スレッショルド・スキッパー

虎造

スレッショルド・スキッパー

 爽やかな風が吹き抜ける見晴らし台に二人は立っていた。見晴らし台、と言っても柵やベンチが置かれているわけではなく、眼下の集落に住む者の間で、景色が良い場所として認識されている崖ではあった。


 崖の端、長い黒髪を風に弄ばれながら、白いワンピースに身を包んだ女は景色に見入っていた。男の方は後ろの方で、快晴の蒼穹と宙を舞う鳥たち、そしてその女の黒髪がなびく様を一つの景色として眺めていた。


「素敵な場所ね」


 女は崖下の街並みや遥か遠くに見える海の煌めきを瞳に焼き付けていた。

 彼女にとってその風景はとても感動的なものだったらしく、普段は優しいあたりの声をしているのだけど、このときは意思の込められた、しっかりとした声を響かせていた。


「そうかい?」


 男は強い風の中ではあったが、まるで雑音が聞こえないような感覚で女の声を聞き、応えた。男は崖下の集落で暮らす小説家。この崖には執筆の合間、気晴らしに来るので、美しい景色と言っても普段見ているものであり、多少素っ気ない返事になってしまう。


「背の高い建物が少なくて、風車が遠くに見えて……放牧されてる羊たちも幸せそう」


 女の純粋な感想を聞き、そういった真っすぐな感覚も大事だなあ、と男は反省する代わりに、少し意地悪な言い方を思いついた。


「案外、羊たちにも悩み事があるかもしれないよ」


「そうなの?」


「毛を刈られる度に恨みをのせた詩でも作っているかもしれない」


 女は男を意外そうな顔をして振り返り、クスクスと笑った。振り返ったとき、胸元の緑色をした石のネックレスが揺れた。女の笑顔は端正だったが、どこか疲れていて、それでも芯の強さを持っているような、そういった表情を持っていた。


 笑い声が収まると、ゆっくりと息を吸い込んで、それから女は男に微笑みかけた。


「毎日楽しかったり、悔しかったり、それこそ恨み言を言えるくらいなら、その時点でもう幸せなのよ」


 男は気づかされたような顔をし、遠く、海を眺めた。


 そのあと、しばらくして二人は夫婦になった。

 平和な世界の、恨み言も言い合えるような、幸せな夫婦だった。



 ------



「サテン、どうしたんだい? そんなに慌てて」


 暗い夜、星がひっそりと光る空の下、集落の一軒家から飛び出してきた娘は偶然玄関先を歩いていた住人の男に声をかけられた。娘は真剣な顔つきで、視線を横に振り、何かを探している様子だった。


「ねえ、ブロードを、父さんを見なかった?」

「ブロードかい? そういえばさっき、見晴らし台の方へライフと歩いて行ったような……」

「どうしたのかな……ありがとう、行ってみる」


 サテンは動物を狩る仕事着のまま、集落の外へ続く道を駆けていく。背中の弓や腰のハチェットも装備したままだったが、今日捕らえた獲物は解体屋に渡してきたので、重量は大きな問題にならなかった。

 彼女にとって問題なのは、狩りが終わり、家に帰ったとき、そこにいるはずの両親がおらず、灯りは消え、夕食を作った気配すらなかったことだった。


 父、ブロードは小説家で、執筆に集中していると食事がおろそかになる。だから、母親であるライフは、サテンが狩ってきた動物や魚、自生した植物の果実などを使って、食べやすく栄養のある料理を作る。

 家には干し肉や加工した乳製品などのストックもあるので、サテンが帰宅しているかに関わらず、調理はできるはずなのだが、今日はかまどに火さえ入っていなかった。


 胸騒ぎがする。

 坂を駆けあがり、増える鼓動とともに、サテンの不安は募っていく。暗い道は日中よりも転びやすく、つま先をひっかけてつまずきそうになりながら、サテンは見晴らし台へと急いだ。


 うずくまる影が見えた。それは、ともすれば小さな動物のようにも見えた。しかし、身を固めて震えているその影からは、微かな音が聞こえた。よく聞くと嗚咽をこらえる男の声だった。


 サテンは男に駆け寄り、その背中に手を当てながら声をかけた。


「父さん! どうしたの、何が……」


 その男、ブロードはサテンが来たことに気が付くと、一層声を押し殺した。しかし、反射的に上げた顔を見ると、顔に泥はつき、目からは涙が溢れだしている。ただならない状況に、サテンは見当たらない母の身を案じた。


「母さんはどこにいるの? ねえ、まさか崖から……」


 サテンが崖に近寄ろうとすると、ブロードはサテンの手を握り、行かせないようにした。


「違う。サテン、違うんだ」

「え?」

「すまない、本当に。ライフは……」


 嗚咽をはさみ、ブロードは懸命に伝えようとする。


「母さんは、旅立った……」



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 サテンは泥だらけのブロードを支えながら、二人で家に帰った。星空の下は確かに夜としては明るい方だったが、悲しみに震える父をどうにか落ち着かせるには暗く、また寒々しかった。

 家のかまどに火を入れて、茶葉と香辛料、そして砂糖を多めに使ったホットティーを作る。家の裏手に連れていったブロードには、湯の入った木桶を用意して体の泥を落とすようにと言っておいた。

 香辛料の香りが家の中に広がるころに、ブロードはどうにか着替えを済ませたようだったが、顔についた泥汚れは落ち切っておらず、サテンは悲しい表情の上に微笑みをのせながら、濡れた布巾で拭ってやった。


 二人はテーブルについた。サテンは温かい木製のカップに口をつけてからブロードに尋ねた。


「母さんのこと、聞いてもいい?」


 ブロードはうつむいていたが、やがてサテンの顔を見るように視線を動かし、決心したようにうなずいた。


「旅立ったってどういうこと」

「まず……サテンはライフの背中に紋様があること、知っていたな?」

「ええ、子供のころ、一緒に水浴びしたときに見たわ。母さんは元々集落の人間ではなかったらしいから、きっと他の集落の風習なんだと思ってた」

「ライフは集落の人間ではなかった。ただ、他の集落の人間でもなかったんだ」

「それって?」


 ブロードはホットティーを一口飲んだ。


「彼女は異世界の人間だ」


 サテンは口を開け、ブロードの真意をつかみ損ねた表情をする。しかし、ブロードは真剣で冗談を言うようには見えない。


「それは、つまり、そのまま受け取って良いのね? 母さんは、この世界の人間じゃない……?」

「ああ。あの背中の紋様は、彼女が様々な世界を渡る、旅人の紋様だったらしい」

「母さんがそう言ったの?」


 ブロードはゆっくりとうなずいた。


「あの紋様は深い青色をしていたが、最近になって急激に色が薄くなっていたみたいなんだ。そのことを尋ねたら、ライフは、もうすぐお別れの時なのかもしれない、と言った」

「じゃあ、父さんは、母さんがいなくなることを知っていたの?」


 苦々しい顔をしてうつむくブロード。


「信じたくなかった……ライフの言うことを冗談として受け止めたかった。異世界を旅してきたなんて信じようもなかったし、ライフとは、それこそサテンを産み立派に育ててきた時間の重みもある。なにより、私はライフのことを……」


 サテンは細い溜息を吐いた。それは感情を押し殺すための行為だった。


「相談してくれれば良かったのに。母さんも、父さんも」


 ブロードは、ハッとしてから、サテンを見つめた。


「確かに、母さんが異世界から来たなんて話、信じられない。今から外に出て、集落の皆に声掛けして、母さんのこと探しにいきたいくらい。でも、父さんは母さんに話を聞いていた。二人から話を聞いていたら、信じられたかもしれない。私も家族なんだから」


 サテンは軽く頭を左右に振った。


「私は何なのよ」


 席を立ち、自室に向かうサテン。ブロードは椅子から立ち上がろうとはしなかった。ただ悔しそうに目の前を見つめている。二つのカップから湯気は消え、温度を失っていく。



 ------



 サテンはしばらく家事をしなかった。食事は適当にパンや干し肉をかじり、泉で喉を潤した。

 仕事には出かけた。それは金や食料を確保するためというよりは、自分の中の納得できない感情を考えないための気晴らしだった。


 ブロードはというと、家の中にこもりきりで、サテンと顔を合わせることもなかった。自室で何かしているようだったが、サテンはそのことを気にすることはしなかった。


 背の高い草に隠れ、弓の弦を引くことは気分転換にはなったが、一日の狩りが終わってみると、いつもよりも成果が低く、溜息の結果になった。

 そして、集落の人々から両親を見ていないが何かあったのか、と聞かれることも増え、ちょっとケンカしちゃって、と苦笑い混じりの返答をするのも、サテンを重い気分にさせた。



 ある日。

 狩りに出かけようとしたサテンは、扉の軋む音を聞いた。振り返るかどうか一瞬悩んだが、徐々に膨れ上がっていた父親を心配する気持ちが彼女を振り返らせた。


 ブロードは痩せこけ、顔には髭が黒々と生えていた。歩きはおぼつかず、壁に手をついていたが、反対側の手には一冊の本があった。

 サテンは一呼吸置いて台所へ向かい、かまどに火を入れると、立ちっぱなしのブロードを食卓につかせ、手早く干し肉と野菜のスープを作った。スープの香りが立ってくると、ブロードの腹も鳴り、サテンの顔には疲れた微笑みが生まれた。


 できたスープと、できるだけ柔らかそうなパンをブロードの前に並べ、「食べて」と促すサテン。


 ブロードは、こくり、と頷き、腹を空かせている割に急ぐことなく、ゆっくりと久しぶりの食事を食べ始めた。

 サテンはブロードの向かいに座り、「おいしい?」と笑いかける。父親がもう一度頷くのを見て、彼女は数日ぶりに家族を意識した。


「何を書いていたの」


 サテンは食卓に置かれたブロードの本に視線を送った。


「ライフの話だ。思い出の話」

「そう」


 大切な人を失ったとき、思い出を小説や詩にすることは珍しくなかった。


「ライフはこの世界が平和だと言っていた。詩歌や物語を創作することが日常的に行われている世界は平和だと」

「そうかもね」

「ああ。ただ、私はその言葉を聞いたとき、ライフが見てきた他の世界は平和でなかったのだろうと思った」

「うん」

「だから、サテンに悲しい思いをさせたとき、ライフにも申し訳なくて、平和な三人の思い出を形にしたいと。そう考えたら、筆が止まらなかったよ」


 サテンは赤い表紙のその本に触れ、何かを考えていた。そして、十分考えた後、想いを口に出した。


「父さん、この本、完成したの?」

「ある程度は。でも、もう少し書ける気がする」

「そう……私ね、私も母さんに贈る物、作ってみようかな」

「サテンが?」


 ブロードは木製の匙を置くと、力強くうなずいた。


「いいじゃないか! 二人で贈り物を作れば、ライフも喜ぶぞ!」

「できるかな? 私」

「何かを作ることが不得意なのは知っている。でも作ることは美しいものを作り出すことが全てじゃない。不格好でもいいんだ。想いを原動力にして、何かを生み出すことが尊いんだよ」


 サテンはブロードの言葉ににっこりと頷いた。


「二人の作品ができたら、ライフに会いに行こう。きっと、届けられるはずだ」


 痩せこけたブロードの表情は、今までサテンが見たこともないような、会心の笑顔だった。



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 母親に何かを贈ろうと考えたとき、サテンが真っ先に思いついたのは装飾品だった。ライフはとても美しい女性で、サテンはいつも集落の人間から、ライフがお母さんで良かったね、と言われていた。自慢の母であり、父親と二人で出かけるときは少し嫉妬もしたものだが、サテン自身もライフが母で良かったと思っている。


 もうずいぶん触っていない鉛筆を手に取り、紙に装飾品のデザインを描いていく。紙は使い捨てにできるほど安くはないが、ブロードに貰った端材としての紙を使っているので、頭に浮かんだ形を大胆に書き込む。


 一日考えた装飾品の形状を実現するために、次の日は素材集めに取り組む。海辺で貝殻を拾ったり、山で鉱石を集めたり。鳥の羽や動物の骨なども素材になる。


 素材に満足したら今度はそれらを加工する。集落の工房に出向き、自分で素材を削ったり、束ねたり。自分でできない加工は専門家に頼んで、時間を待った。


 サテンは、楽しいな、と思った。詩歌や小説を作ることは、サテンにとって困難なことだったが、素材を集め、加工することは、感触を確かめながら作品の進捗をすすめることができ、自分に合っていると感じた。


「やればできるじゃない、私……」


 形になっていく贈り物を見て、思わず笑みがこぼれた。



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 ブロードはブロードで、集落やその周辺を散策し、素材を集めていた。素材と言っても物質ではなく、探しているものはライフに関するエピソードだった。

 集落のあちこちで人に話を聞いたり、景色を眺めたりして、ライフとの記憶を思い出していく。

 人々はライフのことを聞くと、ライフの身に何があったのか聞こうとする。別の土地に旅立ったと伝えると、心配の中に安堵をにじませて、ライフに対する想いを語り始めた。


 集落の隅にある小川に行くと、釣りをしている住人がいた。ブロードもよく話す、川魚の販売で生計をたてる者だった。

 揺れる釣り竿と魚が跳ねる川面を見ていると、ブロードはライフと二人で川に来たときのことを思い出した。



 あのとき、ブロードは釣り竿を久しぶりに握った。餌を付けるのにも悪戦苦闘し、針を川に投げてからは、ただ時間が過ぎていくのを楽しむくらいしかできなかった。

 ライフの方はというと、どこかで釣りをしたことがあったのか、動作がとても速やかで、魚籠の中にも魚が何匹も入っていた。ブロードは初心者同士で、釣果が無くてもたのしい釣りの時間を過ごせたらいい、と思っていたのだけれど、実際には入れ食い状態のライフをただ眺めるだけになっていた。


「えらく調子が良いね。その魚籠、重くて持って帰れないだろう、お嬢さん」


 ブロードが文句を言うと、ライフは釣り竿を操りながら答える。


「このくらい持てるわ。それにブロードも持てるでしょう? 半分分けてあげる」


 確かにブロードの魚籠には何も入っていないので、ライフの釣った半分をそのまま入れることができる。

 ブロードが男としての溜息を吐くと、ライフは笑って声をかけた。


「釣りもそうだし、狩りもそうなのだけど、ブロードには足りないものがあるの」

「足りないもの? ご教授願えますか、レディ」

「それはね、食に対する情熱よ」


 ライフは言いながら魚を釣り上げると、右手を握りぐっと力を入れる。嬉しいのだろう。


「私だって食べたいさ。魚は好物だしね」

「違うのよ。必要なのは飢えた経験なの」

「それが君にはあると」

「どうかしら。でも、美味しいから食べるのと、死にたくないから食べるのは、根本的な熱量が違う気がしない?」

「確かに、そうかもしれない」


 妻の言葉に過去が滲んでいるのが気になり、ブロードは想像を働かせるが、それはあくまで想像でしかなく、目の前の鮮やかな笑顔をそのまま受け入れることの方が、今を楽しむ上では重要なのだと思いなおした。


 ライフの様子を見ていたブロードは、いきなり手の中で釣り竿が引っ張られるのを感じた。

 不意打ちに慌てるブロードを、ライフは笑いながら手助けした。

 日はやや傾いて、青空の中に白い雲の塊が見えた。




 釣りをしている住人は真剣な顔つきで黙々と魚と格闘している。

 ブロードはライフとの記憶を思い出し、それをどのように文章にするか思案しながら、また、集落の別の場所を散策する。



 ------



 ブロードとサテンは木製の紋様が彫られた板と赤い表紙の本、そして包み紙に覆われたいくつかの物を携えて、見晴らし台にやってきた。

 夕暮れの中ではあったが、ブロードが本を書き終えたとき、サテンがすぐにでも渡しに行きたいと言ったので、赤い夕焼けの中、見晴らし台まで出向いたわけだった。


 崖の向こうには沈む日に照らされて、今日最後の煌めきを見せている海があった。光の当たっている部分はもちろん明るいが、それ以外の場所はとても暗く見える。


 二人はまず木の板を崖際の土に立て、しっかりと地面を固める。それから、持ってきたものを入れてある包み紙を地面に敷き、本と花束、そしてサテンが作った青い髪留めをその上に置いた。


 最後に、ブロードは腰に付けた鞄から、輝く緑の石のついたネックレスを取り出し、赤い本の上に置いた。


「母さん、受け取ってくれるかしら」


 サテンが少し心配そうな顔をする。


「作ったものがそのまま届くかはわからない。だけど、作ったことが想いとして届くことはあるんじゃないかな」


 ブロードは頷き、再度口を開く。


「そう信じたい」


 二人は木彫りの板をじっと眺めていた。その紋様はライフの背中にあった紋様を、ブロードが覚えている範囲で彫刻家に彫ってもらったものだった。

 沈黙の時間が流れる。それは祈りのようでもあったし、ライフが現れ、贈り物を受け取ってくれるのを待っているようでもあった。



 日が落ちた。辺りは暗く、黒に染まっていく。


 ブロードはサテンの肩に手を置いた。それを合図に家に帰る。何か行動を起こさない限り、二人はこの場から離れられない。そうブロードは思った。


 しかし、帰ろうとした瞬間、後ろから光が差した。それは、白光と言っていい、強烈な光だった。


 振り返ると崖の上、中空に紋様が現れていた。


「どういうこと、これ……」


 サテンは驚き、ブロードは言葉を失った。


 紋様はライフを想像させるような意匠だったが、それはただ浮かび上がっただけでなく、光を溢れさせ、徐々にその光度を増していく。

 その光は亀裂を連想させた。空間に現れた亀裂。それが完全な円形、つまり光の穴になったとき、中から何かが現れた。


 それは銀色の竜だった。今まさに生まれた存在であるかのように、翼を折りたたみ、鱗をつやめかせている。


 二人は巨大な生き物を目の当たりにして、後ずさりした。ただ、逃げ出したりはしなかった。大きさに驚きはしたが、邪悪な存在には見えなかったから。


「これは……」


 竜の体が完全に穴から出てくると、光の穴は急速に大きさを減じ、すっかり消えてしまった。竜は羽ばたくこともしないのに宙に浮かび、ゆっくりと崖上に降りてくる。

 そして、土の上に降り立つと、気持ちよさそうに伸びをして、翼をゆっくりと広げた。

 開いたまぶたの中にあったのは好き取った青い瞳で、その目をキョロキョロと動かし、ブロードとサテンを交互に見つめた。


「あれ、もしかしてお父様とお姉様?」


 銀色の竜は口を開かずに話しかけてくる。頭に直接響くようなその声は、意外にも幼い少年のような話し方だった。


「初めまして。僕はソルトって言います。お母様の錬金術で生まれた錬金術の竜です」


 口を開け、驚いていたサテンよりも先に、ブロードが尋ねた。


「錬金術? それにお母様って……」

「お母様はお母様です。ライフ母様。ええと、お父様、ネックレスを持ってないですか? たぶん緑色の……」


 ブロードは意識したわけではないけれど、ソルトと名乗った竜の質問に、木彫りの板の前に置いた緑のネックレスへと視線が動いた。


「ああ、そこにあったんだ。では、ちょっと失礼」


 大きな生き物が動くときによくあるように、ソルトもまた、気怠そうにゆっくりと首を動かし、本の上に置かれた緑の石のネックレスに注目した。

 すると、ネックレスはひとりでに浮かび上がり、ソルトの額に近づくと、小さな模様付きの陣と緑色の光を発し、それが消える頃には、額の表面に石がはめこまれている形になっていた。


「これで良し。お父様、お姉様。準備できました。いつでも出発できますよ!」


 元気よく発せられた声は、それはそれで凛として気持ちのいいものではあるのだけれど、ブロードとサテンは相変わらず自体が呑み込めていない。


「ちょ、ちょっと待って! まず、あなたは何なの? 何って言うのは、その、どういう存在なのかを聞きたいの」


 サテンの疑問を聞き、竜の顔で、えっ、と驚いた表情になるソルト。


「もしかして、お母様から話を聞いてないんですか?」


 人間二人は顔を見合わせる。


「なるほど。お二人は、もしかして錬金術にもあかるくない様子ですね……」


 頷く二人に、ソルトは説明を始めた。


「錬金術は科学の先駆けとして生まれた学問です。基本的に物質の組み合わせで別の物質を生み出す研究をするものなのですが、僕はその錬金術の力を宿した竜なのです。今、額に付けた緑色の石は、ライフ母様が様々な世界を渡り、錬金術的なエネルギーや方法論、レシピなどをひっくるめて凝縮した力を秘めたもので、これがあると、僕は完全な力を発揮することができます」


 ブロードは頷き、サテンはよく分からないけれどなんとなく解った、という顔をする。


「僕は錬金術で様々なものを生み出せますが、最も主要な力として、世界を生み出す力を持っています」


「世界を、生み出すだって?」


「そう、現在の座標を示すものと次に向かう世界がどのようなものか分かるもの。その二つがあれば、今いる世界の隣に新しい世界を生み出すことができるのです」


「でも、それができたとしてよ。私たちとどう関係してくるの?」


「お母様に会いに行きたくないですか」


 ブロードとサテンの表情が変わった。


「ライフ母様の体にある紋様。あれはとても強い科学の力を秘めたものでしたが、今は力を失い、お母様は元々いた世界に戻されてしまいました。一人の人間では、会いに行くことすら叶わない状態。でも、僕とお父様、お姉様の力を合わせれば、時空の旅人だったお母様の足跡を逆にたどって、遡ることができる」


 ソルトは言葉を切って、二人を見つめた。


「僕はお母様の顔を見たことはないです。だから、今、とてもお母様が恋しい。二人もお母様に会いたい気持ちでいっぱいだと思います」


 ブロードとサテンは強く頷いた。


「では、まず次の世界をこの世界の隣に作ります。座標を示すのは髪飾り、方向を決めるのは、あの赤い本を使いましょう」


 ソルトは彫刻を施した木の板の前にある、髪飾りと本に注目し、幾何学模様の陣で二つを囲んだ。その陣が消えると、二つの品は、コトリ、と地面に置かれ、その代わりに重低音を響かせて暗い見晴らし台の上に何かが現れた。

 何色とも言えないような円。様々な物質が綯い交ぜになったようなその円は、近づくと吸い込まれてしまいそうな存在感を放っている。


「あれが隣の世界へ行くための入り口です。さあ、いよいよ旅立ちますよ。二人とも僕の背中に乗って!」


 ブロードはソルトに頷き、珍しく戸惑っているサテンの肩を優しく叩いた。


「行こう、サテン。ライフに会いに」


「でも、世界を渡るなんて、そんなこと本当にできるのかしら?」


 ソルトはゆっくりと首を動かし、頷く。


「愛してるなら、世界だって越えられるんじゃない? 僕はそう思います。この世界とお母様の世界とに様々な世界を作ってそれらを橋にする。大きな話かもしれない。でも僕らならきっと乗り越えられるはずです」


 ブロードはソルトの背中に飛び乗り、サテンに手を伸ばした。


「母さんに会いに行こう。私たちは家族なんだから!」


 サテンは驚いた顔をし、それから決意の顔つきで頷いた。

 ブロードの手を握り、ソルトの背中に軽やかな跳躍で乗るサテン。


「では、行きますよ!」


 ソルトは脚力で跳躍し、大きな翼を広げて宙を舞う。


「お父さん、ありがとう」


 サテンはブロードの背中に抱き着いて、聞こえるかわからない声で言った。


 銀の竜は迷うこともなく、一直線に空に浮かんだ円に突入した。

 世界と世界の境界には何も存在しない空間が存在していて、三人は互いに声をかけ、確かに一緒にいることを確かめ合った。

 それぞれの体温は溶け合い、存在を主張した。温かさだけが、確かであり、会いたいと思う気持ちの強さが羅針盤になった。

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