学)、因明(論理学)、内明(仏教学)の5科目が含まれています。そのため、高野山真言宗の開祖・空海も、留学先の唐から日本へ帰るとき、数多くの書物とともに医学書も持ち帰って来たそうです。そして、のちに空海が開いた、身分貧富の差に関係なく学べる学校・綜芸種智院では、五明は人を利する宝であるとして、これを教授していたそうです」


 高校で受けた日本史の授業を思い出す。


  施薬院や悲田院などには僧医をりき我れ爺医は看取る老健に侍りて


 神棚と仏壇に手をあわせるのは、子供のころからの習慣である。

 母親が信心深い人だったので、朝夕の食事の前には一緒に拝んでいた。小柄な母は踏み台にのって神棚へ水を備えていたが、私が(中学高学年で母より背が高くなると)その役目を引き継いだ。

 もっとも当時は、両親の後ろで〈願いごと〉専門のお参りだったが…。

 その両親も亡くなり、今では夫婦での毎朝のお参り。神棚に二人並び、二礼二拍手のあと三回唱える。

「幸魂 奇魂 守給 幸給」と。それから感謝を捧げて、お願い事は少しだけ…が、いつも妻のお参りは私より長い。

 大きな仏壇は盛岡に持ってこられないので、折々に「南無阿弥陀仏」を唱えている。


  日のしづむ西方浄土へ掌(て)をあはせ「南無阿弥陀仏」と十度(とたび)となへぬ


 高齢社会の次にやってくるのは〈多死〉社会である。

 欧米では20年以上前から、QOL(生活の質)に加えて、QOD(死の質)が議論されてきた。

 英国のエコノミスト誌は、2010年と2015年との2度にわたり、QODに関する国別のランキングを公表している。5項目(緩和ケアのための環境・人材・費用・ケアの質・地域社会との関わり)の質と量を調査し、終末期医療の整備状況を数値化したもので、2回とも1位は英国だった。

 注目すべきは、2015年の調査でアジアから台湾だけがベスト10入り(6位)したことである。その背景には、QODに関する取り組みが早くから実施されていたことだろう。

 台湾では2000年に「安寧緩和医療条例」が成立したことにより、終末期医療を患者が自らの意志で選択できるようになった。

 同時に、スピリチュアルペインに対する取り組みも始まった。

 欧米ではチャプレンと称する聖職者(牧師、神父等)が終末期患者のケアに当たっているが、アジアでこの取り組みがもっとも進んでいるのが台湾である。

 経験を積んだ僧侶(臨床宗教師)が、病棟や自宅で医療者と協力して、看取りに当たるのが日常。このような観点から、台湾では(死に方を含めた)自分の生き方を自由に選択し満足している割合が多いといえるだろう。


 台湾では、仏教の僧侶である〈臨床宗教師〉という方々が、ホスピスだけでなく患者さんの自宅でも、医療と連携しながらスピリチュアルケアに当たっているそうだ。

「ところであなたは、臨床宗教師を患者さんが選べるかどうか、気になりませんか?」と玉置妙憂師は問う。

「人には相性がありますし、特に心の奥底を見せるとなれば、だれでもいいというわけにはいきません。ところが患者さんや家族が指名できるかと言えば、それはできないのです」

 しかし、それに対して文句を言う人はいないらしい。

「なぜかというと、台湾の臨床宗教師は押しなべて徳が高いから、言い換えれば尊敬されているからです。そもそも台湾の僧侶は、日本と違って完全な出家者です。家はなく寺に住み、妻も夫も子もなく、財産もなく、戒律を守って暮らしています。妻帯肉食が当然の日本とは基本が異なるというか、ありがたみがまるで違うと言ったら、怒られるでしょうか」

「もちろん、宗教を信じない人が多数派である日本に対して、台湾では何らかの宗教を信じている人が大多数だという大きな違いもあります。信仰心の厚さが、僧侶に対する姿勢にも表れているのでしょう」とおっしゃる。


 老健カルモナでの日々。

 長期入所の末に老衰で天寿を全うされる方が増えてきた。

 看取りが続けば、老練な施設長といえど寂しく辛い。スピリチュアルペインもわく。


  「天寿だ」と家族がもらす枕辺で爺医われはただ「南無阿弥陀仏」

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