(8)

『ええ。お義父様はご存知だったのでしょう?』


『まあ、見当は、ね。の時田尚也と佐々木優が被害者なんだから、疑いもするよ』


 一瞬の沈黙の後、香菜子が静かに言った。


『……なるほど、から疑われましたか。いつからご存知でしたの?』


『息子と結婚する前に、身元調査はさせてもらっててね。ちょっとに、ね。性懲りもなく久七島がもたらす縁談だ、警戒もするさ。結果は予想外というか、予想以上だったが……』


『あの夏、兄は殺されました。記録的不作の年で、御崎みさき様への供物として。島に厄災があれば、夏にお越しになる御崎みさき様が7人のはずなのに6人だったからだと理由をつけて、島人から一人捧げて厄払いをする、裏の風習。まあ、実態は文字通りのでしたけれど? 兄は40年近く前に同じ理屈で行われた殺人事件を告発しようとしていましたから』


『2008年。1984年の事件から24年、殺人罪の公訴時効撤廃が2010年4月27日付けだから、まだ25年時効が有効だった。一年以内に起訴できなければ無罪になってしまうだけに、お兄さんは焦っておられたんだろう』


『よくご存知ですわね?』


『……』


 珍しく藤木が口を閉ざした。

 一拍の間をおいて、香菜子が続ける。


『本当に、お義父様と裕司さんあの人とは血が繋がっているのですか?』


 嘲笑混じりではない――とは残念ながら言えないものの、それよりも、心底不思議そうに香菜子が問いかける。

 対する藤木の声は、自嘲混じりだった。


『あの息子富江彼の母親の遺体の第一発見者にしてしまったからね。疎まれるのは仕方がないさ』


『……自殺された亡くなられた奥様の?』


『そう。以来、どう接していいか分からなくてね。家庭人としては落ちこぼれなんだよ、私は』


 また一拍の間。

 後の香菜子の声には何も変化がなかった。


『まあいいでしょう。それで? 私は何を語れば?』


 藤木の口調にも変化は見られない。


『おや、語ってくれるのかい? そうだね、なら順番に、時田の事件から聞かせてもらおうかな?』


 藤木の提案。誰しもが犯人に対して聞きたいことであり非常に順当な質問であるが、柴塚警官の視点からでは、典型的な時間稼ぎでもある。

 ただし、相手に気づかれなければ、という条件が付く。


『その手には乗りませんよ? では手短に』


 香菜子には通じなかったらしい。


『まず、時田の好みの女性を演じて不倫関係を作っておきます。次に、あの高架の近くに工事中の公園がありますので、そこで仕込みをします。木と土嚢袋をロープで結びつけ、土嚢袋をフェンス外にウインチで吊り下げた状態で固定する。ああ、公園は高台にありますので。そして、時田を誘い出して、キスをねだるふりをしてロープを首に回してウインチの固定を切る。土嚢袋の重量で絞めて、息の根が止まったら工事現場の一輪車で高架下のあの場所へ運んで吊るす。以上です』


 大幅に簡略化された香菜子の解説は、柴塚たちの推論と一致していた。


『時田の不倫相手は別に確認されたが?』


 藤木が軽く尋ねた。


『あれはカモフラージュですわよ、本命を隠すための』


 香菜子が笑って答えた。


『誤算だったのは、高架下の現場から事前に一輪車を拝借しておいて、それを使って時田を運べば運搬手段から足もつかないと考えて準備したのに、なぜかその一輪車が無かったことですね。結局、公園の現場の一輪車を高架下へ移したことになったんですけれど、意外とバレないものですわね?』


 香菜子のやや楽しげな声に、藤木が軽く相槌を打つ。


『ふむ、なるほど。殺害現場自体が違ったわけだ。しかし、佐々木の事件では現場から移したりしていないのは?』


『1つ目にそれだけので、犯人が女だとは思いづらくなったでしょうし、2つ目はそこまでしなくても大丈夫かなと思いまして。ただ、犯人は非力ではないと思い込んでもらうために、金槌の取っ手を長ぁぁぁく延長した獲物を命中させるために一年ほど素振りと練習をしましたから、準備期間で言えばはるかに手が込んでいますね』


『それはそれは。腕の筋肉も鍛えられたんじゃないかね?』


『筋肉がつかないようにするのが一番難しかったですわ』


 和やかな会話が続く。柴塚の現実感からは乖離した、まるでドラマのワンシーンのような調子で。

 内容は決して和やかではないのだが。


 何にしても会話が続いているうちはのは間違いない。

 柴塚のステアリング捌きのキレが増していく。


『しかし、榊くんは……』


 続く藤木の声は、初めて曇った。香菜子の声も、つられたか若干低めになる。


『残念ですが、私に疑いを持たれたので。佐々木の時、あいつは自衛用のつもりか薬物を隠し持っていたので、それを使わせていただきました。缶コーヒーに小さな穴を開けて薬物を注入し、ハンダ付けで穴を埋める。彼の目の前で、自販機で同じコーヒーを買い、渡す時にすり替える。私の目には、苦しむ時間は長くはなかったように写りました』


 そこで一息空いて、香菜子が調子を戻す。


『そもそも、お義父様は何故彼を私に付けられたのかしら? 監視? 護衛? 彼自身も困惑されてましたわ』


『両方だね。君をこれ以上犯行に及ばせないための抑止力として。それから、久七島信者の暴走から君を護るため』


 藤木の真剣な声に対して、香菜子の反応は嘲笑混じりだった。


『あら、随分とお気遣いいただきましたのね? それはそれは、ありがとうございます。ですが、久七島のを隠蔽する側の主要人物の発言としてはいかがなものでしょう? H県警察本部長殿?』


『よしてくれたまえ』


『あら、地方の本部長ではご不満でしたか?』


『逆だよ、逆。私は別に県警本部長偉い警官に成りたかったわけではないんだよ。私はね、手の届く範囲でいいから、泣いている人を助けるお巡りさんになりたかったんだ。のように』


『それはご愁傷さまと言うところかしら?』


 香菜子の声から、すっと、潮が引くように、感情が消える。


『結局、お義父様は何をされたかったのですか?』


 藤木の声は、遠くを見るかのようだった。


『久七島を守ることを要求された。犯人を検挙する責務があった。義娘を守り目的を果たさせてあげたかった。久七島の因果を断ち切りたかった』


『……欲張りすぎですわ』


『でも、本当のことなんだよ』


 香菜子の一言に柴塚も同意だった。

 いや、欲張りの次元を超えて、明らかに矛盾している。相反すること全てを同時に達成させるなど出来ようもない。

 それでも、藤木は本当のことだと言った。誰よりも理解しているはずなのに。


 細かく折れ曲がる枝道から、一度幹線へと出る。幸いにして渋滞ではない。柴塚がアクセルを踏み込む。

 まだだ、まだ間に合う――


【可能性は低い】


 頭の片隅の声が淡々と、冷静に、短く告げる。返す柴塚は荒々しかった。


 うるさいっ!


【二人とも忌憚なく、誰に聞かれてもお構い無しで話している。。つまり、聞かれた後、知られた後の対処等を考えてもいない】


 うるさいっ!


【それが意味するところは、二人とものちのことを想定していない。この後に自分たちが存在すると思っていない】


 うるさいっ!!


【二人とも生きているつもりが無――】


「うるさいっつってんだろうがあっ!!!」


 頭の中ではなく、吠える柴塚。

 乱暴に、蹴り飛ばすかのようにアクセルを踏む。

 

 藤木の自宅目的地まで、このペースなら後10分もかからず到着するはずなのだ。間に合わなくはないはずなのだ。


 柴塚のその願いに暗雲をかけるように、柔和な声が話題を進めていく。


『では、こちらからも訊こう。香菜子くんは何をしたかったのかね? お兄さんの敵討ち? 完全犯罪? なら何故逃げずにここに来た?』


『結婚した直後に、あの人の取引相手として佐々木を見た時、兄の敵とすぐに気づきました。その時から計画し始めました。が、まあ、敵討ちと久七島の殺人風習の弾劾が目的ですが、完全犯罪は追求してはいませんわね。挑戦してみましたけれども』


 夕飯の献立を考える程度の真剣さで答える香菜子に、似たような調子で藤木が合わせる。


『挑戦?』


『ええ。どこまで出来るかな、と』


『何か根拠があったのかな? 確かに、目撃者が皆無というのは大したものだったが』


『だって、私の夜ですもの』


夜?』


『そう。久七島でいつもいつもいつもいつもいつも見張られていた夜でもなく、兄を殺された押さえつけられた夜でもなく、誰にも縛られない、何にも縛られない、私の夜。この街へ越してきて初めて手に入れた、覚醒めた私』


 香菜子の声が波に乗る。独裁者の演説が佳境に入るように。


『私が手に入れた。どこまでも届く。だから――せっかくだからどこまで出来るか試してみたかったのです』


 滔々とあふれる万能感を漂わせ語る香菜子に対して、藤木の声はどこか悲しげだった。


『どこに届くわけでもないだろうに』


『届きましたわよ? ここまで』


 揺るがない香菜子へ、改めて藤木が尋ねる。


『だが、君の犯行は露見した。いや、犯行を自白した。久七島を弾劾した。ということは自首してくれるのかな?』


『いいえ?』


 藤木の苦笑が、微かに聞き取れた。


『そうは言っても、現実的に逃げ場はないじゃないか。配信を聞いた警官がここへ踏み込んでくるよ? ほら』


 藤木の声が示すように、音声の背景に新しく音が紛れ込んできていた。まだほんのかすかではあるが、規則正しいリズム。今、柴塚の耳元車内で鳴り響いているものと重なる。極わずかにズレながら――

 ――サイレンの音が。


『……のようですね。場所が特定できる単語は無かったと思いますが。ですが、である限り少なくとも私に手出しは出来ません』


 軽やかに尋ねる藤木の声に、香菜子の声が朗らかに応えた。


 柴塚の意識が耳へと偏る。

 そう、先程から感じる香菜子の余裕。不自然なほどの。

 それがのことを度外視している故だとしても、あまりにも悠長に構え過ぎている。逃亡や生存を考慮していないとしても、話の途中で警官が踏み込んでくることは十分に想定されうるはずなのだ。


 あるとすれば、その根拠は――正直、ろくなものではないと柴塚の直感は告げていた。


 そして、そういった勘はまことに遺憾ながら外れることはあまりないものだ。


と、先程申し上げましたでしょう? 何もマイクやカメラだけではありませんのよ? 昨今はネットで色々なものをそろえることが出来ますから。組み合わせればことだって出来なくはありません』


 案の定、ろくなものではなかった。


『この手首のスマートウォッチが私の心拍数等バイタルを計測しています。計測できなくなると遠隔でスイッチが自動的にONになります。ああ、信号が途絶えても同様です』


『ふむ。君が死んでも、スマートウォッチを取り上げても、この家は丸焼けにされるわけか。つまり私が人質になってるわけだね?』


『ご名答』


 二人でクロスワードパズルでもやっているのかと疑いたくなるような呑気さしかない口調だが、内容は救いがたいものになっている。

 手出しは出来ないと言っているが、手が出せないで、事態は何も打開できない。結局のところ良くてただの時間稼ぎにしかならず、いや、それどころか自身を袋小路に追い込んでいるだけにしかなっていないのだ。


 それなのに、何と和やかな口調なのか。藤木も、香菜子も。

 生きることへの執着が無い。その点では気の合う二人、ということか。


『しかし、それも私がここから逃げ出してしまえばお仕舞いじゃないか』


『お優しいお義父様は義娘むすめをおいていかれませんでしょう?』


 カチリ。

 物音が聞こえた。

 そんな気がした。二人の声と、徐々に増すサイレンの音に紛れて。

 気の所為であってほしかった。


『銃を向けられては是非もないね』


 柔和な笑い声に続く藤木の言葉。そしてさらに続く。


『先ほどの問いで、一つまだ答えてもらっていないね。何故逃げずにここに来たのかな?』


『ここが良いのです』


 不意に。

 不意に、香菜子の声が、穏やかになった。


私の家ここが、かい?』


 藤木の声が、温かい。


貴方の元ここが、です』


 香菜子の声が、柔らかい。


『その、独りは、ちょっと疲れました』


 初めて、素の声を聞いた気がした。


 まるで照れ笑いのような香菜子のその声が、サイレンに紛れる。

 車内の、ではない。スマホからのサイレンの音。

 藤木の自宅目的地まで、後は角を二つ曲がるだけ。

 もう目前。


『無粋ですわね』


 また独裁者のような声に戻った香菜子の一言が、柴塚の鼓膜を刺した。


 背筋に走る悪寒。


 スマホからの音声に低い雑音ノイズが混じる。

 残り一つとなった曲がり角の向こうから、唐突に黒煙が昇り始めた。


『自分でスマートウォッチを外しては本末転倒じゃないか』


 藤木が苦笑していた。


『想定していたよりもずっと早い。早すぎる。柴塚刑事でしょうか。さすがはお義父様が目を掛けただけはありますが――』


 今までで最も真剣な香菜子の声。

 聞きながら到着した目的地は、ちょうど炎をまとい始めたところだった。


『――今この瞬間だけは、邪魔はさせません』


 スマホをむしり取り車外へ飛び出す柴塚。

 同時に力の限り叫ぶ。スマホへではなく、火に包まれる舞台へと。


「本部長おおおっ!!!」


 素早く目を走らせる。出火元と思われる、炎の勢いがとりわけ強いのは、玄関、窓等の外部へと繋がっている箇所。見るからに出入り口の封鎖が目的。

 他に、裏に出入り口は――


『ふむ、裏口からも熱気が来る。脱出路を全て潰したね?』


 将棋かチェスかで相手の手を読むかのような藤木の口ぶりに、柴塚が天を仰いだ。

 その柴塚の様子を知る筈もない藤木の声が、全く変わらず続く。


『その割には煙がここへ流れ込んでこない。不自然なほどに。そうなるように気流を読んだ上で――違うな、気流をのか。通気口でも仕込まれていたのかな。いずれ火に呑まれることに変わりは無いが、若干の猶予が創られている。いやはや、実に多才なものだね――』


 そこで一瞬区切られ、その後の藤木の言葉は、沈んでいた。


『――本当に。君なら何にでもなれただろうに』


 対する香菜子は、それには応えない。


『邪魔は、させない』


 ただ、繰り返す。

 その声は切実だった。


 一呼吸。

 誰も何も言わない。

 ただ、炎だけが雄弁だった。


 カチリ。


 そう聞こえた気がした。

 先程と同じ音が、もう一度。

 本当に、そんな気がしただけだった。燃え盛る炎の狂乱の中で、聞こえるはずがないのだ。

 はずがなかった、のに。

 撃鉄の音など。


『……この結末でなくても良かったんだよ』


『ここで――ここが、良かったの。分かったから』


『何を?』


『分かりたかったこと。分からないことがあったの。どうしても』


『それが、分かった?』


『ええ』


『そうか』


『おとうさま』


 無言。


 タタァァァーン。


 驚くほど幼気な声と、無機質な炸裂音とは、やっぱり似合うものではなかった。

 見開かれた目に引きずられるように、柴塚の口元も半開きで固まっていた。


『……そう都合の良い話はない、か』


 その震える手元から、スマホから藤木の声が響いてきた。

 思わずスマホの画面へと詰め寄る。


『君も、義娘この子も、救えなかったな……富江、すまなかった』


 藤木の声は、いっそ清々しくさえもあった。

 マイクが拾うノイズの方が強くなってきた。聞きづらい。目を上げれば、炎はもうその身の内に家屋を納めている。


「本部長おおおぉぉぉ!!!」


 もう一度叫ぶ柴塚。

 蹂躙する炎の向こう側へと。


『ああ――』


 スマホから、藤木の声。


 今度は届いた。


『――後は頼んだよ、柴塚君』


 スマホを震わせた銃声は、目前の紅からも滲み出た。

 そして重なる。

 同一の存在のくせに。

 柴塚の前で、だけ。


 炎が、揺れる。


 巨大な焚き火から、黒煙が空へと吹き上がっていく。

 空の何色にも相容れない刺々しい黒が、これでもかと言わんばかりにその身をくねらせる。

 盆の訪れを知らせる迎え火目印だとでもいうのだろうか。


 問題は、この迎え火が一体を迎えるというのか、だ。


 柴塚には分からなかった。


 何も。

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