Get up!

県 裕樹

第1話

「何度言ったら分かるの! コンクールまでもう間が無いのよ!?」

「僕だって一所懸命やってんだい! ママのバカぁ!!」


 子供の泣き声と、それを責める大人の声が聞こえる。ああ、また失敗だ……と、少女は肩を落とす。

 少女の名はイスラーフィール。イスラフェルと呼ばれる事もある、音楽を司る天使だ。まだまだ半人前の見習いであったが、先代のイスラーフィールが天界での抗争に敗れて消滅した為、急遽修行中の彼女が後釜に据えられたのである。

 天使は通常、固有の名称を持たない。誕生してすぐに現役の天使の元に送られ、代々その名を受け継いでいくのである。但しそれは先代からその名を受け継いだ後に初めて名乗れるもので、それまでは仮の名で呼ばれる。彼女は、イスラーフィールの名を継ぐ前はシンディと呼ばれていた。

(とにかく、課題をクリアしなければ天界へは戻れない……頑張らなくちゃ)

 天使は先代の名を継ぐ前に、最後の試練として人間界での修業が課せられる。通常であれば先代が直に課題を与えるのであるが、イスラーフィールの場合は先代が唐突に消滅してしまった為、更に格上の大天使によって課題を与えられていた。


『困難に立ち向かう者を助け、成功へと導く』


 ……一見すると単純かつ簡単なように見えるが、これが実に奥深い内容なのだった。単に協力して目的を達成させればお仕舞い、という訳ではない。物理的な手助けは禁止、内面的にアシストをして自力で目的を達成させなくてはならないのだ。


(内助……励まし……人間はこう表現するのね。でも、本当は困難を打ち砕く力を与えてくれと望む筈……)

 イスラーフィール……いや、シンディは途方に暮れた。何故、協力してはいけないのか。そこが理解できなかったのだ。だが、後に彼女はその意味を自分にも当てはめて理解する事になる……しかし、それはもう少し先の話である。


**********


「帰んな! お前の為に空けてやるステージは無ぇンだよ!」

「……っだとぉ!?」

 繁華街の裏通りで、ギターを提げた青年が何やら口論を繰り広げている。どうやら、演奏する機会を与えてくれと頼んで、断られているらしい。

「もう少しマシな歌を唄えるようになってから、出直して来な!」

「クッ……!」

 青年は打ちひしがれて、ライブハウスを後にする。こうして断られた回数も、一度や二度ではないらしい。そして彼は街中でおもむろにギターを取り出し、一人歌い始めた。路上ゲリラライブである。だが、彼の歌声に足を止める者は、一人として居ない。皆、目を逸らすようにしてそそくさと立ち去ってしまうのだった。しかし青年は歌い続けた。俺の歌を聴け、聴いてくれと心の底から祈りながら。

(あの歌……上手じゃないけど、何かしら……こう、心に訴える何かがある!)

 シンディはいつの間にか、青年の歌声に聞き入っていた。そして気が付くと、彼に向かって一人拍手を送っていた。

「……サンキュ。でも世辞なら間に合ってるぜ」

「お世辞じゃないです! 貴方の歌、表面は荒っぽいけど……でも、温かい何かを感じるんです!」

「面白い奴だな。何だその羽? アクセサリーか?」

「いや、自前なんですけど……って、今はそんな事、どうでも良くて!」

 シンディは夢中だった。課題の事などすっかり忘れて、目の前の青年を無意識に励ましていた。そして暫し、暗い影を引き摺っていた青年に笑顔が戻った。ところが……

「こらぁ! 無許可で集客行為を行ってはいかんと、何度言わせれば……」

「やっべ! 見付かっちまった! じゃあな嬢ちゃん、縁があったらまた会おうぜ!」

 警官にどやされて慌てて逃げていく青年の背を、シンディは呆然と眺めていた。その姿が見えなくなるまで……


**********


 その夜から毎晩、場所を変えて歌い続ける青年をシンディは追い続けた。しかし何時も観客はシンディただ一人。彼の熱意が人々に伝わる事は無かった。そんな毎日を続けるうちに月日は経ち、頬を撫でる風も冷たくなっていた。

「またやってるよ、いつものアイツが」

「諦めが悪いねぇ、下手だって認められないのかね」

 彼の存在は人々の記憶に留まるようにはなった。しかし相変わらず歌を聴くために足を止める者は無く、むしろ冷ややかな視線が突き刺さるようになっていった。

「……誰も、分かっちゃくれねぇんだ……」

「違うよ、きっと皆、気付かないだけなんだよ。アナタの歌の中に眠る、温かいものに」

「またそれだ……何なんだ? その『あったかい物』ってなぁよ?」

「そ、それは……そう、ハートよ、ハート!」

「ハート、ね……」

 今までに、何十回その台詞を聞かされただろうか。青年はすっかりその台詞にウンザリしていた。だが彼はそれを口には出さず、自らの不甲斐なさを笑うだけだった。


**********


 更に時は流れ、小雪の舞う中で彼はギターを掻き鳴らしていた。シンディはただ、彼の前でその歌声を聴くだけだった。手伝いたい、助けてあげたい……でも、彼が自力で這い上がらなくてはダメなんだと、心を鬼にして耐えながら。そして人波が止んで、その場には彼らだけがポツンと取り残されていた。流石にそんな場で歌うのは無駄だと、彼はギターをケースに仕舞い始めた。

「何で止めちゃうの!? まだ夜はこれからじゃない!」

「無駄さ。価値観の違う奴らに、幾ら訴え掛けたってダメなモンはダメなんだよ」

「諦めちゃダメ! アナタの歌には、心を温かくする何かがあるの! それを引き出す何かが足りないだけなんだよ!」

「だから、何かって何なんだよ!?」

「そ、それは……口で表現できない何かなんだよ!」

 シンディは言葉に詰まってしまった。何となくイメージは出来るのだが、それを伝える術が分からないのだ。そして、彼女のその仕草を見るにつけ、徐々に頭をもたげて来た青年の苛立ちが、遂に爆発した。

「オメェは何時も口だけだ、何が悪いのか、どうして客が足を止めないのか……その核心には一切触れずに理想論ばかりを立て並べる! 挙句の果てに、口じゃ言えない何かだと? いい加減にしろ、役立たず!」

「……! 私だって……役に立とうと思って口出ししてた訳じゃないんだよ! ただ純粋に、貴方の歌に惹かれたから、こうして付いて回ってるんだよ!」

「ケッ! お情けなんか要らねぇと何度も言った筈だぜ、失せな! ウザいだけだぜ!」

「バカあっ!! 弱虫! 意気地なし!」

 流石のシンディも今の一言には傷付いたらしい。下心なんか無い、増してお情けなんか掛けた覚えも無い。純粋に、応援したいと思ったからそうして居ただけなのに、この仕打ち……こんな弱虫の事なんか、もう構うものか! と、彼女は涙を流しながら走り去っていった。

「……元々、孤独にやって来たんだ。ギャラリーが一人居なくなったからって、どうって事ねぇさ……」

 青年はシンディの後姿を振り返る事なく、人通りの多い広場を見付けて再び歌い始めた。しかしその声は、どこか哀しさを引き摺るものになっていた。


**********


 痛い……心が痛い。

 どうしてあと一歩、踏み込めなかったのか。いや、踏み止まる事が出来なかったのか。

(私が逃げちゃあ、どうにもならないのに……)

 今からでも遅くは無い、戻るんだ! そう自分に言い聞かせるシンディだったが、足が言う事を聞かない。

(振り向いて……振り向いて! 今、彼を奮い立たせられるのは、私だけなんだから……)

 でも、唇を割って出てしまった、あの短い一言がチクリと心に突き刺さって……彼女は振り向く事が出来なかった。

(言っちゃいけなかったんだ……あの言葉だけは、言っちゃいけなかったんだ!)

 罵ってしまった自分も心が痛い。だが、彼の心はもっとボロボロだったはず……なのに何故、あんな事を言ってしまったのだろう。あの場面で口に出すべきだったのは、罵倒の叫びではない。厳しくも温かい、あなたを助けたいというメッセージだったのに……自分にはそれが出来なかった。

(……もう、戻れないよね……きっと、私なんか……顔も見たくないよね……)

 暫し忘れていた、天界への望郷。それ程までに夢中だった、彼への応援。その全てが灰燼に帰したと知った時、シンディの目からは……先程のものとは違う涙が零れていた。


**********


 翌日も、その次の日も……シンディは彼の前に姿を見せなかった。青年は『知ったこっちゃ無い』と云った風を装ってはいたが、何処か寂しさを隠し切れずにいた。

(ちぇっ、らしくねぇや……一人でどん底から這い上がると決めた、あの意気込みは何処へ行ったんだ!)

 何時の間にやら、シンディは彼の心のピースの一部になっていたらしい。それを自ら剥がして、放り投げてしまったのだ。このやるせなさをどう処理したら良いのか、それは彼自身にも分からなかった。ただ、彼に出来る事は……歌う事だけだった。

(居なくなって、初めて分かる……畜生! 今更気付いたって遅ぇんだよ!)

 切なく、悲しい気持ち。けれど一直線な、素直な気持ち。彼女は自分でも必死に、見えない答えの正体を掴もうとして頑張っていた。それは分かっていた筈なのに……何故つらく当たってしまったのか。自分の心はそこまで荒んでいたのか……その事に気付いた彼は、雑踏で溢れ返る夜の街並に一瞬のハウリングを響かせた後、深く息を吸い込んで……その気持ちを一気に爆発させた。

(戻って来てくれ、歌を聴いてくれ! お前は俺の歌を理解してくれた、ただ一人の観客なんだ!)

 シンディへの懺悔、軽はずみな言動が招いた過ちへの後悔。動機は単純だったが、その想いが起爆剤となって、彼の歌を根底から変えていた。聴いてほしい、訴えたい……その素直な気持ちがメロディに乗った時、それは彼の心の奥底から直に響くメッセージとなった。

(届け……届け!! アイツの所まで……アイツの心まで!!)

 それは魂の雄叫びと言っても良かった。何時もと同じメロディ、いつもと同じフレーズ。なのに、何かが違う。彼の歌声は道行く人の心に突き刺さり、彼らの足を止めていた。

(まだ名前も聞いてねぇ、歌の感想以外ろくに話もしちゃいねぇ。そんなんでバイバイは辛すぎるぜ……戻って来い!)

 気迫……ありていに言えば、そんなものだろう。しかし今までと違って、今の彼の歌声には魂が籠っていた。そして、ピックをギターから離したその時、彼は割れんばかりの喝采を受けていた。

「あ……あれ?」

「すげぇー! ガツンと来たぜ!」

「アンコールだ、アンコール! もう一発、アツいのを頼むぜ!」

「ど、どうなってんだ!? 一体、何がどうしたんだ!? 俺はただ……アイツに聴いて欲しくて、その一心で……」

 どうした、アンコールはまだか! と、彼を囲むギャラリーは更に熱を帯び始めた。このまま放置しておいたら、暴走してしまうのではないかと思える程に。

(……そっ、か……聴いて欲しい、心に届けたい……その気持ちが喉のあたりで燻って、形になってなかったと……そう言いたかったんだな? お前は……)

 スゥッ、と息を吸い込み、彼はギャラリーに向けてメッセージを送った。

「サンキュ、みんな! ……今から歌うこの歌は、俺をずっと支えてくれた、小さな天使へのラブコールだ! 彼女の心に届くよう、祈りながら聴いてくれ!!」

 おおおおおおおお!! と、雪の降る夜のビル街に熱い炎が灯った。その中心で、彼は歌った……いや、叫び続けた。彼女への素直な気持ちを、メロディと云う力に乗せて。


 その様子をビルの上から見ていたシンディは、少し寂しそうに、それでいて微笑みを浮かべながら彼の歌声を聴いていた。今までその正体が分からなかった『温かい物』が何なのかに気付いて、それを彼に伝えようとして、遂に最後まで伝える事が出来なかった自分の不甲斐なさが、思わず可笑しくなったのだ。


(……自分で気付いたんだね、足りなかった『何か』に。私の出る幕、完全に無いよね。あーあ、直接会って『おめでとう』と言いたいけど……いま姿を見せたら、全てが台無しになるよね。だから私はこのまま行く。あとは貴方次第だよ……だから頑張ってね! ちょっとだけカッコいい、貴方……ちょっとだけだからね、ちょっとだけ!)


 朱に染まった頬を覆いながら、シンディはスゥッと空に舞い上がって、雪の中に姿を消した。彼女もまた、自分の為すべき事を、少しずつではあるが理解していた。それを極めるまでには、まだまだ時を必要としたが……イスラーフィールを名乗る真の天使になる日は、確実に近付いているのだった。


<了>

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