歌詠みの覚悟

 総合誌『文藝春秋』の令和二年九月号『蓋棺録』に岡井隆先生の訃報が載った。

 ご冥福を祈りつつ、同じ医師として、かいなでの歌詠みとして一首ささげる。


  ああ歌人岡井隆は逝去せりその著『わが告白』に吃驚せざるや


「短歌を詠む」といえば、何か高尚な風流人を連想する。

 しかし(意外というべきか、当然というべきか)奔放な歌人も少なくない。

「酒と恋と漂泊の歌人」なら…若山牧水。

「情熱の歌人」なら…与謝野晶子。

 『わが告白』によれば、岡井隆先生もかなり自由奔放な生き方だったらしい。

 42歳で駆け落ち失踪し、さらに三度の失踪と三回の離婚を繰り返す。

 70歳で、32歳下の女性と四度目の結婚。その後も創作意欲は衰えず、膨大な数の短歌を発表し数十冊の歌集を刊行した。


 常識人の私には無理だ。

 しかし岡井隆先生とて、短歌を詠うために奔放な人生を求めたわけでもあるまい。


『今はじめる人のための短歌入門』のなかで、岡井先生は長広舌をふるう。

――「大ていの入門書には、短歌をつくることは、けっしてむつかしいことではない、と書いてあります。だれにだって、すぐにできることなのだ、と。そして、自分のおもっていることを、素直に、そのまま、三十一音のリズムにのせて言えば、それが短歌なのである、というふうに言われるのであります。

 短歌が、そんなにやさしい簡単なものなら、入門書の必要もありませんし、努力目標ともならないでしょう。

 長いあいだ短歌をつくって来たわたしの実感は、短歌はむつかしいということであります。一部の天才的な作者をのぞいては、短歌をつくることは、困難な道であります。自分に満足のいく歌を生みだすためには、それ相応の努力をかさねなければならないのです。

 この実感と、あの『歌はだれでもつくれる』という宣伝文とのあいだには、ひじょうなへだたりがあります。わたしは、『なにからはじめるか』という問いに対する第一の答えは、ここにあると思っています。まず、わたしと同じように、短歌作りは困難な道であり、むつかしい作業であると覚悟してください。それだけに、努力の目標ともなりうるのですから、そこに意義を見出してください。短歌をつくるための、一歩一歩の階梯について、これから、いろいろの場面や実例を示しながら書いていく予定ですが、その一つ一つの階梯をまなぶまえに、短歌に立ちむかう態度をきびしくあらためておくのが大切かとおもいます。態度をかえてきびしくひきしめておきさえすれば、たとえ、途中で思いもかけなかった隘路にであったり、石ころにつまずいたりしても、がっかりしないですみます」――。


「自由奔放な生き方をされた」と言われる岡井先生だが、こと短歌作りについては厳格なのである。

「短歌作りは困難な道であり、むつかしい作業であると覚悟してください」とおっしゃる。

 かいなでの歌詠みには覚悟などない。

 たのしみで続けられれば、それでいいのではないだろうか。 

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