苦しみの果てに…
鈴ノ木 鈴ノ子
くるしみのはてに…
緑色濃い木々が茂る細い山道をバイクで駆け抜ける。止まれば蒸したように暑い風も、走る時は冷えた冷気を身体に浴びせくる。もちろん、冷房のように冷たくはなく、ぬるいと言えるくらいの風だ。
目的もなく当てのない、まるで、そう、逃避行とでも言うべき旅へと私が出たのは、世間がお盆と呼ばれる先祖供養の連休に入ってすぐの事だった。
必死にこなしてきた仕事が些細なことから、まるで雪崩で崩れるように躓くと、それが口火であったかのように、今度は唯一の家族だった母親が若年性認知症となって不安定となり、介護を頑張ったものの結局上手くいかず、施設へ入所となった。面会に行くたびに母は喜んでくれたが、徐々に徐々に衰えていく様をみるたびに仕事で痛んだ心は更に軋みを上げていた。恋人の彼にはこんなことを話せば…といった恋愛の不安と、軋みを上げた心が彼との言い合いによって破心することを恐れたことにより、すれ違いが度々起こるうちに、私は逃げるように少し距離を置いた。結局、仕事でも家族でも恋でも、躓き、転んだ私は、積もり積もった物を爆発させるように、前日に泣きはらして、その果てに、ハンドバック一つをバイクのボックスへ投げ込むように突っ込むと、やけくそのようにバイクのハンドルを握って自宅マンションを飛び出したのだった。
高速を飛ばして山深い名前も知らないインターで降り、山奥の道へとハンドルを向けた。しばらくして不意に更に主要道から外れた林道へ分入り、薄暗く水が滴り落ちてくるかなり冷える古い手掘り隧道を抜けると、垂直にまっすぐ伸びている美しい杉の木立の合間の道へと出た。間伐されて綺麗に整備された杉林を進むうちに、一種の取り憑かれ凝り固また何かが緩みを見せたような時のことだった。
通り過ぎた視界の片隅に和傘のようなものが見えた気がして、私はゆっくりとブレーキをかけてバイクを止めた。ヘルメットのバイザーを上げて来た道を振り返ると、木陰となっている錆びたバス停の看板の近くに、1人の美しい女性が立っているのが見えた。
この世のものではない。
見た途端にそう理解できた。
夏の薄絹のようにその姿の裏側に隠れるべき景色が透けて見える女性だった。典型的な日本幽霊のように透かし紙に描かれているような彼女は着物を身に纏っていた。そもそも山深く林道脇に着物姿のご婦人が立っていること自体も異様であるから誰が見てもそう感じ取るかもしれない。だが、その姿には神々しさのようなものがあった。顔は日本人形のように気高く美しく整っており、その身から漂い纏う気高さのような気品は清流のように澄んでいて夏の晴天のような清々しさを漂わせていた。
「こんにちは」
物腰柔らかな声が頭へと聞こえて、その美しい顔がこちらへにこやかに微笑んで軽く会釈をした。距離的には私のいるところまでは叫ばなければならないだろうが、彼女の声は蝉時雨にかき消されることはなく、そよ風に揺れる風鈴の音色のように美しく頭へと響く。
「こんにちは」
私はその場でそう返事をしてから、バイクを反転させると道を戻ったのちバス停の真横に止めた。なぜ、そうしたのか、理由は思い浮かばない。強いて言えば
「なにをなさっているんですか?」
私は人に話すように当たり前にそう話しかけてしまった。感覚としては幽霊に間違いはないのだけれど、その雰囲気は人のそれと同じだったからだろうと思う。それにバスはとうの昔に廃止となっているようで、錆びたて煤けた停車案内板に白色スプレーで消えかけの✖️印が打たれているのが見てとれた。
「汽車を待っているのよ」
傘をさしたままの彼女がそう言いながら笑う。その笑顔には背筋がぞくりとするほどであるのだけれど、それは恐れを抱いたときに感じる震えではなく、美術品などを見たときの感動に等しいある種の震えに等しかった。
「汽車ですか?」
「ええ、この辺りもかなり変わってしまったけれど、昔は汽車が走っていたのよ」
そう言って着物の袖から白く透き通る美しい手を伸ばすと、右から左へとゆっくり動きながら駅員が安全確認をするような仕草をした。
「えっと…乗るためですか?」
その仕草に最近怖い話を特集したテレビ番組で見た幽霊列車の話を思い出してしまい、そんなことを口走ってしまった。でも、彼女は優雅な仕草で首を横に振る。
「違うわ。東京から帰ってくる主人を待っているの」
「ご主人さんですか?」
「ええ、いつもこの時期に帰ってくるんです。普段は東京で軍務についていますから中々帰ってこれないんですけれどね」
「軍務?」
軍務という聞きなれない言葉に私は首を傾げた。
「今の方々は知らないわね…。主人は海軍士官なの。軍務と言うのは軍での任務のことをいうのよ」
「なるほど…。意味はわかりましたけど…でも、あの戦争からもう…70年以上も過ぎて…」
つい最近、新聞で戦争特集が組まれていたのを思い出した。忙しくて記事は読んではいないけれど、母方の祖父は南方戦線で戦って玉砕したと聞いたことがあった。
「ええ、時は流れましたからそうでしょうね。でも、主人には国へ無事に連れて帰るという勤めがありますの」
そう言った彼女は視線を上げて杉の合間から光の差し込む辺りを見た。透き通る姿に更に陽の光が差し込んで光り輝くようだ。
「連れて帰るですか?」
「ええ、
「故郷を探す?」
連れて帰るということもそうだが、さらに故郷を探すとはどう言うことなのだろうかと私は気になってしまった。生まれ育った場所なら探すことなど容易ではないかと思ってしまったからだった。
「ふふ、そうですね、貴女の時代ならきっと機械に慣れ親しんでいるのでしょうから探すのも容易かもしれませんね。でも出征して行った方々は、故郷の面影を覚えているのです。この辺りにも立派な集落があったのですが、今はご覧の通りに杉林となりました。あたりも様変わりしてしまってどこに何があったのか、もう誰も覚えてはいないでしょうね」
「それは…」
そうかもしれないと妙に納得してしまった。母の実家は山奥でお墓参りの時には皆で集まるが、建物は取り壊されて草地へと姿を変えていて、ここに家があったことなどは想像もできなかった。
「その方々を子孫さんの元まで送り届ける任務を主人はしているのです。確かに戦争から行く年月が過ぎましたけれど…、やらねばならぬことと言っておりました」
その語りは私の胸を打つのには十分だった。
「ごめんなさい」
自分の浅慮を恥いるように謝ると、申し訳なさそうな顔をして彼女が振り向いた。
「こちらこそ、こんな話をごめんなさいね、今の方には分かり難かったわね」
私は首を振るとその仕草を見た彼女が優しく微笑んだのちになにか思いついたような顔をした。
「ねえ、少しお話していかないかしら?」
「えっ!!」
私の戸惑った返事に彼女は口もとに手を当てクスクスと可笑しそうに笑った。
「貴女はとても素直な方のようだから気になってしまったの。それに取って喰ったりするわけじゃないわ、たまには今の若い方とも話してみたいと思ったの」
そう言って笑う彼女からは不気味な怪しさのようなものはない。以前、墓参りの帰りに悪しきものと出会ったことのある私にはその時感じた澱みのような空気感を覚えていたが、そのような空気感も微塵も感じることはない。
それにあたりは澄んだ山の雰囲気が漂っていている。
あれだけ騒がしかった蝉の鳴き声はハーモニーのように優しくなり、暑さを少し纏った山風がそよかぜのように吹いている。木々の葉が緩やかに揺れ互いに触れてはざわめき、太陽の日差しを遮る向きを変えては、あたりへモザイク画のような不思議な模様を書いては消えてを繰り返していた。
この、山が生きているような感覚に安心感を覚えた私は、彼女と話してみたいとその誘いに乗ることにした。
「いいですよ」
「あら、よかったわ。ありがとう」
「お礼なんて…私も誰かと話したかったのかも…」
「あら、それならちょうどよかった。私は生きてないから後腐れなく聞くことができますよ」
冗談めかしてそう言った彼女が口から声を出して笑った。おそらく常世に住まう彼女からは街中で見かける人々よりも生き生きとした生気を感じる。そしてやはり笑顔がとてもよく似合う女性だ。
私はその姿にふっと見惚れてしまい、そして同時に、生きていないと言った彼女の言葉の意味を理解して、驚きを隠せなかった。
「えっと…不躾な質問でごめんなさい。亡くなっているのが分かるんですか?」
何も考えることも躊躇うこともなく、私はそう口にしてしまった。
「ええ、わかりますとも。もちろん、最初はわかりませんでしたよ。でも、徐々に徐々に季節が巡っていく様を長いこと見ていて気がついたのです。やはり主人がお勤めからお帰りになられる度に、東京の景色が様変わりしてゆくさまを話して下さるから。あ、そうそう、バス停の後ろに小さな五輪塔が見えないかしら?」
そう言って彼女が後ろに振り向いてから、透き通る美しい指で真っ直ぐに先をさした。私はエンジンを止めてバイクから降りるとバス停の横にあたりに止めてから、彼女が指差す先を覗き込んでみる。
石積みされた段々畑の跡な斜面に沿って下へと伸びていた。そして放棄された段々畑のあちこちには落葉樹が根を張り葉を揺らしているのが見える。手前のバス停近くに視線を戻すとバス停の少し後ろに1本だけ真上に立派に伸びた杉の木の傍に苔生して露を纏った小さな五輪塔があった。
それは杉の葉の隙間から零れ落ちるように降り注ぐ柔らかな陽に照らされていて、苔の色若々しい緑色と水晶玉のような輝きを湛える水滴を帯びていた。
「木の傍ですか?」
私が視線を向けたままそう言うと彼女がゆっくりと頷く。
「ええ、あれです。どう、綺麗でしょう?」
「ええ…。本当に綺麗です」
墓を綺麗と誉めることなど普段ならあり得ないだろう。墓とは死の象徴であって、それを見たとき人ならば、どうしても一抹の仄暗い印象を抱いてしまう。でも、眼前に見える五輪塔には仄暗さは微塵もなく、あえて言うのならば、彼女から漂う気品を凛としたとでも言うべきなのか、終焉の…いや、有終の美とはこうではないだろうかと彷彿とさせて納得してしまうような雰囲気があった。
「ありがとう、そう言って頂けて嬉しいわ」
彼女はそう言って、素敵な少し照れたような可愛らしい微笑みを返してくれた。
「ちょうど私が肺の病で命尽きるあたりにね、家の者に頼んで主人が帰って来た際にすぐに会えるようにと、あの場所にお願いしたんです。」
ふふっと笑う彼女の表情には一抹の寂しさが垣間見えた。
「そうなんですか…」
その話を聞いて女として羨ましいとも思えると同時に死の間際に純粋に一目会いたかったであろうというその想いが伝わってきて、私が声を詰まらせそうになると、彼女が気持ちを切り替えるように陽気な声を上げた。
「あらごめんなさい、辛気臭くなってしまったわ。私ったら嫌ね、もう、うんと前のことなのに…。でも、ありがとう、悲しんでくれるのはありがたいことだわ」
そう言って微笑んだ彼女は嬉しそうに会釈をすると、話題を切り替えるように澄んだ瞳を私のバイクへと移した。
「大きい二輪車に乗っているのね、少し座ってみても良いかしら」
その瞳には興味のようなものが浮かんいて、リアトランクレスタイプのフラットシートに視線を向けた彼女がほんの少しソワソワとしているのが分かった。
「どうぞ、座り心地はとってもいいですよ。私もお気に入りなんです」
傘を畳んだ彼女が、その美しい手でシートを軽く叩いて埃を払うと嬉しそうにシートへと腰を下ろした。
叩かれたシートからは音が聞こえてきて、腰掛けた際にはバイクが、確かに少しだけ沈んだことに私は気がついた。
「とても良い座り心地だわ」
新しいものに触れたことに少し高揚したような声を彼女が上げてると、綺麗な指先の手の平で乳児をあやすかのようにゆっくりと優しくシートを撫でた。
「それに大切にしているのね。この子、とても喜んでいるわ」
大切にしている愛車を褒めてもらえたことに嬉しくなって私が頷くと、その後に少し困ったような表情を彼女がする。
「でも、心配もしてるわ。今日は運転がいつもより荒れていたみたいね。この子なりに気を遣ったそうよ」
やけくそになってハンドルを握っていたせいかもしれない、確かに普段よりもバイクの動きや感触はどことなく鈍くて、なにかに抑制されていたような気がしていた。愛車にまで迷惑をかけてしまっていたのかと思うと、私はドライブで少しばかり晴れた気持ちが再び沈んだ。
「話したいと言っていたけれど、なにがあったの?」
その口ぶりは幼子を心配する母親のように優しくて、私の気持ちの糸を少しだけ緩ませる。
「ここのところ悪いことばかりが続いていて…」
心配をしてくれる彼女に私ははっきりと言うことができなかった。覆い隠すというよりは、包み隠すように表面上だけを取り繕うような返事を返すと彼女は更に心配したように口を開いた。
「恥ずかしがり屋さんなのかしら? しっかりとはっきりと文句でも何でも言えば良いのよ。隠すことは更にしんどいのだもの」
「は…はい」
「ふふ、今の若い子は慎み深いのかしらね」
「慎み深いですか?」
「ええ、私たちの頃はね、聞いてもらえる時なら、なんでも話したのよ。周りに聞かれたくないなら、どこか離れたところで話をしてたりしていたわ。堪えたりもあったけれど、話せるところで聞いてもらって発散したものよ。聞いてもらって、正しいことや間違いに気がつくこともあったわ、今となってはそれが成長になったのだろうと分かるのだけれど、あなたの時代はそんなに話しにくいのかしら?」
そう言って彼女が心配そうにこちらを覗きこんだ。
「話しにくい…そうかも知れません…。働き始めてからは友達とも時間が合わなくて話したりできないし…。会社の友人にも同僚にも上司にもどこまで話して良いか考えてしまいます。アプリで呟いたりしても同情してくれるけど、本当かどうかなんて誰かもわからないし…。彼氏にも迷惑になっちゃいけないと思えるところもあって…」
自然とポケットからスマホを取り出して、私はそれを手に持ちながらそう話した。最近は話す時にもスマホか何かを持っていないと落ち着かなかった。会社ではペンをそれ以外ではスマホをという感じだ。相手の目をしっかりとみることができず、ペンに画面にと視線を落としてしまうことが多かった。社会人失格の行為なのだけれど、それでも、そうしなければ人と話すことさえも苦しかった。
「アプリと言うのは、その手に持っている機械で話すような感じなのかしら?」
「そうですね…そんな感じです」
「なるほどね。機械を通じての相手では仲を深めるには時間がかかるわよね…。それに今の貴女はきっとそう言った話の時には目を見て話すのは怖いでしょうし…」
彼女が口元に人差し指を当ててしばらく考え込むと、何かを思いついたように、口元の指を離して自分の太ももを叩いた。
「そうだわ、まずは頭にかぶっているものを取ってみて」
「ヘルメットですか?」
彼女の声が頭に響いて聞こえて来ているせいか、ヘルメットを被ったままであったことに指摘されて気がつく。
「ヘルメットと言うのね、そう、それよ」
私はヘルメットを取るとミラーの上に被せるようにそれをかけた。とたんに撫でられているように感じるほどの優しく冷えた風が髪の毛の隙間を吹き抜けてゆき、その冷たさに自然と頬が緩んできて息をゆっくりと吐きだすと彼女がそれを見て更に続けた。
「深呼吸してみたら?ゆっくり、吐いてから、ゆっくり、吸うの。本当にゆっくりよ。それをしばらく繰り返してから、肩の力を息を吐く時にゆっくりと抜いてごらんなさい」
私は頷いて言われたとおりに深呼吸をしてみる。
最初はいつもと変わらない、ただ、息吸って、吐くだけだったが、数回繰り返してゆくうちに、やがて風の纏う匂いに気がついた。
山の柔らかな空気の中に、杉の匂い、山肌の木の葉や土の匂い、彼女から焚き染めたお香のような匂い、愛車のバイクの匂い、色々な匂いが辺りを漂い、風に流れていた。
それらは香りと言うよりは、匂いと言った方が良いほどに強く、一つ一つが生き生きとしているようで、嫌な匂いではなく、それぞれ魅せるような匂いだった。
それは普段なら気が付かない、気がつけば誤魔化したり、気を遣ったりとするかもしれない、でも、この自然のなかではそんなことを気にする必要などない、生き生きとしたあるがままを体現するような匂いに、心地良く包まれたように味わうと、自然とまるで空気が抜けるように、肩から力が抜けていた。やがて肩を腕をだらりと下げて、それを呼吸をする度にゆっくりと上げ下げしてゆくと、体は何とも言い難い、言葉に表すことができない感触の末に、意識が研ぎ澄まされてある種の落ち着いたようになると何ともなく私はゆっくり目を閉じた。そして生まれた赤子が初めて目を開くように、ゆっくりと目蓋を開くと、そこには、先程まで見ていたはずの景色が、更に眩しく光り輝くように飛び込んで見えた。
私の顔つきを見た彼女がゆっくりと頷いた。
「そうそう、それでいいのよ。張り詰め屋さん」
「張り詰めていたんでしょうか?」
「そう見えたわ…。肩肘もだけれど、内側の心も張り詰めて、まるで紙風船みたいに膨らんで、叩けば割れてしまいそうなほど…。それではこの子も心配するわよ」
そう言った彼女がバイクシートを優しくトントンと叩いた。
「私、そんなに…」
「ええ、でも、それは生きていれば仕方ないことなのよ。自分ではその姿に気が付かないものなの。でも、それを誰かに気付かれたり、勘付かれてしまうと、見た人はつらくなると思うわ…彼氏さんならなおさらじゃないからしら・・・」
「私、話していたつもりです…」
私はそんなことはないと否定したが、彼女は首を優しく左右に振った。
「きちんと話すと言うのは、全てをよ。嫌われても良いから、全てを聞いてほしいと思って話したかしら?」
そんなことなどはできるはずがなかった。彼は私より責任ある立場の人間で、あまり迷惑を…、私がかけたくなかったから、柔らかく纏めて話を伝えていたのだった。
「誤魔化して話をしていなかったかしら?」
「それは・・・」
「全て言えないこと、秘密にして墓場まで持っていかないといけないことだったかしら?」
「そこまでは…」
「意地悪な聞き方をしてごめんなさい。でも、遠慮せずに話してみてもよかったのではないかしら?」
「そんな重たそうに話せないです…」
言い訳がましくそんなことを言ったところで意味をなさないことは分かっていた。
「重たそう…深刻なと言う意味かしら?」
私が頷くと彼女も頷いて更に口を開いた。
「でも、大切な人なら尚更話してみるべきよ。恋人で心から本当に好いた人なら聞いてくれるわ。そして、怒ったり、笑ったり、泣いたり、そして、一緒に苦しんでくれる」
「苦しむ?」
「ええ、苦しむの。嫌なことも良いことも、お互いに聞いて苦しむの。共感するということは苦しいことなのよ。でもそうすると相手を理解できる。そして相手もまた理解してくださるの」
彼女の瞳が遠くを見据えながら微笑みを湛えると、少し沈黙して思考した後に口を開いた。
「気持ちはよくわかるのよ。そうね、私の話になってしまうのだけれど聞いて下さる?」
私が頷くと彼女は再び話を始めた。
「私と主人は見合い結婚だったの。しかも、両家とも思惑の婚姻であって、私も幼なかったから、上辺だけ取り繕うようしながら夫婦として過ごしていたの。あの人は海軍省にお勤めでしたから、たまにしか帰ってこなかったですし、それで互いに済ませていたようなこともあったのだけど、ラジオが開戦を伝えてから、暫くして帰宅した主人に呼ばれてね。向かい合って話をされたの、お前は私が死んでも1人で生きていけるかと」
「え?」
意味がわからないので私が声を上げると、彼女もそうよね、と言ったように笑った。
「口下手な人でもあったし、いきなりそんなことを言われたものだから、私も咄嗟に死ぬなんて言わないでみたいなことを言ったの。でもね。主人は軍人であったし、戦争が始まって戦地へと向かうことも薄々感じていたからそう言ったのでしょうね。馬鹿正直な人でもあったから…。それで再び同じことを聞かれて、私は考えてから、取り繕うことなく、しっかりはっきりと生きていけないかもしれませんと正直に言ったの。本当に私は世間知らずだったもの、そうしたら主人は満遍の笑みでね、よく言った。と褒めてくださったわ。そして、今日からは全てに関係なく、2人の時は互いに全てを話すと言ってね、主人は今までの生活や軍務まで全てを包み隠さず話してくださったの。もちろん、軍務は軍の機密だから、家族にも話してはならないのに彼は全てを話して、俺にはもう隠すことはなにもない、俺は言い切ったから、君も話せるならいつでも話してくれて構わないからと言い残して、しばらく外歩いてくると出て行ったの。自分が居ては私が考えることも話すこともできないと思って気を遣ったのね。主人に言われて考えてみると、一度、東京へ出てしまえば中々戻れないでしょうし、ましてや艦隊勤務になってしまえば手紙さえままならないことに気がついていたから悩んだわ」
「それで、どうしたんですか?」
「覚悟を決めて、戻って来た主人に全てを話したの。私が話を終えるまで聞いてくださってから、それに対して話し合いをしてくださったわ。時には言い合いになったりもしたのだけれど、私が涙をこぼしても誤魔化したり、怒ったりもせずに、きちんと聞いて話してくれたの。互いに苦しい話にもなったけれど、主人は逃げずに一緒に苦しみながらも話し続けたわ」
「苦しみながらなんて…」
「でも、それは間違いではなかったのよ」
「え?」
「互いに話を続けて、夕暮れ時にようやく落ち着いた頃、互いにある程度は気持ちが楽になっていたの。ある程度よ、全てが晴れたわけではないけど、それは土台無理なことも理解できたわ。主人も少しは気持ちが晴れたみたいなことを言いながら、互いに譲れないところ、譲れるところの分別が分かってきたと言ってくださって、帰京するまでの間は、夫婦を実感することができたわ。あの1日にも満たない苦しい話し合いだったけれども、お互いの理解を深める時間としては十分だった」
「羨ましいと思います・・・。私なんて話をしたらきっと・・・」
「どうして?話もしていないのに、相手を思いやるのは間違いよ」
「え?」
「だって、互いに好きになってお付き合いしているのでしょう?」
「それは、そうですけど」
その彼女の純粋な言葉が心に突き刺さった。確かにお互いに心を寄せて実を結んだ恋なのだ。
「どちらかが我慢を強いられるようなものを恋とは言わないのよ、一緒にいて、幸せのように苦しんでゆける人こそが
それに反対するだけの言葉を私は持ち合わせていなかった。関係を守りたいあまりに私が一歩引くかのようにしていた事は間違いないのだから…。
「でも、もう、今は・・・」
「それは終わった事なの?」
「え?」
「私の話ばかりでごめんなさいね、でも、伺っていて、お別れしたということはなさそうに感じたのよ、もしかしたら待ってるんじゃないかしら?」
「待ってる?」
「そうよ、主人もそうだけれど、男性は私たち側からの行動を待っている時があるのよ」
そこまで話したところで、不意に遠くから汽車の汽笛の音が聞こえてきた。あたりを見渡しても姿は見えないのに、その音はどんどんと近づいてくる。
「ごめんなさいね、どうやら、帰ってきたようだわ」
彼女が嬉しそうに立ち上がった途端のことだった。
道路の真ん中にゆらりと陽炎が立ち昇り揺れるとぼんやりと枕木とレールが浮かび上がってきた。徐々にそれがしっかりと体現した頃にはアスファルトは消え去って砂利が敷かれた立派な鉄道線路が目の前に出来上がっていた。
「あらあら、今日は大きいのね」
やがて遠くに機関車の陽炎に揺れる姿が徐々に見え始めた。
炎天下の日差しに照らされて輝く黒色の車体、その両脇から白い白煙のような水蒸気を吹き、煙突からは銀煙のような煙が吐き出されている。きっとこちらを見つけたのだろうか、警笛のポォーっという音が3度ほど響くと、汽車の速度は徐々に落ち始めた。
近づいてきた磨き抜かれた黒色の機関車にはナンバープレートのように「D52 0084」と金文字で記されている。その下に海軍省の文字と錨のマークの輝く丸いプレートが据え付けられていた。
ゆっくりと鉄の軋むような音を立てながら人の歩く速度で進んでくるとやがて一呼吸置くように蒸気の白煙を吐き出して停車したのだった。
木製の客車は10両ほどが引かれているようだったが、誰一人降りてくる気配は見受けられない。やがて先頭客車の扉が開いて、白い学生服のような詰襟軍服に短刀を下げた軍人らしき男性が客車から軽快に飛び降りた。そして小走りに砂利の踏む足音が私たちの方へと向かってきた。
「八重子、今、帰ったよ」
男性はその場で彼女に敬礼を向けてそう言ったのちに帽子を取った。坊主頭に引き締まった顔立ちが印象的な凛々しい男性だった。
「おかえりなさい。高吉さん」
八重子と呼ばれた彼女は和かにそう返事する。その満遍の笑みは幸せそのもののようだ。
「今年は帰ることができましたね」
「ああ、一昨年と昨年は下の道が土砂崩れで通ることができなかったからね。今は仮設道ができていたから通ることができたよ」
そう言った彼の言葉に、ここへの道中に土砂崩れで片道交互通行となっていた道路工事箇所を思い出した。どうやら人の手が入っていなければ列車を走らせることはできないようだった。
「そちらは?」
「現世の人よ、お話相手になってくださってたの」
「そうなのか・・・。こんにちは、お嬢さん」
高吉さんと彼女が言った男性が頭を軽く会釈をした。
「あ、えっと、こんにちは・・・」
戸惑いながら返事を返すと、高吉さんはにこりと笑って素敵な笑みを返してくれる。でも、その姿は彼女と同じように透けて見えた。
機関車もそこにあり形は見えているのだが、隠れるはずの反対側の景色が透けて見えている。運転席からは同じように透けて見える運転手さんがこちらを物珍しそうに高い運転席から見下ろしていたが、私と視線があるとペコリと頭を下げてきた。
「で、彼女はどうしたんだい?」
「お話しの中身は乙女の秘密というのことで言えないのですけど・・・。ああ、そうだわ。昔、私になんでも話しなさいとおっしゃってくださった時のことですけれど、私が話すまで待つつもりだったかしら?」
「古い話だね・・・。ああ、僕は待つつもりだったよ。あの時は一方的に話をしてしまったけれど、君からの気持ちを聞くまではきちんと待っていようと考えていたよ?」
ご主人さんの言葉に彼女はしっかりと頷くと私に振り向いて小さく頷いた。それは先ほどの会話の続きのようで「ほらね」と言っているようだった。
「男は言われてみないとわからん生き物だからね、身近なものほど察することができないのさ」
何かを察したようにご主人さんはそう言って私に微笑んだ。
「一度、その機械で話してみると良いわ。貴女のように素敵な女性が選んだ男性なんですもの、しっかりと話してごらんなさい。きっと素敵な未来があるはずよ」
そう言いながら隣に寄り添うように近づいた彼女と視線があった途端、周りがぐらりと揺れて目眩がおきた。思わず目を瞑ってしまい、私が目を開いた時には彼女の姿も、ご主人の姿も、黒い立派な機関車も線路もバス停も、すべてが消え失せていた。
「大丈夫、貴女は私を受け止めることができた立派な女性なんだから、自分を信じてごらんなさい」
呆然としている私の耳元で彼女の声が聞こえて消えていく。その言葉には安心できるほどに力強さが漲っていた。
「うん」
握っていたスマホからRainを開くと彼にメッセージを入れてみた。
『ごめんなさい、今電話できますか?』
勇気を振り絞るとすぐに既読がついた。
『いいよ、かけようか?』
返事が入った途端に彼の電話番号をコールしていた。数コールの後に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「どうしたの?由美香?」
その優しく聞き慣れた声に私の涙腺が緩んでポタポタと流れた涙がアスファルトへと落ちては黒いシミを作ってゆく。泣き声を押し殺して私はしばらく息を整えると、震える声で彼へと伝えてみる。
「あのね、聞いてほしいことがあるの、多分、苦しい話になると思う・・・」
「うん。大切な由美香のことだからきちんと聞くよ。だから、隠さずに話してくれる?」
彼の声は茶化すことも誤魔化すこともなく私を受け止めるように言ってくれた。私はその言葉に一抹の嬉しさを抱きつつ、不安を吐き出すように今まで話せなかったことの全てを話し尽くした。
お互いに話し終えた頃には夕暮れとなっていて、いつの間にかひぐらしの声が辺りを包み込んで、夕日の光が木々の森を黄金色に照らしているのが目に入った。
「早く帰っておいでよ、そしたらもう一度、この先のことを話して行こう。1人にしてごめんね」
「私こそ伝えなくてごめんなさい…。気をつけて帰るね」
「うん。夕飯作って待ってるからね」
彼の気さくに笑う姿が目に浮かんだ。
「パスタが食べたい」
調子に乗ってわがままを言ってみる。
「わかった、僕のアパート近くまできたら連絡くれる?」
「うん、ありがと…」
「じゃあ、待ってるね」
「うん…、あのね、翔吾…、その…愛してる」
「僕もだよ。由美香、愛してる。気をつけてね」
「うん。ありがと」
そう言って電話を切った。
全てを話すことはまだ足らないけれど、私が彼に気を遣っていることが、互いの距離を開いてしまっていたことは確なようだった。苦しい話だったのに、彼はしっかりと聞いてくれて、互いに気持ちを話し合うことが久しぶりにできた気がする。
ふと隣に彼女が姿を表すとシートに座って嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「どう?言った通りでしょ」
「はい・・・。一緒に苦しんでくれました」
半泣きになりながらそう返事をすると、私を優しく抱きしめて何回か背中を優しく撫でると、ゆっくりと耳元て囁いた。
「それはよかったわ。貴女の時代は昔より複雑で大変だと思うけれど…大丈夫、貴女ならできるから。でも、無理をし過ぎないように気をつけてなきゃ駄目よ。それから帰り道を照らしてくれるそうよ」
そう言って私から離れた彼女が指差した先には、いつの間にか黒色の機関車がその大きな前照灯を照らして一直線に主要道へと降る道を照らし出してくれている。その光の筋は一本道を影一つなく照らし出してくれていた。
私は頷いてからハンカチで涙を拭きヘルメットを被った。バイクに跨ってハンドルをしっかりと握ってから、深呼吸をして肩の力を一度抜き、何時も通りにエンジンをかけるとしっかりとしたエンジンの音が響いてきた。
「ありがとうございました」
そうお礼を伝えると彼女とご主人が機関車の側に立って私を見送ってくれていた。彼女が出発進行のように指先した道に向かってアクセルを捻り進み始めると、ポォーっと機関車の警笛が山間に気持ちよく響き渡る。そして私は照らし出された道を走り抜けて帰路へと着いたのだった。
あれから数年の月日が流れ、彼とは結婚して一男一女に恵まれている。あの日の出来事を時折思い出しながら、きちんと彼と話をするようにしていた。メッセージや電話ではなく、リビングの机の上に機関車の模型を置いておくのが互いに話しがしたい時のサインとなっている。
夫婦生活、子育てと苦しいことだらけであることは確かだ、けれど1人ではない、互いに苦しみながら進んだ先に、お互いにある程度の納得しながら話しをしていければ、彼と私の距離が一歩、また一歩と近づいてくる気がしている。
とても難しいこと、なのだけれど、それは必要なこと、だと思う。理解は難しくても、話ができる環境を互いに整えること、これは帰ってすぐに互いに取り決めたことだった。
何回かお礼を伝えたいとあの場所を探してみたが、結局、見つけることは叶わなかった。でも一つだけ近所の公園で偶然に見つけたものがある。
「D52 0084」
この機関車を見るたびに私はあの夏の出来事を思い出し、そして夫妻への感謝を祈っている。
苦しみの果てに… 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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