ジジ泣きBABY

節トキ

ジジ泣きBABY

 私はこの上なく疲れていた。

 仕事は低賃金長労働の暗黒ブラック、プライベートでは両親に早く結婚して家を出ろとせっつかれるも、三十路を過ぎても年齢イコール彼氏いない歴を更新中。数少ない友達とも年を経るごとに疎遠になり、気付けば会わなくなっていた。


 幸せになるのは、来世に期待するしかない。もう限界だ。


 いつもの如く深夜となった帰り道――私は家ではなく、とある場所へ向かった。


 そこは山へと続く道の一つだ。けれども、誰も使わないせいで荒れ果てている。辺りには人気ひとけも民家の影もなく、付近には街灯もない。今の時間なら、長年近くに住む人も入口を見付けることができないだろう。昼間であっても近寄る者は稀だ。


 ここは、地元では禁忌とされる場所の一つらしい。そう教えてくれたのは、大好きだった祖父だ。



 ――あの山道には、妖怪がいるんだよ。赤子の泣き声で呼び寄せて、おぶるとどんどん重くなっていく。

 ――振り向くと、そいつは赤子でなくなっていて……。



 耳奥に祖父の声を蘇らせながら、私は闇に閉ざされた山道へと足を踏み入れた。


 怖くなんかない。皆が避ける場所でも、ここは私にとっては癒やしの空間。辛いことがあった時には、何度もこうして来たことがあった。失恋した時、友達に趣味を笑われた時、祖父が亡くなった時。誰も近付かないこの場所に来て、妖怪の声を求めて歩いた。でもまだ一度も遭遇したことはない。


 もし妖怪がいるというなら、今夜こそ現れてほしい。無為に繰り返すばかりの毎日を、その重さで押し潰してほしい。


 会社は私服出勤なので、舗装されていないデコボコの小路を歩くにも支障はなかった。今朝も起きてそのまま着替えもせず出勤したため、ほぼ部屋着同然といった格好だ。転んで汚れようが、引っ掛けて破れようが構わない。山道に住むという妖怪に会いに行くなら、最適の装備だ。


 道に入って十五分も経った頃、何か音が聞こえた気がした。


 セミロングの髪をかき上げて、露出した耳をすませてみる。確かに聞こえる。これは、泣き声?


 祖父は、赤ちゃんのような泣き声でおびき寄せると言っていた。でも……赤ちゃんの泣き声というより、雄叫びというか遠吠えというか、何というか想像してたんと違うんですけど。


 もしや獣じゃなかろうな?

 いくら世を儚んでるっつっても食い殺されるのは勘弁だわ。間違いなく痛いもの。


 ついに妖怪と会えると喜びに湧いた心は、声が明瞭になるにつれ恐れを含んだ失望感へと変わった。


 不意に、厚い雲が晴れて夜空から淡い月明かりが落ちる。おかげで声を放つモノの姿を、やや遠目にも捉えることができた。


 私はそれこそ転がるようにして駆けた。逃げたんじゃない、向かっていったのだ。

 祖父から聞いた赤子の妖怪じゃない、と認識したにもかかわらず、だ。


 オオンオオン、オロロンロンと、獣じみた声を発していたのは――一人のお爺様だった。大きな木の側に埋まる岩に腰掛けて、全身で慟哭するかのように泣いている。


 駆け寄った私は、彼の前に屈んで尋ねた。



「こんなところでどうしたの? 家族とはぐれた? それとも迷っちゃった? とにかくここに一人でいては危ないわ。お家まで送りましょう……ああ、私はこういう者よ」



 バッグから社用の名札を取り出し、『山田やまだはな』という自分の名を示す。祖父が付けくれた、自分でもお気に入りの名だ。


 お爺さんは涙を袖で拭い、顔を上げた。そこで気付いたけれど、彼は着物姿だった。



「すまぬな……実は足を傷めてしもうて困っておったのじゃ」


「そ、そうだったのね。だったら私がおぶっていくわ。さあ、乗って」



 くるりと背中を向けて、自分の肩越しにお爺ちゃんを見る。するとお爺さんは柔らかに微笑んだ。



「それはありがたい。お主、華、と申すのか。名の通り、可愛らしく優しい娘っ子じゃな」



 ドキンと胸が鳴った。


 可愛らしい……優しい……。


 これまで誰からもかけられたことのない言葉の数々が、耳の中でリフレインする。やばいわ、キュンときた!



「と、とんでもありませんわ。困ってる方をお助けするのは、当然のことですもの。どうぞお気になさらず」



 自然と私も口調を丁寧に改めていた。意識しちゃったせい、だなんてバレてないよね?


 ダメダメ!

 これから私、この方を背負うのよ? ぴったり密着するのよ?

 この程度でドキドキしてたら心臓が保たないわ!



「ではお言葉に甘えて……失礼しますな」



 お爺さんの筋張った手が肩に触れる。背中全体に広がる温もり。

 一段と高鳴った鼓動を誤魔化すように、私はよいしょと立ち上が――ろうとして、固まった。


 おっっも!!


 おい、何だこれ。とてつもなく重いんやが。いくらなんでも重すぎやろがい。身長は私より小さそうだったし、肉付きがいい方じゃないように見えたのに。私の体力がないせい? それとも、今時の爺様は筋トレで鍛え上げてんのか? 脱いだらすごいぜ的な?


 ナスビ類クール系の王道イケジジだった祖父の玉三郎たまさぶろう殿と違って、このお爺様はジャガイモ類キュート系のワンコ風で、ちょいと私の好みとは外れた顔立ちだ。


 しかし、この和装の下にムキーンな肉体を隠し持っているのだとしたら……?


 やだむり、美味しい。ギャップがそそりまくる。想像だけで瓶ビール三ダースは余裕、ポン酒なら二十升はいけるわ!



「やはり、おなごの力では無理かのぅ」



 背後から、落胆したような呟きが耳を打つ。


 普通に考えれば、自分以上の重さがあるらしい爺様を背負って運ぶのは無理があるだろう。仕事で疲労しきっていなくても、元々体力に乏しい私が挑むには無謀なるチャレンジだ。


 だがしかしよ?

 ここで頑張れば『お礼にお茶でもどう?』からの『鍛え抜いた儂を抱えて家まで送るとは、キミは大したものだな』からの『キミになら任せられる……どうか儂の伴侶となってずっと側にいてほしい』的な展開が期待できるかもしれないのよ? 大チャンスよ?


 ここで根性見せなきゃ、玉三郎殿に賜った華という名が廃る! 山田華、今こそ花咲かせてみせようぞ!



「オルァ!!」



 気合一発咆哮を放ち、私はヘビー級の重量を持つお爺様を背中に乗せて立ち上がった。火事場のクソ力ならぬ、ジジ場のクソ力である!



「お、お主、すごいな? この儂を持ち上げるとは……大概が投げ出して逃げるものなのだが」


「大したことじゃありゃしませんよぉ……ところでぇ、お爺さん、家はどこですぅぅぅ……?」


「あ、ああ……この道を真っ直ぐ行ってくれ」



 歯を食いしばって尋ねれば、爺様が口を私の耳に寄せて伝える。くすぐったくって心地良くて、ゾクゾクして……こいつぁ堪らん!


 よし、爺様のおかげで華の華が華やかに華してパワー充填完了したわ!



「オッケイ! ゴウ! ストォーレイッッ!!」



 そう叫ぶや、私は燃えるハートに任せて疾走開始した。


 お爺様がお宅の場所を詳しく説明してくれなかったから、どのくらいの距離があるのかはわからない。だがどうか保ってくれ、私のエネルギー!


 と意気込んだものの、不思議と走るにつれて重さは気にならなくなっていった。


 私の熱い思いが質量に勝ったのだ――しばらくはそう思っていたのだけれども、どうもおかしい。肩に乗せられたお爺様の手の感触も、頼りなくなっていく。


 異変に気付いた私は、足を止めて恐る恐る振り向いてみた。



「な……なんじゃあ!?」



 叫ばずにいられるかっての。だって背中のお爺様が消えていたんだもの! それどころか、代わりに赤ちゃんが乗っていたのよ!


 何これ、どういうこと? お爺様はどこ? まさか勢い余ってどこかで振り落としてしまった? それで代わりに、噂の妖怪が乗ってきたの? 電車の乗り換えみたいに?

 ちょっと、私の背中は各駅停車じゃないわ! 愛の巣へ一直線の超特急だったのよ!?


 けれど泣き声で人を引き寄せるという赤ちゃんは、噂と違って泣きもせずにこにこと笑っている。


 てことは、この子は普通の赤ちゃんなの? いやいや、ただの赤ちゃんがいきなり降って湧いてくることはないわよね?


 少し考えてから、私は元来た道へと方向転換した。本物の赤ちゃんかもしれないという可能性が少しでもあるなら、山を降りて保護してもらわなきゃならない。


 なのに私が踵を返すや、赤ちゃんはイヤイヤをするようにグズりだした。


 何だっていうのよ。勝手に乗ってきといて、私のことが気に入らないの? これだから子どもは苦手なのよ。



「おぅおぅ、いぇいいぇい。ヘイヘイ、泣くな喚くな落ち着けよーい」



 赤ちゃんに適当に声をかけながら、私は道を戻り始めた。


 暗闇に目が慣れてきたようで、仄かな月光でも大分視界が通るようになっていた。藪の中に目を凝らし、先程まで背負っていたお爺様の姿を探すもやっぱり見当たらない。


 彼は幽霊だったんだろうか? 誰も通らない山道に残されたこの子を救ってほしくて、私の前に現れたのだろうか?


 あのお爺様には、もう会えないのかもしれない。ロマンスの予感に浮足立って、脇目も振らずに走っていた私、バカだったな。どんどん気持ちが重くなる。


 すると背中の赤ちゃんも、重くなってきた気がして――。



「えっ?」



 赤ちゃんに目を向けた私は、驚いて足を止めた。赤ちゃんの顔が老けていたからだ。


 目の錯覚かしら?

 赤ちゃんってぷくぷくしてるのにシワシワしてたりもするせいで、見た目が定まらないところもあるものね。守ってあげたくなるような可愛さがある反面、ホラーなんかに登場すると怖かったりするし。


 気を取り直して、私は再び足を進めた。が、道を戻るのに合わせて赤ちゃんの顔が老けていく……ような。


 ような、じゃない。老けてる。少しずつ体も大きくなって重くなっていってる。

 成長してるんじゃない。戻ってるんだ――――さっき見た、お爺様の姿に!


 元いた場所に到着すると、お爺様は出会った時の姿に完全に戻った。


 最初に腰掛けていた岩の上に再びお爺様を降ろすと、やっと私はへろへろと脱力して道にへたり込んだ。それでも、お爺様を見上げて問う。



「どういうことか、説明してくれます……?」


「えっと、その……実は儂は、この地に長らく住まう妖怪なのじゃ。人間の中には『子泣き爺』と呼ぶ者もあった」



 お爺様は申し訳無さそうに白い髪をかきつつ、話してくれた。


 かつてこの山道は隣村へと続く唯一の交通手段だったそうで、お爺様――子泣き爺様は通りかかる人間を赤子の泣き声で呼び寄せ、抱かせたらどんどん重くなり、さらには爺の姿に戻って驚かせるという悪戯に興じていたという。



「しかしその内に、通る人間が少なくなってしもうた」



 子泣き爺が出るという噂のせいもあっただろうけれど、それ以上に近隣の開発が進んでこの山道が廃れたためだろうと私にはわかる。でも、子泣き爺様はそんなことも知らないみたいだった。



「そこで、発想を逆転してみたのじゃ!」



 そう言って子泣き爺様は長く垂れ下がった白い眉の下、しわしわの瞼をぱっちり開いてキラキラと瞳を輝かせた。



「赤子の存在で興味を引くのは、ありきたりでありがちだと飽きられたのじゃろう。最後は重たい爺にしがみつかれるというのも、後味が悪いだけで面白みがない。だが逆にしてみればどうだ? 重いものが軽くなっていき、振り向けば汚い爺が可愛い赤子になっている……驚きに加え、感動と希望のようなものまで与えられると思わんか? 石のように重い爺にも親切心を施してくれる人間への、ご褒美ともいえる。お主も経験して、感激したのでは」


「どこがご褒美よ! 感激どころかひどい裏切りだわ!」



 思わず私は、子泣き爺様に掴みかかった。



「私は玉三郎殿……大好きだった祖父にあなたの伝説を聞いて、何度もここに来ていたのよ! 辛い時や悲しい時、絶望して死にたくなった時、素敵なお爺様に潰れるほど力強くぎゅってしてもらえれば立ち直れると思って、ここであなたを待っていたの! やっと出会えたと喜んだのに、赤子の姿がご褒美ですって? 枯れ専なめてんじゃないわよ! 爺は爺だからいいんでしょうが! 散々優しくして枯れ専沼に突き落としたくせにさっさと逝ってしまった玉三郎殿と同じよ、どいつもこいつも勝手すぎるわ! 私がどれだけ爺好きか、自分達がどれだけ魅力的か、知りもしないくせに!」



 叫びながら、涙が溢れてきた。


 そうよ、私は枯れ専。

 素敵すぎる祖父のせいで、六十代以上の年齢の男性にしか心惹かれなくなった。おかげで恋した人はほとんどが妻帯者、たとえ独り身であっても孫のように扱われていつも恋愛対象外。


 だから素敵なお爺様に出会えるのなら、たとえ妖怪でも構わないと思っていた。なのに――。


 ふと頭に、固い感触が落ちる。続いて髪を撫でられる感触が広がった。

 顔を上げると、子泣き爺様が困ったような表情で私を見下ろしている。



「も、申し訳ない……そなたを傷付けるつもりはなかった。どれだけでも謝ろう。だから泣くな、華」



 玉三郎殿の優しいナデナデとは違い、遠慮がちな手付きのナデナデはぎこちなくて――可愛い、とまた新たに胸がときめいた。



「も、もう赤ちゃんにならない? ずっとお爺様の姿でいてくれる? 私がここに来たら、必ず会ってくれる?」



 嗚咽の中、駄々をこねる子どものように私は尋ねた。



「うむ……もう人を驚かすのは潮時かもしれんと思っていたところじゃ。これからは華との約束のために、ここで待つのもいいかもしれんのう」



 その言葉が嬉しくて嬉しくて、私は泣き止むどころかさらに泣いてしまった。






 それから私はすぐに転職し、介護施設で働き始めた。

 慣れない仕事に四苦八苦したり、必要な資格のために勉強したりと多忙な毎日だけれど、前の職場と違って不当な残業はないしやり甲斐もあるし、とても充実している。



「コナちゃーん!」



 仕事の後は、必ず例の山道へ向かう。



「おお、華。今日は早いのう」



 笑顔で迎えてくれるのは、コナちゃん――子泣き爺と呼ばれ、人に悪戯を仕掛ける妖怪だ。


 けれどそれは、もう昔の話。



「早く来るとまずいことでもあるの? まさか浮気してるんじゃないでしょうね?」



 じろりと睨むと、コナちゃんも負けじと不敵に笑った。



「華の方こそ、仕事場でいろんな爺に囲まれて目移りしとるんじゃないのか?」


「やぁね。私はコナちゃん一筋よ」

「儂だって、華一筋じゃ」



 そう言って、私達はふふっと笑い合った。


 この山に、子泣き爺はもういない。いるのは私の初めての彼氏、コナちゃんだ。


 お金が貯まったら、この辺りの土地を買って家を建てる予定なの。そして将来は彼の妻となって、二人で仲良く暮らすのよ。


 コナちゃんは妖怪仲間に伝達して、私を仲間に引き入れる算段を立ててくれているの。私が人としての命を終えても、ずっと一緒にいられるように。



 私が死んだら、どんな妖怪になるのかしら?

 コナちゃんとお付き合いを始めて意外と嫉妬深いことがわかったから、結構怖いあやかしになる気がするわ。


 元子泣き爺とその嫁――――数百年後には、私も後世に言い伝えられる存在になっているかもしれない。想像すると、また笑いが溢れた。





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