帰郷
「お客さん……お客さん?起きてください、終点ですよ」
控えめにトントンと肩を叩かれて目が覚めた。うっすらと瞼を開けば、心配そうな顔でこちらを覗き込む、少し年老いた車掌さんがいた。
「お客さん、大丈夫かい?もうみんな降りちまったし、この電車このまま折り返していくけど……」
「寝てしまっていただけなので大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「なぁに、気にしないでいいよ」
ゆっくりと立ち上がれば、足が少し痺れる感覚がした。抱えていたリュックを背に回す。どうやらすっかり眠りこけてしまっていたようだ。車掌さんに一礼して電車を降りる。さびれたホームには誰もいない。
「にしてもお兄さん、ここらで見ない顔だね。観光するような場所でもないし、里帰りかい?」
改札を出る直前、後ろから車掌さんに呼びかけられた。僕は笑顔で振り返った。
「ええ、久しぶりの里帰りなんです」
「そうかい、気をつけてな」
笑顔で手を振りながら車掌さんは電車に再び乗り込んで行った。そのまま乗ってきた電車はホームを逆向きに出発して行った。田舎の単線の終着駅。まだ空は明るいが、今出発したのがこの駅の最終便だ。電車がホームから完全に見えなくなるのを見届けて、僕は無人駅の改札を通り抜けた。
誰もいない田舎道を一人で歩く。建物も何もないというほどではないが、立ち並ぶのは一軒家ばかりな上、家と家の間の距離はとても遠い。畑や田んぼの間に家があるような感じだ。周りの景色を眺めながら歩いていると、小さな公園があるのを見つけた。こんなところに公園なんてあっただろうか。中を少し覗いてみると、公園とも呼べないほどの小さい土地に申し訳程度に遊具が所々に置かれている。しかし人の影はない。いくら明るいと言っても、もう六時を回っている。こんな人のいないところで子供だけで遊んでいても危ないだろうし、そもそもこのまちに子供がいるのかさえ疑わしい。日はもう沈んでいるのに不気味に明るさを残した公園を後にする。後ろでキィと、錆びた鉄が軋む音がしたような気がした。
記憶にある道をしばらく歩いていると、風に乗って潮の匂いが漂ってきた。段々と家も少なくなり、街灯の数も減っていく。道路はやがて舗装されていない獣道になり、最後には道すら無くなった。足元を伸びた草がくすぐっている。しばらくそうやって野原を歩いていると、やがて地面が途切れるのが見えた。
「おぉ……」
その景色に思わず声が漏れる。目の前には広い海がただそこにあった。視界を遮るものは何もなく、水平線が綺麗に真っ直ぐに引かれている。日は既にその向こうへと沈み、空はうっすらとオレンジ色に燃えている。しかし、その綺麗な空の色を隠してしまうように鱗雲が広がっている。強い潮の香りに混じって、鼻先を独特な香りが掠める。これは、雨の匂いだろう。
「まずい、早くしないといけないな」
そう呟いて、背負っていたリュックを下ろす。中から取り出したのは一つの茶封筒。強い海風に飛ばされないように、大事に握りしめる。靴を脱いで、それを重石にする様に封筒の上に置いた。いつの間にか手放してしまっていたリュックは、風に飛ばされたのかどこかに行ってしまっていた。
今一度見出しみを整える。切りっぱなしの髪の毛が風になびく。服は綺麗なままだし、何より心がとても穏やかだった。ゆっくりと息を吸って瞼を閉じる。潮の香りがはいを満たす。頭の中に波の音だけが響いている。それは僕にとって子守唄の様だった。心が凪いでいく。思考が溶ける。何も考えず、ただ、あるがままの姿で
そのまま
体が
前に
傾いて
ポツリ、と頬に何かが落ちた感覚で、一瞬にして思考が引き戻される。その途端、足に力が入り、体は横向きに倒れこんだ。倒れた勢いのまま、野原に仰向けに寝転がった。手を広げて空を見上げれば、いつの間にか空はどんよりとした雲に覆われていて、そこから雨粒がポツリポツリと降り注いでいた。
しばらくそうやって雨に濡れていると、止まっていた思考が少しずつ動き出した。冷蔵庫の中に卵が残っていた気がする。見たかった映画はまだ見れていないし、読みかけの本も机の上に出しっぱなしだ。行きたい場所も、食べてみたいものもある。思考に呼応するように、ぐぅ、と小さく腹の虫が鳴いた。
「また死ねないなぁ……」
そう呟いて、ゆっくりと立ち上がった。綺麗に揃えた靴も雨でぐっしょりと濡れている。生ぬるく、柔らかくなってしまった革靴に足を通す。しっかりと置いてあったはずの茶封筒は、気づけばどこかへ消えていた。倒れた時に打ち付けた背中が、じわじわと痛みを主張していた。冷えていく体とは裏腹に心はどこか温かくなっていく。それが恨めしく、しかし自分らしくて、乾いた笑みがこぼれ落ちた。
彼は—僕の弟は—数年前に海へと消えてしまった。里帰りをするとだけ書き置きを残して、母なる海へとその身を返したのだ。孤児院で育った僕らに帰る里などどこにも無いはずなのに。日が沈んだ頃、遺書を残し、風が吹き荒れる中崖からその身を投げたらしい。偶然それらしき姿を見た人の話しか手がかりは残っておらず、遺書も靴も風に飛ばされて弟と共に海へと消えていってしまった。僕に残されたのは、弟が一緒に生きていたという証拠と、簡素な書き置きだけだった。本当にそこで身を投げたのか、おそらく残したであろう遺書には何が書いてあったのか、僕には知る方法は既に無い。
弟のことならなんでもわかると思っていた。ずっと二人で生きていくのだと思っていた。気が付けば一人になっていた。僕は弟のことがわからないまま、答え合わせのできない問いを抱えていた。
だからこうして、死のうとしている。彼と同じ髪型で、同じ服を着て、海に面した崖から飛び降りようとしている。最後に見た弟の姿は今でも記憶の中に掠れることなく焼き付いている。弟のことが知りたくて、その行動をなぞれば答え合わせができると信じている。もう何回目になるだろう。数えるのをやめたぐらいには時間が経ってしまっていた。それなのに、僕は未だに生きている。生きるのをやめられないでいる。僕が死のうとすると、なぜかいつも雨が降る。直前まで晴れていようと、天気予報士が何と言おうと必ず。だから死ねない。彼が死んだのは晴れの日だから。
「さてと……」
海を背に、水を吸って重たくなった体を引きずる様にして歩く。こうなってはどうしようもない。街灯もなく人影もない。終電はとうに過ぎた。初めて来た田舎町でたった一人。それでも、どうにかなってしまうのだろうなという予感がする。いつも結局生き延びてしまう。まるで、何かに取り憑かれているかのように。
不意に視線を感じて振り返った。視線だけではない。まるで誰かがいるような気がした。しかしそこには誰もいない。ただ、切り立った崖と、荒れ狂う海があるだけだった。
ほんの一瞬、もしかしたら、なんて思ってしまった。もし、たとえ幻でも、幽霊でも、会う事ができたのなら。そんなことを考えながら、ぽつぽつと家の明かりが灯る方へと足をすすめた。
「死なせたりなんかしないよ」
暗がりへと消えていく兄の背中をじっと見つめる。もう、今日はこれ以上雨を降らせる必要は無いだろう。空を覆っていた雲を風に乗せれば、紺色に染まった空に一番星が輝いていた。
「生きて、幸せになってよね。兄さん」
そう呟いて、躊躇いなくふわりと背から宙へ落ちる。
海はただ、轟々と荒れ狂い続けている。
何かが落ちる音はせず、ただ波の音だけが暗い夜に響いていた。
どこかの世界に生きる人々の話 ゆか太郎 @yuka_taro
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