第8話 憧れのリップ

 リリリリリ リリリリリ

 枕もとで、けたたましく目覚まし時計が鳴っている。「起きろ」と大声で捲し立ててるみたい。唸りながらも、目覚まし時計を止める。時計に起こされ、嫌々ベッドから抜け出す朝。いつもと何一つ変わらない、同じ日々を繰り返すだけ。

 服を着替えるため、両手でタンスを開けようとした―。

 コロン

「ん?」

 何かが落ちて、転がる音がした。足元にしゃがみ、落ちた物をそっと拾う。

「リップ? ・・・・・・って、まさか!!!」

「陽菜~。朝からうるさいわよ。ご近所迷惑~」

「は、は~い。ごめんなさ~い」

 大声で叫んだから、私の声が一階にまで響く。朝ご飯を作っていたお母さんに怒られちゃった。

 これは、誰かに知られたらいけない物。隠すように、両手でリップを包み込む。

「これがあるってことは、昨日起こったことは夢じゃないってことだよね」

 一人の部屋。誰かの返事が聞こえる訳ではない。それでも、口に出さずにはいられなかった。

 両手のリップを見つめながら、最後の会話を思い出す。

「通行許可証の代わりとして、陽菜に渡しておくわね。これを見せれば、〈裏の世界〉のどこを移動しても大丈夫だし、ショコラも扉を開けてくれるわ」

 そういってトワ様が差し出したのは、どこにでもある普通のリップ。太陽と同じオレンジ色をしていて可愛い。子どもだからと化粧品を持っていなかったから、こういう物に憧れていた。化粧をしてる人って、大人の女性って感じがして羨ましい。

「トワ様、ありがとうございます。でも、良いんですか。化粧品って高いですよね」

「ふふ。陽菜が想像する通りの物ではあるけど、ちょっと違うわ」

 難しい言い回しに、頭が混乱してきた。トワ様の表情を見る感じ、私を困らせて楽しんでる気がする。あ、絶対そうだ。

「実際にやってみた方が早いわね。そのリップを塗ってみなさい。これ、鏡よ」

 トワ様が右手を掲げると、顔の高さに大きな鏡が現れた。急に目の前に現れたから、ビックリして一歩下がる。そっか、鏡を見ながらじゃないとリップは塗れないよね。

 トワ様が言った通りにリップを塗ってみる。しっかりした足取りで立ち、真っ直ぐに鏡を見据える。蓋を取り、握りしめるようにリップを持つ。慣れない緊張から手が震える。その手をそっと口の前へ持ってきた。

 これで、合ってるかな? リップに蓋をして、恐る恐る鏡を見る。

 うわぁ。

 顔の造りは同じなのに、少しだけ大人っぽくなった私がいる。形が変わったわけでもないのに、化粧一つでここまで違って見える。ピンクからオレンジに変わった唇。まるで、魔法がかかったみたい。

「素敵よ。大人っぽくなってる」

 自分の娘でも見るかのように、トワ様は私の変化を喜んでくれる。

「よし、右手を出してみて」

「右手を出す?」

 右手を前へ出しながら、よく分からない指示を出された。どこかで見たポーズだなと思いつつ、それに従って右手を前に出す。私の横では、月世ちゃんが「まさか」と小さな声を出した。

「その状態のまま、箒をイメージして。月世の箒に乗ったでしょ。使い終わったら、心の中で『使い終わった』と念じれば消えてくれるから」

「は、はい」

 いくら私でもここで気づいた。月世ちゃんの「まさか」の意味も分かった。そんなことできるはずがない。そう思うにも関わらず、「まさか」に期待してしまう自分がいた。憧れていた世界に、仲間入りを果たそうとしている。

 月世ちゃんの乗っていた箒。月世ちゃんの乗っていた箒。

 小さな竜巻を連想させるような風が、右手を中心に円を描く。今度もまた、風の勢いに負けて目を閉じてしまう。右手に重さが加わった。明らかに、何かを握っている。

「ほら、どう? 凄いでしょ」

 トワ様の言葉を合図に目を開ける。右手には、月世ちゃんが持っていたのと同じ箒があった。掃く部分にボリュームがある以外は、普通の箒と変わらない。

「信じられない! 私が空飛ぶ箒を持ってる! 月世ちゃん、私、私―」

「わ、分かったから、くっつかないで」

 あまりの嬉しさに、箒を握ったまま月世ちゃんに抱きつく。勢いよく抱きついたせいでよろめいたが、怒りつつも私を支えてくれた。

「喜んでもらえてよかったわ。そのリップはね、私が密かに開発したものなの。その名も『誰でも魔法使いになれるリップ』」

「誰でも、魔法使いに!」

「ひねりのない名前ですね」

 名前がそのままな気もするが、大事なのはそこじゃない。月世ちゃんが大魔法使いに毒舌ツッコミを入れた気がしたが、問題なのはそこじゃない。

 私が魔法使いになれちゃった。

「やった。やったよ、月世ちゃん!」

「あなたがこういうことに憧れているのは分かったから、落ち着いて。あと離れて」

「あっ、ごめんね」

 月世ちゃんの側からそっと離れる。何だか私の扱い方に慣れてきてるような気がする。それも、私のことを知ってもらえたみたいで嬉しい。

「私がオカルト話好きなこと、知ってくれてたんだ」

「あなたが教室で話しているからよ。それも大声で」

「えへへ。話したことがなかったのに、知ってくれてたの嬉しい。それに、同じように魔法が使えて、同じように空を飛べるのも嬉しい」

「あっそ」

 それだけを言うと、月世ちゃんはそっぽを向いてしまった。やっぱり、私と一緒っていうのが嫌だったのかな。

 私の表情で考えを察したのか、トワ様は「優しいのね」とこぼした。

「さて、今からいうことをよく聞いてね。まずは陽菜」

「はいっ」

「良い返事ね。このリップを使うにあたって注意して欲しいことがあるの。

 一つは、〈表の世界〉では絶対に使わない。陽菜以外の人物が持たない。魔法使いは〈表の世界〉へ自由に行ける代わりにルールがある。さっきも話したわね。あっちの世界で魔法を使うことは禁止。陽菜以外の人物が持たないっていうのは言葉通りよ。見知らぬ誰かがリップを使って、魔法を悪用したら困るから」

 首が取れるのではないかと思うほど、大きく頷いた。私の反応を確認して、トワ様も頷く。

「もう一つは、大きな魔力のいる魔法、誰かに迷惑をかける、傷つける魔法を使わないこと。後半について、陽菜なら問題ないわね。良い? あなたが魔法を使えるのはリップのお陰。陽菜自身が魔法を使えるようになったわけじゃない」

「分かりました」

 そうだ。私は魔法使いになれたわけじゃない。トワ様の作ったリップという道具のお陰で、一時的に魔法が使えてるだけ。肝に銘じておかなきゃ。

 トワ様は月世ちゃんの方を見る。

「次は、月世よ。あなたは〈表の世界〉でちゃんと勉強をして、知識を身につけている。それは偉いわ。過去の誰よりも優秀よ。ただ、〈表の世界〉での人間関係が築けていない。『試練』の目的、十歳という年齢で〈表の世界〉へ行く理由を知らないわけじゃないわね」

「それは、もちろんです」

 悔しそうに答える月世ちゃんを見てると、本気で女王様になりたいんだってことが伝わってくる。月世ちゃんが『月ノ国』の女王様になる姿、見てみたいなぁ。

「月世は、クラスの演劇でシンデレラを任されてるわね」

「ど、どうしてそれを・・・・・・」

 あれ、シンデレラの役って今日決めたばっかりだよね!? どうしてトワ様が知ってるんだろう? 大魔法使いだから?

「シンデレラは物語の主役。月世が積極的にクラスの子達に関わっていかないといけないわ。そこで、シンデレラとして劇を成功させたら、人間関係の『問題』をクリアしたとみなしましょう。主役として独りよがりになれ、という意味ではないからね。周りの子の意見を聞き、自分の意見を発言し、クラスが一体となってシンデレラを上演する。全員が達成感を得た状態で当日の演技を終える。これが、私の言う成功よ」

「わかり、ました」

 ただ成功させれば良い訳じゃないことを知って、月世ちゃんは苦し紛れの返事をする。これはかなりの難問になりそう。あと、トワ様が『問題』って言ってるのは、『試練』を言い間違えてるだけだよね?

 月世ちゃんの皺の寄った眉間を、トワ様は指で突く。

「そんな顔しな~いの。シンデレラを成功させれば、あなたが一番苦戦していた人間関係の『問題』をクリアにしてあげるんだから。陽菜、良かったらお手伝いしてあげてね。この子をよろしくお願いするわ」

 この後すぐに、月世ちゃんは『月ノ城』へ、私は自分の家へ帰ったんだ。お母さん達に気づかれないよう家へ入って、早々にベッドで寝ちゃった。慣れないことがいっぺんに起こって、疲れちゃったのかも。お陰でぐっすり眠れた。

「私が『試練』のお手伝いをすることになったけど、大丈夫かなぁ」

 不安を抱きつつ、着替えて朝の支度をする。リップはカーティガンの胸ポケットに入れて、持って行くことにした。

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