明夜

――祭事の始末――

8月30日火曜日


 蒼天の下、紺碧の水面を漁船が行き交う。

 熟練者がペイントローラーで青一色に塗ったかのような空に、ちょうど手に収まるサイズの綿雲が、一流どころの画家が描いたかのように、文句のつけようも無く配置されている。穏やかな内海の波が反射する陽の光は、まるで巨大な魚の鱗のようだ。

 晴天と海面からの光に挟まれた漁船たちは木の葉の陰のようにゆらめき、それらを押しやるようにフェリーが離れていくが、そのフェリーとて大きいとは決して言えない。

 まあ、久七島この島の規模であれば十分なのだろう。


 8月13日の藤木香菜子の自白のライブ配信、藤木香菜子の射殺、そして藤木H県警察本部長の自殺は、即座に世間を揺るがすニュースとなった。

 藤木香菜子は動画urlのメールを叶署職員だけではなくマスメディア他にも送信し、かつSNSでもばらまいていたらしく、一夜開ける頃には全国で持ちきりの話題になっていた。

 地方警察本部のトップすら巻き込んだ、いや、トップを中心とした不祥事に警察庁長官が謝罪会見まで開く事態となり、即座に大幅な人事異動が行われ、国家公安委員会が地方の人事に関与するという異例な人選の結果、徹底して久七島と関わり合いのない異動が断行された。その新本部長の元で聖域のない捜査が宣言され、今日、ついに、久七島へと踏み込んだ――


 ――のだが。


 丘から海を望む赤井の元へ、柴塚が歩み寄る。


「課長」


「どうだった?」


「ダメです、話になりません」


「そうか」


 ようやく久七島本丸に乗り込み、全ての根源と目された久七島長老会への事情聴取を行った。

 しかし、いざ対面してみると、そこに居たのは齢90を超えて認知症が進んだ老人が一名のみ。他は末期がんで市内の病院に入院中、もしくは高齢者向け施設に入居済みで、そもそも久七島に居住していない。

 残っていたその一名もほぼほぼコミュニケーションが成立せず、聞き出せたのも『御崎みさき様』の伝承程度。ライブ配信中に藤木が口にした『2008年。1984年の事件』の具体的な話については霧の中である。

 ただし、にまつわる情報は入手できている。


「御崎伝承で人身御供の跡地とされていた場所からは人骨が発見されています。鑑識によると骨の人数は間違いなく2桁はあり、100年以上前のものが多数」


「鑑識も驚いてるだろう。胸糞悪い風習だ」


 吐き捨ててから赤井は煙草を取り出し火をつける。足元の一斗缶には既に吸い殻が何本か放り込まれていた。

 柴塚も箱を取り出して開け、気付く。

 自分の持ってきた分も、もう既に一斗缶の中へと消えていったのを忘れていた。


「ん」


 呆然とする柴塚へ、赤井が箱を開けて差し出す。


「すみません」


 一礼して赤い箱から一本取り出す柴塚。

 ついでと言わんばかりに赤井がライターに火を点ける。古いオイルライター。潮風が常時吹き抜けるこんな場所ではありがたい。

 かがんで煙草の先を当てて、吸う。


「っ、げほっ、げほっ」


 思わずむせてしまう柴塚。普段の1mgに比べれば10倍以上、落差に肺がついてこれなかった。

 昔は普通に吸っていたんだが。


「ふん、鈍ったな」


 赤井に笑われて、柴塚は苦笑する。

 しかし、むせるのも始めのうちだけで、すぐに慣れてしまった。


 二本の紫煙が、ときに立ち上り、ときに潮風に散らされていく。


「あの骨の中に、藤木香菜子の兄がいるんでしょうか」


「あの動画で聴いた限りじゃあ、そうなんだろうよ」


 空は、青い。


「藤木香菜子は弾劾したかったんでしょうか」


「だろうさ。その辺、藤木前本部長も同じだったんかもな」


 柴塚が顔を向ける。


「同じ?」


「藤木元本部長の夫人、富江も同じく久七島出身。同じように久七島から嫁がされていて、当時身寄りはなかったらしい。が、母親はいたはずなんだ。戸籍上では確かに。それが失踪扱いになってる。


?」


 藤木が語った年の一つ。

 まさか。


「これは完全に俺の空想なんだが……香菜子と富江はだったんじゃねえかな」


 ならば、というのか?


「藤木元本部長は、久七島の因習を嫌悪していたんだろうさ。そこへ娘が嫁がされてきた」


 煙草を口に運び、煙を吐く赤井。柴塚も倣う。


「で、義娘の復讐が始まる。しかも告発もしようとしている。心情としては手を貸してやりたいぐらいだろうよ」


「しかし、藤木元本部長は警察官です」


「その通り。事件解決への責務がある。それだけじゃねえ、久七島のネットワークに既にがっちりと組み込まれていた元本部長は、久七島の暗部を暴露されないようにと各方面から圧力を受けるわけだ」


「八方塞がりじゃないですか」


「全くだ。だがあの人は諦めなかった。着地点を探してあがきまくっていた。そのうちの一つがお前だ」


 唐突に自分へと振られて、柴塚が首を傾げる。


「自分、ですか?」


「お前に『久七島』を暗に示して、久七島の捜査へと誘導しようとしたんじゃねえかな。に振り回されないお前なら、久七島の業を暴いて、夫人や義娘の無念を晴らせるんじゃねえか、と」


 柴塚が吸い終えた煙草を一斗缶へ放る。


「一警官に出来る範囲を超えています」


 赤井も煙草を捨てた。


「まあ、確かにな。でもお前ならやりかねん」


 にやりと笑ってから、また一本取り出して咥えた。

 そして、また柴塚へと差し出す。柴塚も一本手に取る。

 オイルライターの火が揺れる。


「それにな、元本部長はどうも久七島の実態を理解していた節がある」


「実態ですか? この?」


「ああ。この島自体の影響力はもうとっくの昔に風化してて、単なる利害ネットワークが残っているだけってことを、だ」


 紫煙が立ち上る。

 その先を、柴塚の目が追う。

 抜けるように、蒼い。


「だから、このクソのような因習を断とうとしたんじゃねえかな。矛盾のど真ん中に自分を置いてでも」


 藤木の言葉が、柴塚の脳裏に蘇る。


『久七島を守ることを要求された。犯人を検挙する責務があった。義娘を守り目的を果たさせてあげたかった。久七島の因果を断ち切りたかった』


『……欲張りすぎですわ』


『でも、本当のことなんだよ』


 全くもって香菜子の言う通りだ。何もかもを抱えて、背負って、挙げ句にただ潰れた。

 自分に求められたことに、何一つ応えられなかった。

 自分が求めたことを、何一つ成し遂げられなかった。


 ……何も?


 ふと、思った。

 空を見上げたまま、柴塚が呟く。


「藤木香菜子の最後の言葉、覚えていますか?」


 炎に巻かれる中で、最後の最後に現れた一言。

 あの幼気な声。


「……藤木香菜子の母の記録はあった。死亡届が出された記録が。しかし、父親の記録は無い。まあ、シングルマザーというやつだったんじゃねえかな」


「……なら……」


「『お義父様』だったのか、『お父さま』だったのか……どうだったんだろうな」


 聞いた柴塚も、聞かれた赤井も、答えられなかった。


 つくろわれた、印象の薄い無表情な香菜子の動画を思い出す。

 炎とも、銃声ともそぐわない最後の一言が耳に蘇る。


『おとうさま』


 あの炎天下の公園での、藤木の笑顔がまぶたに浮かぶ。

 あのライブ配信の最後の音声が、耳にこだまする


『後は頼んだよ、柴塚君』


 死んだ。

 二人とも。


 柴塚が思い切り一斗缶を蹴り飛ばした。


「一体何だったんだよこの事件はぁぁぁっ!!!」


 地面を転がる一斗缶が音を立てる。

 鐘を真似ようとするかのように、がらん、がらんと、不細工に。







 その年の冬、柴塚の自宅では荷造りが行われていた。

 事件の風化は着々と進み、先日、『捜査担当者の久七島交番への赴任による継続捜査』という方針で一段落が着けられることとなった。

 その担当者として指名されたのが、柴塚だった。


「大体終わったね、お兄ちゃん」


 荷物の梱包の手伝いで来た奏が、手をはたきながら声をかけてきた。言われる通り、ほぼまとまった状態になっている。元々が荷物の少ない人間なので、一日であっさりと片付いてしまった。


「ありがとう」


「どういたしまして――って、お兄ちゃんが飛ばされるのはやっぱり納得行かないなあ」


 腕を組んで頬をふくらませる奏へ、柴塚は苦笑してみせた。


「そのうち戻されるそうだ」


 赤井上司からはそう聞いていた。

 その話は奏には伝えてあるのだが、どうにも気に入らないらしい。


「まあ、とにかくご飯にしよっか。食べにでも行く――って、はぁい」


 話の途中で玄関のより鈴が鳴り、反射的に奏が向かう。誰が来たのかは知らないが、最後ぐらいは自分も応対するべきかと思いついて、柴塚も続いた。

 訪問者は隣の中村夫人だった。


「お疲れ様。奏ちゃん、これ、差し入れね」


「あ、ありがとうございます」


 差し出されるものをにこやかに受け取る奏。思えば、あの夏のときは理不尽に訪問を断られたというのに、奏はおくびにも出さない。

 一方で、中村夫人のほうが挙動不審になっていた。

 唐突に、夫人が頭を下げる。


「中村さん?」


「夏は、ごめんなさい、奏ちゃん」


 奏はむしろ慌てて、柴塚へと視線を送る。

 柴塚が奏の横へと足を進めた。


「お気になさらず。事情は理解しております」


 社交辞令ではない。あの後に少し調べたところ、このアパートの住人のほとんどが、久七島関係者と何かしらの関わりがあることが分かったのだ。

 あの渦中では、誰しもが如何ともしがたかったことだろう。


 夫人は頭を上げて柴塚を見て、もう一度頭を下げた。

 それから奏へともう一度顔を向ける。


「本当に、ごめんなさい。でも――」


 奏の手を取る、夫人。


「――私達は、ここで生きていかなきゃいけないから」


 柴塚の目に映るのは、泣いているのか、笑っているのか、もう分からない顔。

 何故だが、そこに藤木の面影が重なった。




(了)

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夜が醒める 橘 永佳 @yohjp88

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