第4話 喜ぶ声

 夏実さんに言われて慌ててシャツを見ると、着ていた白いワイシャツの胸辺りに小さくカレーがついている。

 やばい!カレーは時間が経つと落ちなくなる!

 慌ててお店のおしぼりで拭き取ろうとしていると、夏実さんは持っていたリュックから小さなポケットウェットティッシュを取り出して渡してくれた。


「あの、これ、シミ取り用のウェットティッシュなので、これなら取れるかも、です」

「あ、ありがとう!ちょっとトイレ行ってくるね!」


 夏実さんからウェットティッシュを受け取ると一目散へトイレへと走る。


 店の洗面スペースに駆け込みながら、夏実さんが渡してくれたウェットティッシュを早速取り出す。


 カレーはまだついたばかりだ、さっさと拭けば落ちるはずだ。


 僕は慌ててウェットティッシュでカレーが飛んだ胸元を拭いた。


「ああぁぁ!」


 やってしまった。ワイシャツの上に飛んだカレーは拭いた形跡を残すように、綺麗な茶色い線を描いた。

 夏実さんとのご飯や会話に緊張していたところに、カレーを飛ばす失態をおかして頭のキャパはもうギリギリ。

 そんな僕はシミの取り方も忘れてしまうくらい、パニックになっていたみたい。

 実際、この広がったカレーシミをみて更にパニックになりつつある。


 どうしよう。


 シミってどうやって落とすんだっけ?


 せっかく夏実さんがシミ取りウェットティッシュを渡してくれたのに、シミが広がってたら変に思うかな!?


 自分を責めたりしないよね!?


 ていうか、このシミどうしよう……。

 急いでクリーニングに出したとして、落ちるかな……。


 頭の中でいくつもの考えがバラバラにぐるぐると渦巻いている。


「あー……すいません、ちょっと使っていいですか?」

「あ、あっ、す、すみません!どうぞ!」


 狭いトイレ内で僕がもたもたしていると他のお客さんから声を掛けられた。

 洗面台が1つしかないので他のお客さんへ譲り、僕は諦めて席へと戻ることにした。


 夏実さんがなるべく気が付かないように、体を丸めて濡れた手を拭くふりをして胸の前に持ってくる。

 そして「すいません、ありがとうございました」と小さく夏実さんに声を掛けながら、席についた。


「大丈夫でした?ちゃんと落ちました?」

「あ、だ、大丈夫でした!ありがとうございました」


 僕はキレイになったお皿の前で両手をあわせてごちそうさまの挨拶をした。

 夏実さんも両手を顔の前で合わせて「ごちそーさまでしたっ」と笑う。


 夏実さんがご飯を奢ろうとするので、「社会人だからカッコつけさせて」と謎理論で説き伏せてご飯代は僕が払わせてもらった。

 夏実さんからしたら僕は思っていた業界人ではない。時間を無駄にしてしまったと思うかもしれない。

 それなら、せめてご飯代くらい出したかった。僕がいつも夏実さんのラジオDJに癒やされているお礼でもある。


 お店を出ると、夏実さんはこちらを見て「ありがとうございます。ごちそうさまでした」とぺこりと頭を下げる。

 チョコレート色の艶髪が夜の街灯に照らされてキラキラと天使の輪を作っている。食べるときには後ろでひとつにまとめていたセミロングの髪も今は解いて後ろに流している。


「こ、こちらこそ、夏実さんのお役に立てなくてごめんなさい……」


 僕は申し訳無さそうに夏実さんに頭を下げる。

 夏実さんは勢いよく顔をあげると、ぶんぶんと横にふる。


「いえいえいえ!私が勝手に勘違いしただけなので、謝らないで下さい!むしろ、あの……話を聞いてくださってありがとうございました」

「いえいえ、そんなそんな……」


 僕たちはお互い店の前でぺこぺことお辞儀し合ってしまったが、夏実さんが途中で「ぷぷっ」と吹き出してくれたのでお辞儀合戦は終わりを告げた。

 夏実さんは口を大きく開けてひとしきり笑うと、目尻にたまった涙を指で拭う。


「そろそろ帰らないと……。お兄さんは明日もお仕事ですよね?」

「あ、う、うん。え、えっと……あの、今日は本当に……」

「もうっ!またお辞儀合戦になるから終わりです!」

「あ、ああ、はい」

「えっ……と」


 さっきまでの態度から一変して、急に夏実さんは俯いてモジモジし始めた。

 時間がもうギリギリで早く解散して駅に行きたいのかもしれない。

 それならば、さくっとお別れしてまたいつもの日常に戻ろう。


「あ、時間がないのにごめんね!今日は本当にありがとう!そ、それじゃ」

「あ、ま、待って!」


 夏実さんが僕のシャツをギュッとつまむ。

 え!そんな事されたら、僕はどうすればいいんだろう?!

 一人でパニックになりオロオロしていると、夏実さんがシャツを摘んだままもじもじと「えっと」と繰り返している。

 早く帰りたいのではないのだろうか?

 僕は思わず両手を上げながら、夏実さんの行動の真意を見守るしかない。


「えっと、あの……良かったら、またご飯……というか相談に乗ってくれませんか!」

「で、でも僕……夏実さんの参考になるようなアドバイスなんて何も出来ないんですが……」

「いえ!社会人の先輩のお話はそれだけで参考になるので、ぜひ!お願いします!」


 僕は夏実さんの勢いに押されて首を縦に振った。


「ありがとうございます!じゃぁ、これが私の連絡先です!」


 さっきのモジモジはどこに飛んでいってしまったのか、夏実さんはズボンのポケットからスマホを取り出すと早速SNSの画面を出して僕に見せてきた。

 僕も慌ててスマホをズボンのポケットから取り出して、夏実さんの見せてきた画面を読み込んで登録する。

 夏実さんが「なんでもいいんでメッセージください!」と言うので、言われるがままに夏実さんにメッセージを送ると、夏実さんはニコニコしながらスマホをタップした。


「はい!私も登録完了しました!ありがとうございます!」


 夏実さんは本当に電車の時間が迫っていたようで「また、連絡しますね!」と笑顔で手を振りながら駅まで走っていってしまった。

 僕は今日起こった夢のような出来事を噛み締めながら、帰路についた。

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