第3話 side:美奈

「あれ、美奈珍しいね、この時間まで残ってるの」

 昇降口で窓の外を眺めていたあたしに声をかけたのは、マコだった。

「長田先輩と帰らないの?」

 今日二人とも部活ない日じゃないの、と尋ねられたのであたしはさらりと答える。

「うん、今日は無理って。というか、もう一緒に帰ることはないかも」

「……」

 マコは、こちらの様子をうかがっているようだった。しばらく眉を上げたり下げたりを繰り返した後、意を決したようにあたしの目を見て言った。

「別れたの?」

「まあ、そんなところだね。で、雨に降られて困っていたわけです。なぜなら今日あたしは傘を忘れたから」

 あっけらかんと答えると、マコは一瞬逡巡を見せ、結局は普通に質問することを選んだようだった。

「えっと、君たち二人に別れるような要素何かあったっけ。というか、ミナが振った……わけではなさそうか」

 傘ならあるけど、この雨じゃ相合傘だとびしょ濡れだね、と彼女は昇降口の扉の向こうを見やった。大粒の雫が扉を流れ落ち、ガラスの向こうの世界を歪めている。マコの取り出した傘は、オレンジ系の縞の折り畳み傘だった。

 そんなに悲壮な顔をしていただろうか。あたしは自分の頬にそっと触れる。

「別れようって言われたの。このまま付き合ってても無理するだけだろうからって」

 俺たち、思ったほど合わなかったねと、そう言われた。

 付き合い始めてから、そろそろ二カ月になろうとしていた。あたしと先輩は、お互いの都合が合う日は毎日、一緒にバス停まで歩いた。先輩は、あたしの荷物を籠にのせて自分の自転車を押していた。付き合っている間に、三回街のショッピングモールにデートに行った。そこは、田舎の大道路沿線によくある、映画館の併設されたオールインワンのモールだった。あたしの家からは少し遠い上出費もかさんだけれど、あたしは精いっぱいおしゃれをして出かけた。達樹先輩が誘ってくれるのが、とても嬉しかったから。

 でも、なんとなく分かってもいた。

 付き合い始めたばかりの頃は、お互いの話をして盛り上がった。先輩には小学五年生の弟と三年生の妹がいること。弟は最近反抗期で親とはあまり話さないくせに、自分には『バスケしよう』としょっちゅう言ってくること。あたしは一人っ子だけど、マコと千尋がいたため、いつも二人と遊んでいたこと。先輩は洋楽が好きだけど、家では誰も聴かないし、学校でそう言うとかっこつけだとからかわれること。あたしはティーンズ雑誌の懸賞に応募して、テーブルゲームが当たったことがあること。

 一か月もたつと、話すこともなくなってきた。そしてお互いに気が付き始めた。あたしたちの好きなことは、ほとんど被っていないことに。そして互いに、それに耐えて話を聞く能力に長けていないことに。三回目のデートで、先輩は服を見ているあたしに向かって言った。『よくそんなに見ていられるね』。

 それでも、あたしたちが別れなかった理由は主に三つだ。一つは、お互いに、まだ大丈夫だ、自分が少し我慢すれば何とかなると思っていたこと。二つ目は、たとえ趣味がずれていても、この人の隣に立ちたいという思いが残っていたこと。三つ目、すぐに別れたら、噂が広まって嫌な思いをするだろうということ。

 あたしたちは、この三つの気持ちを、一つも口に出さないまま共有していた。そういう意味では、もしかしたら相性は思っているほど悪くはなかったのかもしれない。

「そういうものかねえ」

 マコには、ぴんとこないようだった。まあ、仕方がないのかもしれない。合う合わないをどんな風に感じるのかは、人それぞれだ。多分マコは、言動なんかを見てほとんど一瞬で見分けることができるのだろう。

「というか、別れたら噂になるって……」

「だってそうでしょ?」

 あたしがそう返すと、友人はうーんとかまあとか歯切れの悪い答えを返した。マコにはこういうところがある。男子には、常に啖呵を切っているくせに、あたしと千尋にはやたらと優しい。マコなりの愛情表現なんだろうと思うけれど。

 雨はまだやみそうにない。あたしはリュックサックを下ろすと、マコと二人、下駄箱の前に腰を下ろした。

 あたしと達樹先輩が付き合い始めたとき、学校中で噂になった。達樹先輩は、学校一モテる人だったからだ。そして相手のあたしが、自分での言うのもなんだが、かわいかったから。

 あたしは、よくかわいいと言われる。そして、実際自分でもかわいい部類に入ると思っている。でも、それは田舎の小さな中学校の中でだけだ。あたしの『かわいい』なんて、どこまで通じるか分からない。それなのに、人は好奇の目を向ける。ある人は可愛いからという理由だけであたしを好きになり、またある時にはかわいいからというだけで恨まれる。もううんざりだ。

「マコは、あたしが悪口言われてるの聞いたことあるでしょ?」

「うーん、悪口というかやっかみだねあれは……」

 ここでもマコは歯切れが悪い。今さっき彼氏と別れた女の前でどう接すればよいのか分からないのだろう。普段てきぱきしているマコのかわいらしいところだ。

「ちょっと顔がいいからって調子乗ってるとか、男誑しとか、どうせ心の中では私たち一般人を見下してるんだとか」

「そんなにきついこと言われてたの」

 マコはやや驚いた顔をした。まあ、マコは真面目だし、いかにもあたしに、下手すると先生に言いつけそうだから彼女の前でそういう話をする人はいなかったのかもしれない。

「馬鹿みたいだよね。あたしは男が何人あたしのことを好きかより、本当に好きな一人の人があたしのことをどう思っているかの方が気になるし。他の人の顔になんて興味ないし」

 あたしがおしゃれをするのは、かわいくありたいと思うのは、そうすることで毎日が楽しくなるからだ。鏡に映った自分を、好きだと思えるような人でいたい。おしゃれは、メイクは、髪をきれいに保つことは、あたしにとって一番の魔法だ。自分に自信を持ち、胸を張って生きるための魔法。他の人より優位にありたいなんて思ったことはない。自分が自分であるために、かわいくあることが必要だと、そう思うから自分を磨くのだ。そしてその努力の結果が今の見た目なのである。まあ、素材が粗悪品ではなかったという事実もあるにはあるだろうが。

「ま、そういう事でこの事は夏休み明けくらいまでは内密に」

 マコは当然頷いた。こういう点において、あたしの二人の親友は信用が高い。いい友人をもったなと、心の底から感じる。

 ガラス扉の向こうでは、相変わらずシャワーもかくやというという状態が続いている。梅雨が明けたかと思えばこの夕立だ。

 あたしたちは何も言わずに、外を眺めた。昨日までは、先輩と背中を並べて帰っていた道が、水にぬれて無機質に光っている。

 どのくらいそうしていただろう。不意にマコの手が伸びてきて、あたしは現実に引き戻された。

「大丈夫?」

 尋ねられて初めて、あたしは自分の頬も濡れていることに気が付いた。扉の向こうとは違う、たった一筋の線だが、あたしは確かに涙を流していた。

「あはっ」

 なぜか、笑ったような声が漏れ、そしてそれはすぐに嗚咽に変わった。

 好きだった。達樹先輩が好きだった。初めて話をしたとき、とても気遣いの出来る人だと感じた。何度か顔を合わせて、千尋の話で盛り上がった。たまたま体育館の横であったときに、さりげないふうに『付き合わない?』と言われた。あの時は気が付かなかったけれど、おそらく彼は、あたしのことを待っていたのだ。あたしに告白するために、待っていた。

 もっと、うまくやればよかった。うまくやれるようにすればよかった。達樹先輩は良い人だ。素敵な人だ。あたしじゃなくても、彼女になりたいという人はたくさんいる。それでも、彼は一度はあたしを選んでくれたのだ。あたしは、その立場におごっていた。彼があたしを選んで、それを受けたとき、あたしも彼のために生きるべきだったのだ。たとえそれが中学生のかりそめの恋だったとしても。千尋に、もっとバスケについて教えてもらえばよかった。誰かに、洋楽のCDを借りればよかった。もっと早く、二人で話し合って、一緒に帰る回数を減らしたり、遊びの行き先を変えたりすればよかった。そうすれば、あたしたちは、もっと穏やかに長く続けていくことができたかもしれなかったのに。

 好きだった。ううん、今でも好きだ。先輩の笑顔が、優しい声が、穏やかな歩き方が、自転車のハンドルを握る手が、ボールを手にしたときの真剣な瞳が。

 あたしは、マコ以外誰もいないことをいいことに、声をあげて泣いた。

 平気なふりなんて、するもんじゃない。情けなくて、恥ずかしくて、でも涙が止まらなかった。

「マコ……ごめん……」

 急に、と嗚咽の中に謝罪の言葉を混ぜると、マコが一瞬こちらを見た気配がした。そしてすぐに、彼女の視線は校庭に向けられる。

「これは、何かの本で読んだ話なんだけど、人間は他人のためには泣けないんだって。自分のためにしか泣けないんだ」

 でもそれなら、と彼女は言う。

「めいっぱい泣いた方がいいよ。そうやって、自分が納得できるまで、心が大丈夫になるまで泣いていいんだ。……私たちは、自分のために生きてるんだから」

 掠れた声が耳をなでる。あたしは、うずくまったまま、しばらく涙を流し続けていた。



 それから数十分後、あたしたちはバス停までの道を歩いていた。

 そろそろ五時になろうかという黄昏にも、蝉たちの大合唱はやむ気配がない。先ほどまでの雨の残り香のように濡れたコンクリートが、低くなった太陽光を反射してきらきらと光っていた。

 この道をマコと歩くのは本当に久しぶりな気がした。先輩と見るのとは、景色が違う。ずっとずっと懐かしい気持ち。浮ついたところのない、不安も興奮も全て包み込んでくれるような、そんな気分になる。

 バス停が近づいて、あたしはおやっと声を漏らした。屋根のあるベンチには、先客がいた。黒いショートカット、前方に不自然に投げ出された右足。

「あれ、千尋だ。珍しい」

 意外そうに足を止めたマコの横をすり抜けて、あたしはもう一人の親友に駆け寄った。

「ちっひろー!」

 こちらを向いた彼女の瞳は、大きく見開かれている。膝の上の本が落ちそうだ。そあたしは手を振りつつ残りの距離を一気に走り抜け、怪我をしている足に触れないように抱き着く。

「久しぶり!」

 突然襲撃された千尋は、目を白黒させた後、ふっと苦笑いを漏らした。

「もう、急に何?」

「そっちこそ。最近一人で帰ってたの?バスで帰れるようになってたなら誘ってくれればよかったのに」

 口をとがらせると、ミナはセンパイと帰ってたじゃん、ともっともな抗議をされる。あたしは頭をかくと、努めて冷静に、事実を伝えた。

「うーん、それならもう大丈夫。明日からは毎日でも一緒に帰れます」

 敬礼してみせつつ、彼女の反応をうかがう。静かに見つめる瞳は、怯えているような、憐れんでいるようなそんな色を宿していた。

「……別れたってこと?」

 あたしは小さく頷く。そう、とだけ答えが返ってきて、それっきりあたしの耳には蝉の不協和音だけが届くようになる。やっと追いついた、というかそもそも走る気などなかったマコは、こちらをちらりと伺うと、千尋の隣に座る。そのまま学校の宿題を始めようとしたので、思わず二人の襟首を掴んだ。

「ちょい待ち、理由とか聞く気はないの?」

「あ、聞いてほしかったの?」

 心底意外そうに、なら聞くよと返される。この子は本当に恋愛の話に興味がない。ボール以外に好きなものはないのだろうか。恋愛することだけが大事なことではもちろんないけれど。

「うん、まあそれはマコが話してくれるよ」

 あたしは千尋の隣に腰を下ろし、もう一人の幼馴染に丸投げした。自分で話すのに少し疲れたというのと、マコが話した方が伝わりやすいと思ったからだ。あとは、マコにも会話に参加してもらいたかった。せっかく三人そろったのに、バス停で勉強なんてしたくない。さすがのあたしでも失恋話で馬鹿みたいには盛り上がれないけれど、別にそれは構わない。マコと千尋と、三人で話がしたい。これは、最近疎遠になりつつあったあたしたちの仲を戻すために、神様が与えてくれたチャンスなのではないかと思った。

「はあ、千尋、人の惚気からの失恋話なんて聞きたい?」

 マコは辛辣だ。だが、千尋は小さく肩をすくめてみせた。

「ミナが聞いてほしいんでしょ。ならウチは聞くよ。それがミナにとっていいことになるなら」

 その穏やかな瞳を、マコはしばらく探るように見ていたが、同じように肩をすくめるとあたしがさっき語った話をぽつぽつと語り始めた。時折、あたしの訂正を挟んで話は淡々と進んでいく。こうして三人で座っていると、この二か月と少しのことが嘘のように思える。あたしはずっとここに座って夢を見ていたのではないか。達樹先輩への好意は確かに感じていたし、今も残っているが、どこかそんな風にすら感じられる。

 話を聞き終わった千尋は、あたしの方を見て、

「大変だったんだね」

 と言った後、なぜか固まってしまった。マコが呆れたように、問題集を彼女の目の前でひらひらと振る。

「暑くて馬鹿になった?」

「いや、こういうときなんて言ったらいいのか分からないなって。よく本とかでは、『大丈夫、あんたは可愛いからすぐ次が見つかるよ』みたいに言ってるけれど、それはなんか親友に尻軽を勧めているみたいで嫌だし」

「いや尻軽って」

 マコは割と真剣に呆れている時の声を出す。あたしは尻軽の意味が分からなかったので、あとで調べようと心に決めた。まあ、浮気な女とかそういう意味だろうけど、自分だけ知らないことがあると少し悔しい。

「いいんだよ、別に慰めなくても」

 慰めようとしてくれる、その気持ちだけで十分だ。千尋の真剣な顔だけで、あたしは大丈夫だ。あたしのことを、本気で心配して、どんな時も迎え入れてくれる人がいるという事実だけで。

 正直に言うと、少し怖かった。最近千尋に避けられていると思っていたから。理由を何度も考えてみた。彼氏と帰るからって友情を後回しにされていると思った? それとも千尋の好きな人が達樹先輩だった? 色々なことを考えたけれど、結局どれも決定打にはならなかった。だから、こちらから謝ることもできずにいた。今日ここで会えたのは、とても嬉しい誤算だ。こうしてほとんどいつも通りに話せていることも。

 あたしの人生に、マコと千尋がいてよかったと思う。二人は少し変わっているけれど、誰よりもあたしのことを分かっている。そして、過剰な干渉をしない。人の心に土足で踏み込んだりしない。一番つらい時に、一番傷つけない言葉をかけてくれる。そうして、そっと背中を押してくれる。隣で一歩を踏み出してくれる。今日のように。

「あたしさ、二人のこと大好きだよ」

 隣の幼馴染の方に、少し体を傾ける。

「知ってる」

 マコが忍び笑いのような声を漏らしながら返した。その声に含まれる、穏やかな信頼を受け取って、あたしは足を揺らした。

「うん」

 見上げると、千尋はあたしでもマコでもない、遠くの稜線を見つめていた。千尋の瞳は綺麗だ。少し冷たい、でもその中に真っ白な光を宿した黒い眼。それが、今日はわずかな悲しみや、諦めを含んでいるように見えた。

「ウチも、ミナとマコのことが好き」

 地面に長く伸びた三つの影が、くっついたり離れたりしながら笑っている。その時、蝉の声を切り裂いて文明の音がした。まっすぐ伸びた道に、黒いバスのシルエット。

「バス来た!」

 あたしは、ぴょんと立ち上がった。

「二十五分遅れだね。雨降ってたとはいえ、信じられない」

 千尋がため息を漏らしながら立ち上がる。

「荷物持とうか?」

「大丈夫」

 若干心配になる黒い煙をあげながら、車体が目の前に停まる。あたしたちは、お互い少し目くばせをすると、パタパタとステップを上っていった。

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雨上がりは君の隣で 藤石かけす @Fuji_ishi16

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