第50話 《あなた》は、また《わたし》を見殺しにするのですか

「……すごいですね。まるで、ずっと見られていたみたい」

 指の隙間から現れたのは満面の笑顔。太陽のような明るい笑みだ。あの遺影で見たような、若々しくて眩しくて儚い笑顔。

 ため息がこぼれた。彼女は否定しなかった。

「晴人さんの言うとおりです。私は、楓華さんを犠牲にしました」

 凜風は断言した。心地の良い笑顔を貼り付けたまま。

「どうして……そこまでして」

「実は、楓華さんからの提案だったのです。家とSNSを交換したのは」

 僕は眉を寄せると、彼女は微笑んだまま続けた。

「楓華さんが悪いんですよ。あの人が、私を犠牲にしようとしたのですから。晴人さんも分かりますよね」

 凛風はそっと目を細める。どういう意味だよ、と僕は聞き返した。

「晴人さんも私の居場所を突き止める事が出来た。楓華さんだって、予想できていたに決まっているじゃありませんか。沖縄での居場所が林田という男に特定される事を」

「な、何が言いたいんだ」

「あの日、あの林田という男が突然押しかけてきました。私は首を掴まれ、絞め殺されかけました。ええ、本当にこわかった」

 凛風は細い喉に触れながら続ける。

「私が住んでいる楓華さんのマンションに、やがて林田が来る事を分かっていたんです。楓華さんは、そこで私が危険な目に遭う事を狙っていたんでしょうね」

「どうして、そんな事をする必要があるんだよ」

「もし私が危険な目に遭い、ましてや殺されでもすれば林田は逮捕されるでしょう。そうすれば楓華さんの安全は確保されます。だから私を沖縄の自宅に住まわせたんですよ。自分は安全な台湾に居て、私を犠牲にしようと考えたんですね」

 凛風は楓華にスケープゴートとして利用されたと察した。凛風は親切を仇で返された、と考えたのだ。

「それで君は仕返しを思いついたのか。林田に自宅アパートの鍵を渡し、楓華さんの居場所を教えた。そして楓華さんを死なせた。いや、殺させたんだ」

「仕返し、ですか。少し語弊がありますね」

 どういう意味だよ、と僕は首を傾げる。凛風は穏やかな表情でぽつりと呟いた。

「利用させていただいたんです、楓華さんを。私の夢を叶えるために」

 くすっと笑む凛風。遠く南の海を眺めた。

「私の夢――いいえ、私の世代の使命は、台湾を国家として独立させる事。誰にも媚びず、誰にも怯えず、一つの国として世界に認めさせる事。私には、誇りがあります。だから私たちの生命を脅かす国には負けない。闘う。私たちの国は誰にも渡さない。そのために、あなたたちの目を覚まさなければならない」

 あなたたち――。僕たち、日本人の事か。

「あなたたちは、いつまで私たちを無視するのですか。あなたたちは私たちを見ようともしない。むかし兄弟だった私たちが今どうなっているか、テレビでも新聞でも学校でも教えないでしょう」

 穏やかな口調だが、強さを感じる。彼女の訴えが切ない。

「私たちは日本人が善良で高潔な民族だと知っています。大切な事はみんな曽祖父から聞いた。日本が欧米と戦ったのを見て、アジア諸国は勇気をもらった。それなのに今のあなたたちは、昔の誇りを失っています。自分たちはアジアで侵略戦争をした悪者だって、信じ込まされています。だから謝ってばかり、悪くもないのに」

 僕は基地のフェンスに目を向ける。中国語や韓国語で書かれたメッセージ。日本人ぼくには読めない。

「私は日本が好き。親切で丁寧なあなたたちが好き。だから、あなたたちの目を覚ますために、私はここへ来ました」

 凜風の笑顔が止む。真剣な眼差しを僕に向けた。

「沖縄と台湾、どちらかが獲られたらお終い。もし奪われたら、やがてどちらも中国になってしまう。だから私たちは、今こそ手を取り合って立ち上がらなければいけません。だから沖縄の今を、台湾の今を、あなたたちにも知ってもらいたい」

 ヨシオさんと同じ目だ――。

「日本政府が私たちに目を向けてくれたら、世界も台湾に目を向ける。国際連合に加盟すれば、台湾という国家を世界が認める。中華民国じゃない、台湾という国家。私が台湾と日本の懸け橋になる。まだ私は若い、時間だってあります」

 言っている事がヨシオさんと同じだ。心の中がヨシオさんの生き写しだ。

「私にも、日本精神がある。昔のあなたたちから受け継いでいるの」

 ヨシオさんは凜風に意志を託したのではないか。

 日本統治下に生まれ、国民党統治による白色テロの恐怖の時代を戦い抜き、黑社會の首領となって生きた男。老いた獅子は次の世代へと希望を託した。それが、劉凜風という子孫。

「さあ、手を取り合いましょう」

 凜風は僕に手を差し伸べる。小麦色に焼けた瑞々しい肌だった。

「でも君は、比野さんを死なせた。罪を犯したんだよ。それを僕は知ってしまったんだ。もう君は、ここにはいられない」

「確かに、私は残酷な事をしました。でも、それは罪ですか?」

 はっと息を飲んだ僕。

 比野楓華に手を下したのは彼女ではない。居場所を教えて鍵まで渡したのも林田に脅迫されたと言えば正当だし、林田に殺人を教唆した訳でもない。彼女が罪を問われる事はない。

「だけど、いつまでも楓華さんのフリは続けられないよ。君は外国人だ。ビザだって切れる。そうなれば不法滞在になる。台湾に帰れば、君の身元もバレる。君の嘘だって、全部バレるんだ」

「そのために、晴人さんがいます」

 えっ、と僕は声をこぼした。すると凜風は透き通った声で続けた。

「結婚しましょう」

 潮騒に掻き消されそうな優しい声。

 頭の中が真っ白になる。彼女に抱いていた気味の悪さや畏怖、美への服従心すらも凍結した。ただ彼女の言葉は僕の心臓に絡みつく。

「何を、言い出すんだ」

「台湾では、私の位牌が晴人さんと結婚したんですよね。それなら日本でも結婚しましょう。結婚すれば、日本に居られる。私、晴人さんみたいに優しい人……大好きです」

 目蓋の隙間から、茶色い瞳がじいっと僕を覗いている。

 魔性を感じた。生命感に満ちた爽やかさから一変し、妖艶で毒々しい美が僕の心臓を舐め回す。その赤黒い美しさに全てを奪われても良いと感じた。飲み込まれそう。

 正気に戻ると両肩に鳥肌が弥立よだっていた。

「君は、いったい」

 台湾の言い伝えを思い出した。

 未婚のまま亡くなった女性は孤娘グーニャンという悪霊になり、家に災いをもたらすという。生家では彼女たちを供養できず、娶神主ツァシンヅウという冥婚が行なわれる。

 凜風は自らを殺し、生きながらに孤娘と化した。遺影に写る穏やかな笑みを湛える彼女は、ここにはいなかった。

「晴人さん。私の手を、握ってください」

 細い手を伸ばす凜風。指先が鉤のように曲がっていた。

日本あなたは、また台湾わたしを見殺しにするのですか……」

 凜風は萎れかけの向日葵のような妖艶な笑顔を見せた。その背には宝石のような緑色の海と、宇宙まで落ちてゆきそうな青空。僕の胸から緊張が解けてゆく。

 大切に運び続けた砂漠の水を全て溢してしまったかのような、絶望感と解放感。

 僕の死んだ花嫁は、いつまでも笑っていた。

 遺影のように。

                               了

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真夏の花嫁は灰と消えた ぼく @kamohat

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