第2話 side:千尋
「靭帯が切れてますね……手術をしなければならない可能性も考えた方がいいと思い
ます。しばらく、まあ、三、四か月ですかね、激しい運動は控えてください」
それが、ウチの膝の検査結果を見た医者の一言目だった。
頭の中を、今後のスケジュールが駆け巡る。今は六月の末。次の試合予定は、七月の総合体育大会。九月には新人体育大会。どちらもスタメンで起用される予定だった。別にウチが出れなくても、代わりはいるけど、でもウチの失われる時間は取り戻せない。中学二年生の夏から秋。そのゴールデンタイムに、ウチはひたすら靭帯損傷のせいでリハビリをしなくてはならないという事か。
後悔してももう遅い。太ももの上で握った拳は、不自然なほど震えていた。
小さなころから、体を動かすことが好きだった。幼稚園に上がる前は、公園でずっと走り回っているような子供だった。幼稚園では、他の女の子が砂場で遊んだり絵を描いたりしているときに、男子に混じって全力で鬼ごっこをしているような子供だった。
バスケットボールを始めたのは、小学校一年生の時。二人の兄の影響で、ウチも気が付いたら学童バスケ部に入ることになっていた。不可抗力で始めたバスケだったが、一番長く続いたのは、結果的にウチだった。七つ上の兄は中学校に入った時点でテニスに乗り換え、三つ上の兄は小三でクラブを辞めてしまった。そんな中、ウチだけがバスケットボールを続けた。好きだったからだ。あの、ボールの重さやくすんだ茶系の色が。ドリブルしていると感じる、ボールの吸い付いてくる感覚や、体育館に響く音が。ディフェンダーを抜き去る時のステップが。そしてゴールを決めたときに揺れる白いネットが。バスケットボールという競技は、ウチに『秩序ある運動』の魅力を教えてくれた競技だ。ほとんど鬼ごっこしかしたことのなかったウチにとって、ルールが系統立てられており、明確に上達のプロセスが示されている運動は、それだけで感動ものだった。ルールという縛りによって、同じ場所に立たされた者たちが、フェアに戦う様子は、しびれるほどかっこいいのだ。ウチは、気が付けばどんどんバスケットボールの世界に深くはまっていった。もともと運動神経はよかったため、努力すればするだけ、テクニックを身に着けることができた。楽しかった。ボールに触っていられる時間は、どんな遊園地にいる時間よりも、価値のあるものだった。
中学でも、バスケ部に入った。二年生も七人いるのに、三年生が卒業すると、ウチは学校で五人のレギュラーメンバーに選ばれた。それから、何度か公式試合があって、当然自分よりうまい人はたくさんいるけれど、そうして負けることすら楽しかった。全てが、自分の糧になるから。一度負けたら、何が悪かったのか、次はどのような練習をするべきなのか、そういうことを考えればいいのだ。
怪我には気をつけていた。そのはずだった。それなのに。
ウチは、サポーターでがちがちに固定された足を見つめた。
「ただいま……」
怪我をしてから三日、バス停から歩くのが辛いので、近所に住むおじさんに送迎をしてもらうことにした。いくら山を下りる用があるとはいえ、かなり申し訳ない。とはいえ、ここは村民みんな顔見知りの過疎村なので、遠慮も何もないというのが本音なのだが。
鍵を開けて家に入る。この家は、もともと母方の両親の使っていた日本家屋だったが、五年前におじいちゃんが亡くなった後、父の勧めで建て替えられ、今では何の変哲もない白い家だ。建て替えたばかりの時は、モダンなデザインと完全個室の自分の部屋に興奮したが、こう怪我をしてしまうと、平屋の日本家屋が懐かしい。
なんとか階段を上りきり、自分の部屋のベッドまでたどり着く。木枠のベッドに、水色のシーツ、そして適当にたたまれた、ルームウェアと化した小学生時代のバスケ部の服。
ウチは、服を手に取ると制服を脱いだ。足が固定されているため、とても着替えにくい。何度考えても、こんな怪我をした自分に腹が立つ。
理由は分かっていた。
最近のウチは、無茶をしていた。
毎日、朝、昼休み、放課後、暇さえあればゴールに向かっていた。時には、家の近くの空き地で、一人練習することもあった。異常なほど打ち込んでいた。他のことを考えなくて済むように。他のことを忘れるために。
「あたしね、長田先輩と付き合うことになったんだ」
その、ミナの言葉を聞いたとき、ウチが初めて感じたのは、確かにふてぶてしい気持ちだった。始めは、仲のいい友達を取られたように感じでいるだけだと思っていた。だが、そうではなかったのだ。それに気が付いたのは、ミナとセンパイが、二回目のデートに行った話を、聴いている時だった。
『先輩、あたしのこと本当に見てくれてるのかな。あたしと喋ってる時よりも、ゲーセンでゲームやっている時の方が楽しそうなんだよね。どうしたらいいかなあ』
笑ってほしいよ。ミナはそういって、瞳を伏せたのだ。その時にウチが感じたのは、憤りのような、悲しみのような、そんなぐちゃぐちゃした気持ちだった。
どうして、そんな顔するの。ミナが悩んでいるのは嫌だよ。ミナが悲しい気持ちになるなら、センパイと付き合う必要なんてない。
嫌だった。ウチの紹介した達樹センパイのせいで、ミナがウチの知らない顔をしているのが嫌だった。今までに感じたことのないような嫉妬心を感じて、ウチはミナの顔を見ることができなかった。
わたしは、達樹センパイが好きなわけではない。ミナではなく、センパイに劣等感を感じている。それに気が付いたとき、背筋が凍った。信じられなかった。
何で、よりによってミナなのか。
今まで、誰かのことを好きになったことがなかった。
小学生の時、ウチは恋バナが苦手だった。誰くんがかっこいいとか、こういう言葉を言われたいとか、一つも理解ができなかった。男の子は、ただの友達。それ以上でも、それ以下でもなかった。小さな頃、ウチは、毎日男子に混じって遊ぶような子供だったから。
髪の毛は、小学二年生の時にバッサリ切ってから、一度も伸ばしたことがなかった。スカートは制服以外に一着も持っていなかった。メイク道具だって、アクセサリーだって一つもない。たいていの時間はバスケのことを考えて、たまに食事のことを考える。外に出れば男の子と間違われ、男子にはほぼ同性扱いされ、女子にはイケメン千尋ちゃんと呼ばれていた。恋とか愛とかからはほど遠い生活を送っていた。
大きくなるにつれて、男子も女子もお互いの異性を意識した発言が多くなっていった。居心地が悪い。ウチは男子とつるんでいることが多かったけれど、男子がグラビア雑誌なんかを読むようになると、つるむのをやめた。かといって、女子の中にも居場所はない。男子とばかり遊んでいたから、一部の女子には避けられていたし、そのほかの人はすぐにウチに好きな人を聞いてきた。好きな人なんていないのに、『いない』という一言はすぐに『嘘だあ』と否定された。好きなタイプの話も嫌いだった。
小中学生の恋愛は、ヒエラルキーの象徴だ。人気のある子はとてもモテる。そうではない子は、恋バナにも参加させてもらえない。しかも、モテる子のその恋愛はただの遊びだ。相手のことを、真に愛しているわけではない。一言で言うと、『恋』の域を出ないのだ。相手を一方的に好きになる。あの子と話したい、遊びたい、付き合いたい。相手の都合を考えず、自分の衝動のままにアタックをかける。恋をしている自分が好きだから。相手は、その告白に対して『イエス』と返す。告白された自分が誇らしいから。自分が相手のことを本当に愛せるのか、そんなことは考えない。
理解ができなかった。どうして、そんな偽りの恋をするのか。恋愛とは、互いを大切に思う男女が二人で築いていくものではないのか。そんな遊びに、何の意味があるのか。
中学に入る頃には、ウチは男子が嫌いになっていた。あまりにも容赦なく卑猥な話をしてくるようになったからだ。ウチだって、腐っても女子だ。女を棚に並んだ商品のように値踏みしたり、理想という名の妄想で尊厳を傷つけたりするのに耐えられなかった。男子が、ウチがいても平然とそういう話をするのが嫌だった。女だと意識してほしかったわけではないけれど、ウチが女だという事への配慮すらもできない彼らを軽蔑していた。
他人を物のようにしか見ることのできない男は嫌いだ。それは女でも変わらない。他人を、自分の欲をぶつける対象として見ている人は嫌いだ。それなのに。
ウチは、目を細め、声をあげて笑う親友の姿を思い浮かべた。
美奈。お互いが、母親のお腹の中にいたころから知っている。保育園に入る前は、毎日一緒に村を走り回っていた。保育園でも、マコも含めた三人でいつもくっついていた。山の下の小学校には、毎日一緒に一日四本のバスで通った。ウチがバスケを始めても、ずっと仲良くしてくれていた。
お互いのことが大好きだった。これ以上にない親友だ。
ミナは優しい。ミナのする話は人を幸せにする。彼女は、特に賢かったり、運動神経が良かったりはしないが、人を笑顔にする力を持っている。若干きつい性格でしかも頭のいいマコと、男子とばかりつるんでいて運動の成績がずば抜けているウチは、何かと浮きがちだった。だが、ミナはそんなウチたちと、他の子供たちを繋ぐ架け橋になってくれた。最高の友達だ。運動神経くらいしか取り柄のない、小林千尋のために、とてもたくさんのことをしてくれた。誕生日のプレゼントや戦勝祝いだけではなく、その何百倍も大切なことを数えきれないほど。
ミナにとって、自分とマコが一番の友達であることが、とても誇らしかった。
ミナがウチにむける笑顔が好きだ。信頼しきった者にみせる、弛緩した笑い方が好きだ。ミナが、ウチたちのことをとても好きだと思ってくれていることが分かるから。
それだけだ。それだけだった。
そうであればよかったのに。
自分が恐ろしい。ミナがウチにむける視線は親友を見る純粋で汚れのないものなのに、私は、あの子に劣情を抱いている。ミナの隣に座りたい、髪に触れたい。ミナの心の、楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、どうしても許せないこと、全部知りたい。お願い、こっちを向いて。私を見て。私だけを見て。どうしてセンパイを選ぶの? マコとウチは、私のことはどうでもよくなってしまったの? 私じゃ、ミナの心を達樹センパイほど動かすことはできないの?
気付きたくなかった。自分の心がこんなに醜いなんて。これでは、ウチが今まで散々馬鹿にしてきた男子たちと同じだ。自分のことしか考えていない。ミナの気持ちなんか、何一つ考えていない。
ベットに体を投げ出し、目を閉じる。サポーターをつけた足が重い。
これは、ウチへの罰だ。ミナの向けてくれる親友としての、幼馴染としての、同性としての好意を裏切った、ウチへの罰。自分は冷静だ、と恋に溺れる同級生を見下していた私への、罰。
カーテンの閉まった部屋、電気もつけずに寝転がって、世界中の非難の眼から逃げたような気持ちになる。でも、もう一人の自分からは逃げられない。恋を馬鹿にしていた自分の嘲笑からは。
私は布団を引き上げると、うずくまって嗚咽した。
自分を嫌いだと思ったのは、これが初めてだった。
ピコン、という音が鳴って、枕もとのスマホの画面が光った。ウチは、それを取り上げ、ロックを解除しようとしてその手を止めた。
差出人、早瀬美奈。
ロック画面には、メッセージの内容が記されている。
『明日、センパイと帰れなくなったので、良ければ一緒に帰りませんか?』
ウチは、既読をつけようとした手を止めた。馬鹿みたいだ。どうせ顔を合わせても、ろくな会話はできやしないのに、センパイと帰れなくなったという文言を見て、どこか喜んでいる自分がいる。
腕を下ろし、そのまま目を閉じる。眠い。最近の痛み止めは、眠くならないのが売りではないのか。心の中で舌打ちをしていると、もう一度スマホが震えた。しかも、今度は長く。
電話だ。ウチはディスプレイを見て、通話ボタンを押した。耳にスマホを当てながら、起き上がってベッドの上に座り込む。
「もしもし」
『ああ、千尋! よかった、電話出てくれて。急に休むから、心配した』
電話口から聞こえてきたのは、少し掠れたアルトだった。十四年間、聞き慣れた声。もしかしたら、親の声より聞いたかもしれない声。
「マコ、ごめん、スマホ持ってないのにわざわざ連絡してくれて。ちょっと生理痛が酷くて、足もこんなだし、学校行くの面倒になって休んじゃった」
できるだけあっけらかんと言ってみせる。お腹も頭も腰もまだ若干痛いけれど、ウチの体は大丈夫だ。
『そう。無理しないで。あ、今日のプリントは外の郵便受けに入れておいたから』
「本当にありがとうございます」
いつも冷めた声をしているマコがやけに優しい。涙が出そうになって、ウチはぎゅっと縮こまった。
「マコ」
『うん?』
「ありがと」
もう一度呟くと、マコは一瞬黙った後、ふうと大きく息を吐いた。
『今日はやけに素直ね』
「いろんなところが痛いと人って素直になるっぽい。お腹とか、頭とか、足とか、心とか」
『そっか。……心はもう大丈夫?』
手にもった携帯電話がほんのり温かい。ウチは、それをぎゅっと握りなおすと小さく答えた。
「多分。分からないけど、いつかは大丈夫になると思う、この足みたいに」
ウチが練習中の不注意で怪我をしてから、そろそろ半月になる。まだ足はがちがちにサポーターが巻かれているけれど、いつかはこの怪我だって治るのだ。私のぐちゃぐちゃになった思いだって、いつかは整頓して、愛することができるようになるかもしれない。
「ウチさ」
『うん』
「ミナが好きだって気が付いたとき、すごく嫌な気持ちになったの。自分が、誰かのことを好きになるなんてことあるわけないって思ってたから。一番近くにいて、本当に驚いたの」
マコは何も言わない。でも、電話越しに聞こえる、ゆっくりした呼吸音が、確かにそこにマコがいて、静かに目を伏せてウチの話を聞いてくれていることを伝えてくるから。
「男の子のことを好きにはならないかもしれないとは、思ってた。でも、ミナだとは思わなかった」
男の子に魅力を感じたことがなかった。男になりたいと思ったことはないけれど。でももしかしたら、男に生まれていた方が楽だったかもしれない。
「自分がすごく嫌な奴だって気づいて、嫌になったの。ミナはウチのことを友達だと思ってる。それなのにウチは、ミナがこっちに笑いかけてくれるたびにドキドキして、バスで眠り込んだあの子の睫毛をずっと見ていたりするんだ。申し訳なくて、でもこの気持ちは変えようがなくて」
「うん」
「恋をすることが、誰かを好きになるってことが、こんなに苦しいことだって、全く思いもしなかった」
そうつぶやくと、電話口から、ぷっと吹き出す音が聞こえた。
『まさか千尋の口からそんな言葉が出るとは思わなかったけれど。……恋は苦しいことかどうかは分からないよ。もしかしたら、千尋の状況が苦しくしてる大きな理由かもしれないし。でもまあ、そこまで落ち着いて自分のこと見れてるなら大丈夫だね』
「そうかもね」
ウチは苦笑した。マコはいつだって正確だ。時に残酷なくらい。でも、ウチにとってはそのそっけなさがありがたい。私は、過干渉が嫌いだ。
『そうだ、あの日、千尋が美奈のことが好きなんだって打ち明けてくれた日、すごく微妙な顔して、ごめん』
「ああ……」
正直に言うと、そのことはすっかり忘れていた。まあ、ショックを受けたのは本当だが、大抵の人の反応はそうだと思う。親友が、同性の友達が恋愛的に好きだと言ったら、普通は衝撃を受ける。
『あれね、千尋が女の子のこと好きって言ったのも、相手が美奈だったのも驚きだったんだけどね。私、あの時、二人に置いていかれるって焦ったの』
電話越しの声は、小さく震えていた。
『三人はずっと対等だと思ってた。でも違ったかもしれない、って。自分勝手でしょ?』
おどけたような言葉、でもそれはおそらくマコが長い間抱えていたものなのだろうと思う。
『だから、ごめん。私は、千尋が色々なものと闘っている間に、一人で卑屈になってたの』
「ううん、大丈夫。謝らなくていいよ。ウチの方こそ、急に困らせるようなこと言って、二人を遠ざけて、本当に悪かったって思ってる」
ごめんね、と小さく呟くと耳元に柔らかい吐息が届いた。
「ミナにも、話しかけてみようと思う」
彼女に気持ちを伝える気持ちは毛頭ない。でも、自分のせいでミナが悲しむ姿を見るのは嫌だった。彼女が私のことを一人の親友として好きでいてくれている間は、私も親友としての好意を返していきたいと思った。
『それがいいよ』
「うん。……今日はありがと」
ウチがそう答えると、マコはふっと笑ってすっきりした声で言った。
『こちらこそ。じゃ、また明日。お大事にね!』
電話が切れる。ウチはそのままメッセージアプリを開いた。
『ごめん、明日は病院に行かなくちゃいけないから無理だけど』
『でも、歩いてバス停に行けるくらいになったら、また連絡するから』
『その時は一緒に帰ろ!』
送信ボタンを押し、枕もとにスマートフォンを戻す。
大丈夫。私は大丈夫だ。ミナのことも、足のケガも、これ以上悪くなることはない。少しずつ、少しずつでいい。一歩一歩前に進んでいこう。たとえ時間がかかっても、いつかきっと何もかもが私の一部になって、前を向き続けるための力になる。今なら、そう信じることができるから。
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