第49話 もしアメリカ軍が沖縄から出ていけば、どうなると思いますか

「向こうのニュースで見ました。私たち、結婚したんですね」

 彼女は花のように微笑む。認めた――。

 訛りのない日本語。ニュースキャスターのように正確な発音。彼女は写真よりずっと美しい。茶色い瞳に吸い込まれてしまいそう。

「楓華さん、そんな事になってしまったんですね。悲しい」

 凜風は青空に目を細める。快晴の空が泣いたようにゴウッと空気を鳴らした。

「楓華さんと会ったのは三ヶ月前の夜。士林シーリンの駅でした。彼女、ベンチに座って泣いていました。心配して声掛けたら、帰りの飛行機の時間を逃したみたい。お金も残ってないし、泊まる所もないし、言葉も通じないし。だから怖くなって」

 それで凜風が自分のアパートに泊めたという。瀬里加が一時帰国中だったので部屋は空いていた。

 凜風は近所での評判の通りだ。この時も困っている観光客を助けたという事だ。

「色々と話を聞きました。だって、ストーカーに狙われてるって、沖縄に引っ越したけど住所がバレないか怖いって。それで私は思い付きました」

「二人で生活を入れ替えよう、って?」

 僕が尋ねると、凜風は少し戸惑ったあと静かに首肯した。

「外国にいれば、恐い人にも見つからないでしょ」

 数日間、楓華を自宅に住まわせた後、凜風は沖縄に渡った。比野楓華は凜風のアパートに残り、林田圭司のストーカーのほとぼりが冷めるのを待った。定期的に連絡を取り合い、お互いの状況を確認し合った。こうして二人は入れ替わっていた。

「もしかして、SNSも」

 念入りにTwitterとFacebookのアカウントまで入れ替えていたらしい。現在地表示で入れ替わりを発覚させないためだという。

 さらに楓華はYouTubeアカウントも伝え、凛風に『ふーたん旅行記』を更新させていた。あたかも自身が沖縄にいるかのように見せかけるために。

「楓華さんが部屋を貸してくれたんです。日本にいる間、マンションに泊まっていて良いって。こうして部屋も交換したんですよ」

 それで凜風のFacebookから『助けて』と投稿が発せられたのだ。凜風のアパートに林田が襲来した時、比野楓華は助けを呼ぼうにも中国語を話せない。警察を呼ぼうにも言葉が分からない。そこで藁にも縋る思いでFacebookでSOSを発したという事だ。

「僕には分からない事があるんだ。もし楓華さんをストーカーから守るためなら、ただ君の家に泊めてあげるだけで良いじゃないか。入れ替わる必要はない。どうして君は日本に来たんだい」

 それは、と凜風は基地のフェンスを見据える。

 刺し貫くような鋭い目だ。彼女の視線の先には無数の赤テープや貼紙。平和を求める声を傘に、米軍を罵る言葉も多い。

「この人たちと、闘うためです」

 凜風の瞳に力がこもった。あの目だ。独立デモに参加し、額から血を流して叫んでいた、あの写真の目だ。

「晴人さん。私の曽祖父には会いましたか」

 頷く僕。「ああ、ヨシオさんだね」

「私たちと日本人は、昔は一つの国の仲間でした。互いに手を取り合い、ヨーロッパやアメリカに負けない強大な国を作っていった」

 滑らかな日本語だ。僕はヨシオさんに言われた事を思い出した。

「日本は大東亜戦争で敗れ、台湾を切り離しました。そこから先、台湾人がどういう運命を辿ったか、詳しく聞いたでしょう」

 大陸から中華民国政府が入ってきて、台湾に住んでいた人たちを迫害や略奪、そして虐殺した。財産を奪われ、自由を奪われ、多くの人が命を失った。

「その後、日本は中国と国交を結び、逆に台湾とは断交しました。だから知らないでしょ。戦争が終わって、日本人もアメリカに憲法を書き換えられて骨抜きにされた。だけど殺されはしなかった。台湾人は国民党政府によって殺された、本当にたくさん殺されました」

 幼さの残る凛風から発せられる物々しい言葉。僕の心臓に突き刺さってゆく。

「台湾が民主化したと思ったら、次は中国からの脅迫が始まりました。あの国は、私たちの国を奪おうとしている。だから私たちは立ち上がりました。でも、日本の人は……台湾が侵略されそうだって事も、あまり知らない。昔の兄弟が窮地なのに、みんな知らない」

 悲しげに僕の目を見つめる凜風。言葉が出ない。

「もし台湾が奪われたら、どうなるか分かりますか。次は尖閣、沖縄、その次は九州、四国、最後は日本列島ぜんぶ。取られてしまいます」

「待ってよ。いくら何でも、それは――」

「晴人さん。沖縄へ来て何日目ですか」

 ぴしゃりと遮られた。穏やかだが、有無も言わせぬ強い眼光。

「国際通りは見ましたか、那覇空港はどうでした。中国語の看板がたくさんあったでしょ、観光客も中国人ばかりだったはずです」

「それは、人気の観光地だし。中国からも近いし」

「晴人さんは、北海道の人でしたよね。札幌でも函館でも、中国人が土地を買ってるんです。そこで日本人が働いている。少しずつ日本は乗っ取られている」

 それに、と金網フェンスに手をかける。『米軍は出ていけ!』の横断幕が揺れた。

「もしアメリカ軍が沖縄から出ていけば、どうなると思いますか」

「それは日本人みんなが望んでる事じゃないか。戦争で負けて取られた土地を、取り返す事になるんだから」

「でもその後、中国に奪われてしまいます」

 凜風は『米軍は出ていけ!』の横断幕を引き剥がした。

「デモ隊は見ましたか。中国語や韓国語の貼紙は見ましたか。沖縄からアメリカ軍がいなくなる事は、中国にとって都合が良いんです。逆に言えば、米軍基地があるから沖縄に手を出せません。今は」

 凜風は折り曲げた横断幕を脇に抱える。

「デモ隊の人たちはアメリカ兵に汚い言葉を吐きます。防衛局の人に暴力を振るいます。でもテレビには映らない。この異常事態をメディアは取り上げない。だから沖縄が取られそうな事、日本人は知らない。台湾が狙われている事……それは日本人、もっと知らない」

 小さく息をついた凜風。胸に手を置いた。

「だから私が伝える。この沖縄の危機を、日本には古くからの兄弟がいる事を――」

 凜風の意図が分かった。

 比野楓華の知名度を利用したかったのだ。彼女のYouTubeチャンネルやSNSアカウントを使えば、今の日本と台湾の姿が多くの人に伝えられる。

「そのために、比野楓華さんを……君が、殺したのか」

 凜風の目蓋が微かに震えた。

「どういう意味ですか」

 凜風の声が低くなった。彼女の茶色い瞳が僕に向く。

「比野楓華さんが殺された件、まだ説明がつかない事があるんだ。だってさ、君と楓華さんが入れ替わってる事は、君たち本人しか知らなかったはずなんだよ」

 凜風は目を細める。「ええ、そうです」

「じゃあ林田圭司だって、知らなかったはずだ」

 そう言った瞬間、凜風の瞳孔が収縮した。

「林田にストーカーされていた事情は、君も知ってたんだよね」

 無言で頷く凜風。口唇が小刻みに震え出した。

「君の居場所は、僕でもTwitterの情報から見つけ出せたんだ。もしかしてだけど……君の所へ、林田圭司が来たんじゃないのかな」

 凜風は震えた口唇を噛み締めている。それでも僕は続けた。

「そこで、君は。比野楓華さんの居場所を、教えたんじゃないかな」

「……ごめんなさい」

 そう凜風は僕の言葉を遮った。沈黙の浜辺を潮騒が邪魔をする。

「晴人さんの言うとおりです。あの男の人が、私を楓華さんだと思って訪ねて来ました。それで私、脅されたんです。楓華さんの居場所を言わなければ、殺す――と」

 凜風は両手で顔を覆う。泣いているのか。

「ごめんなさい、恐かったんです。私のせいです。私が言ってしまったから、アパートの鍵まで取られたから、楓華さんは……」

 林田は比野楓華の居場所を知り、台北へ飛んだ。泰山タイシャンのアパートで比野楓華を発見し、扼殺して部屋に火を放った。死体の身元が曖昧になったせいで、この一件は僕や陽まで巻き込んだ複雑なものになった。

 不幸な偶然が重なったのか。いや、僕は違うと思う。

「君の所へ林田が来たのは、事実なんだね」

 脅されたとしても、比野楓華に連絡して逃がすチャンスはいくらでもあったはず。実際に林田と遭遇したのなら、あの男の殺意は汲み取れただろう。比野楓華を殺そうとしていたのは気付いたはずだ。

「だから僕は思ったんだ。君は、わざと比野楓華を殺させた」

 凜風は顔を隠したまま固まっているだけ。何も言わない。

「お願い、凜風さん。違うと言ってください。僕は自分の疑いを拭い去りたいんだ」

 これ以上黙っているのなら、僕はアレを見せなければならない。僕が持っている情報で、もっとも信じたくないアレ。もっともおぞましいアレを――。

 僕はスマホを取り出し、画像ファイルを開く。

「実はね、林田圭司は……こんな事も残してたんだ」

 最初に見た時は何の事か分からなかった。しかし二人が入れ替わっていたと分かってから、意味が分かってしまった。その言葉。僕は林田の書き込みのスクリーンショットを開いて読み上げる。

「【お友達は言ってたよ。最後は部屋ごと燃やしてほしいって。可哀想なふーたん。お友達に裏切られたね】……って」

 その瞬間、凜風の指の隙間から目が覗く。

「これが確かなら、部屋に火を点けるよう言ったの、君なんだ……」

 凜風が火を放つように指示した。むしろ放火する事を条件に比野楓華の居場所を教えたのかもしれない。

 死体が燃えてしまえば身元は判別が難しくなり、自分の代わりに比野楓華が死んだ事になる。つまり劉凜風は死に、自分は比野楓華として生きてゆく事になる。

 反論は分かっている。自分を殺して何の得があるの、だろう――。

「君の事はずいぶん調べたんだよ。君は台北で独立派のデモに参加してたんだよね。それで対立団体にも睨まれていて、黑社会の連中に誘拐されて殺されそうになった事がある。そのうち本当に殺されるかもしれない。それだったら、いっそ方が安全……、だろ」

 だから比野楓華を犠牲にして、自分は他人に入れ替わった。

「僕は、そう思ってしまったんだ。でも信じたくない。だから君の口から否定してほしい。そのために、僕はここへ来た……」

 すると凜風は顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろしてゆく。

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