雨上がりは君の隣で

藤石かけす

第1話 side:真琴 

「あのね……」

 幼馴染であり、親友でもある美奈が、私と千尋に遠慮がちにささやいてきたのは、五月の大型連休直前のことだったと思う。

「あたし、長田先輩と付き合うことになったんだ」

 あのねの続きとしては意外な言葉だったけれど、その内容自体は予想の範疇ではあった。

 長田達樹先輩は、バスケ部の副部長で、『学校一のイケメン』と名高い人だった。背丈は百七十センチくらいで、足が長く、そして切れ長の瞳に整った目鼻立ちをしている。温和だが、ノリはよく、運動神経は抜群。三年生の女子の三割が彼のことを好きだとかいう根も葉もない噂もはびこるような人だった。私たち二年生の中にも、彼が好きだという人はちらほらいる。嫌な言い方をすると、競争倍率は信じられないくらい高い。

 では美奈はというと、こちらもこちらで美少女の類であった。幼馴染でなければ、私のようなガリ勉とは交わることがないような、おしゃれでミーハーな子である。いつもニコニコ笑っていて、周りにいるだけで幸せな気持ちになる。そのかわいらしい容姿をねたまれることもあったようだが、そんなことをする人はあまり多くない。

 二人が知り合ったきっかけは、千尋だった。先輩と同じくバスケ部である彼女の共通の知り合いとして仲良くなったのだ。楽しそうに談笑する姿は何度か見かけていたし、美奈自身の口からも先輩を褒める言葉は聞いていた。したがって、二人の交際自体は想像通りであったということだ。

 二人は、俗にいう『ビッグカップル』として、この田舎の公立中学校で一躍時の人になった。誰も、表立って反対する人はいなかった。裏では何か言われていたかもしれないが、それは私のところまで聞こえてはこなかった。私ももちろん、嬉しそうにはにかむ親友を祝福していた。

 ただ、恋愛が進むと、どの時代においても面倒なことが起こる。

「今日も二人なのか……」

 私は、先に出て行って空になった美奈の机を見つめた。

「仕方ないよ。達樹センパイと帰るらしいから。それともウチと二人は嫌?」

「まさか」

 肩を叩いたもう一人の親友にそう返すと、私たちは連れ立って学校を出た。今までは三人で帰っていた道も、美奈が途中まで先輩と帰るようになってからは二人だ。居心地が悪いわけではないが、会話は減った。なにせ私も千尋も、思ったことの二割以下しか口に出さないような人なのである。話を盛り上げるのは、いつも美奈の役目だった。普段は気にしていないようなことでも、状況が変わってみると分かることは多い。美奈と疎遠になりつつあることは、確実に私にとって寂しいことであった。

 この地区はよく言っても『ど田舎』である。中学校の周りには田んぼしかなく、ほとんどの生徒は自転車で帰る。ただし私たちは、丘陵を少し越えたところにあるほとんど過疎と化した村の住人なので、一日に五本くらいしかないバスを使って帰るのである。しかもバス停までは学校から約一キロメートル。

「あっつ……」

 まだ五月半ばにも関わらず、既にうだるような暑さである。セーラー服の襟が重い。私は、スクールバックから下敷きを出して扇ぎながら歩く。

「ねえマコ」

 親友の湿気の多い視線を感じて振り向く。どうした、下敷きを団扇代わりにするのはやっぱりだらしないのか。

「あの、ちょっと話したいことがあるんだ」

 その声に、いつになく真剣なものを感じて、私は色あせた下敷きを下ろした。

「うん?」

「その、ミナが達樹センパイと付き合うっていった時からさ、考えてたんだけど」

 私は、目の前の親友の顔を凝視した。次の言葉を予想しようとしたのだ。私と二人じゃ間が持たない? 親友をほったらかしにするなんてひどい? それとも、千尋も長田先輩のことが好きだった?

「辛いんだよ。信じられないかも知れないけど、ウチ、ミナのことが好きだったんだ、ずっと。気づいちゃったんだよ」

 一瞬、意味が分からなかった。どんな数学の問題よりも。

 二、三秒かかって、やっと意味が分かった。それと同時に、まずい、とも思う。

 私の表情筋は衝撃にあまりに忠実だった。

 千尋の顔が、色を失くしていく。

「ごめん、変なこと言って。本当にごめん」

 その言葉には、びっくりするほど抑揚がなかった。



 私たちは、それ以降一言も口をきかずに帰ってきた。

 帰っている間中、私の頭の中を支配していたのは、どうしよう、という思いだった。何であの時、あんなにはっきりと驚きを表情に出してしまったんだろうというとんでもない後悔。

 別に、女性が女性を好きになることは構わないと思う。私は男の子しか好きになったことはないけれど、千尋がどうであれ、千尋は千尋。私のたった二人の親友の一人であることは変わらない。少し驚いただけだ。でも、その一瞬の驚きが、何よりも人を傷つけることは私がよく知っている。『昨日は八時間勉強したよ』と言った後の同級生の化け物を見るような目、私の五十メートル走のタイムをきいた直後のクラスメイトの憐憫の視線。ほんの一瞬しか現れないそれは、どんな言葉よりも彼らの本心を表している。私は、それに何度も傷つけられてきた。それなのに、同じものを、親友に向けてしまった。

「ただいま」

「お帰り。真琴ちゃん、おやつにアイスがあるわよ」

 日本家屋の引き戸を開けて玄関を入ると、のんびりした母親の声がした。

「いらない」

 いつもは顔をだす居間に寄らず、手を洗って自室に向かう。畳張りのそこは、物干しざおのある中庭から丸見えだ。なんだか朝ドラみたいな家だなということは、常々思っている。

「はあ」

 勉強机に教材を広げ、ぼんやりとそれを眺めた。頭がとてつもなく疲れている。私は、半ば無意識の状態で数学の問題を解き進める。

 私は、昔から表情を取り繕うのが苦手だった。得意なのは勉強。ただそれだけだった。勉強するのが好きだった。新しいことを知るのが、新しいことができるようになるのが、好きだった。でもそれは、他の人には伝わらない思いだったようだ。『なんでそんなに勉強するの』『バカ真面目』『面白くないやつ』そう言われ続けた。そんな風に言ってくる人たちを、私は心の中で見下した。こいつらと私は違う。私はこいつらよりたくさん物を知っているし、できることも多い。それは、私の強がりだった。寂しい、こっちを見て、友達になって。心の奥底で、それを望んでいる自分を認めたくなくて、自分を認めない人を憎んだ。簡単な問題が解けない相手にいらだった。お互いを遠ざけていた。敬遠されていた。だがそれは、私が本心から望んだものではなかった。誰かに認めてもらいたかった。普通の小学生になりたかった。でも、なれなかった。私は、物語の主人公にはなれない。いつだって、クラスで一番頭のいい子は、個性の強めな脇役なのだ。それが、心底悔しかった。

 私が、心の底から友達と呼べたのは、美奈と千尋、二人だけだった。過疎化の進む村で育った、たった二人の幼馴染。お互いに、全く異なる性格をしているにも関わらず、中学に上がっても私たちの仲はずっと親密なままだった。勉強の得意な私。スポーツの得意な千尋。おしゃれの得意な美奈。テスト前には、三人で私の家に集まって勉強をした。マラソン大会の前には、早起きした千尋が私たち二人のために朝のジョギングに付き合ってくれた。街まで遊びに行ったときには、かわいい雑貨や、私たちに似合う服を、美奈が見繕ってくれた。私たちは、三人で一つだった。一人一人の長所が、残りの二人の持っていないものを補い合って生きている。お互いの違いを認めて、それをばねにして生きていける。これ以上ない関係だった。そこには間違いなく、序列など存在しなかった。私たちは、対等で平等な三人、そのはずだった。それなのに。

 xに指数を書き込もうとしていた私の手はいつの間にか止まっている。

 私はなぜ、こんなにもやるせない思いを感じているのか。その答えは、どうしようもないほど自分勝手なものだった。

 千尋が、美奈のことが好きだったと言った時、私が感じたのは驚きと、そして確かな焦りだった。だってそれでは、千尋が美奈にむけていた感情は、私にむけていた感情とは全く違うものということになる。それが、たまらなく嫌だった。私だけはじき出される。いつもと同じだ。私は『特別な気持ち』の内側においてもらえない。嫌だ。対等だ、同じだと思っていた絆に偏りがあることになってしまう。千尋と美奈だけは、私を裏切らないと思っていたのに。

 そこまで考えて、自分の思考の醜さにぞっとする。

 結局みんな、美奈みたいな子を好きになるんじゃないか。可愛くて、いつも笑顔で、素直な子。神様に祝福されたような子。男の子だけじゃなくて、私が一番信頼している千尋まで。私は、結局誰の一番にもなれない。当たり前だ。人のことを見下している頭だけはいい子供なんて、誰も好きになってくれるはずがない。

 それでも、認めてほしかった。

 頑張ってるねって、そんな君が好きだよって言ってほしかった。友情でも恋愛でも構わない。誰でもいいから、親族以外の人の一番になりたかった。誰かの一番になれるなら、人に対して心を閉ざしたりしなかった。

 なんて愚かで、なんて醜いんだろう。

 手から転がった鉛筆が、音もなく畳に落ちた。

 私は、机に突っ伏して息を詰める。

 恋愛は友情を壊すとは、よく言ったものだ。

 そうしていないと、何かが抑えきれなくなって頭がおかしくなってしまいそうだった。



 図書室の大窓からは、校庭をしとしとと浸食していく細い雨がよく見える。五時ごろにはやむと言っていたけれど、おそらくその予想は外れるだろう。次のバスまでは三十分以上あるので、そこまでに少し収まっていればよい。

 私は、もう一度文庫本に目を落とした。面倒なことを頭から追い払うには、まずは読書だ。

「佐藤さん」

 突然、後ろから声をかけられた。声変わりの最中の、少し掠れたそれ。いつも隣で聞いている声。

「何?清水」

「何って……ひどいなあ、せっかくここにいるって聞いたから資料持ってきてやったのに」

 後ろに立った少年から、はい、と束ねられたA4の紙を渡される。題字は、第七十回合唱コンクールについて。学級委員会議でもらった資料のようだ。私は、読んでいた本にしおりを挟んだ。

「別に明日でもよかったのに」

「いや、俺が持って帰って失くしたら困るし。あと出席簿返してきてもらおうと思って。俺、これから部活なんだよねー」

「そんなことだろうと思った」

 肩をすくめ、小柄な少年から出席簿を受け取る。清水はこんな感じで適当だが、まあ悪いやつではない。少なくとも学級委員としては、かなりしっかり働いてくれている。もしかしたら、もう一人の学級委員である私よりも。だから、感謝はしていた。

「昨日と違うやつ読んでるね」

 そう言われて、私は思わず視線を落とした。白っぽい表紙に、淡い水色系統の泡模様が印刷された文庫本。中身は、都会の高校生の友情物語。

「よくわかったね」

「まあ、俺も本読むのは好きだし。それにしても、放課後まで佐藤さんが残ってるの珍しいね。今日、部活ない日でしょう?」

「まあね……」

 私は、目を伏せて窓の外を見た。梅雨を象徴する雨は、放課後の図書室を囲むベールのように降り注いでいる。

「なにかあった?」

 ふと、思いついたように清水が言った。思わず顔をあげ、癖っ毛の下の丸い瞳を見返す。

「何かって?」

「最近、心ここにあらずって感じだから。いつも俺が何か頼んだら、『自分でやりなよ』とか『私をすぐ頼るな』とか言ってすごく嫌そうな顔するのに、ここ何日か黙って引き受けてくれるじゃん。それに、小林さんとか早瀬さんともそんなに喋ってないだろ?」

 小林さんは千尋のこと、早瀬さんは美奈のことだ。私は、さすがの観察眼に舌を巻いた。完全に『目立たない』タイプの学級委員な私のことですら、ここまで細かく見ている。学年の先生に絶賛されるわけだ。テストの成績もいつも学年で二番だし。見た目は普通だけど、こいつも長田先輩に劣らない逸材には違いない。

「よく見てるね」

 私は、小さくため息をついた。そうして、持っていた文庫本を広げる。

「これは、この本の話なんだけど」

 頭上に掲げた本からは、古臭い紙特有の知恵の香りがする。

「幼馴染の女の子二人と男の子一人がいて、三人はすごく仲が良かったの。でもそのうちの一人の女の子と男の子が付き合い始めたことで、残された女の子は、二人とぎくしゃくするようになってしまう。私がいたら邪魔なんじゃないか、私は二人に大切だと思われていなかったんじゃないか。……清水は、どうすればよかったと思う?」

 清水は、いつものように凪いだ瞳で私の話を伺っていた。

「私はさ、いつも怯えてる。いつか誰も、私を見てくれなくなるんじゃないかって。私は優しくないし、面白くないし、かっこよくもかわいくもない。勉強ができなければ、誰も私のことなんて見てくれない」

 一番でいなくてはいけなかった。代わりのいない存在になりたかった。でも、誰かの一番にはなれなかったから、私は勉強して、一番賢い人にならなければいけなかった。そうでなければ、私が私である必要がなくなってしまうから。勉強のできない私は、ただのクラスメイトの一人になってしまうから。

「……そうなのかな」

 清水が、そっとつぶやいた。非難する風でもなく、同調する風でもなく、ただ感じるままに滑り落ちたそれは、疑問だった。

「確かに、多くの人は佐藤さんを『賢い人』って認識してると思うけど。でも、たとえ賢くなくても、ある程度は見てくれるんじゃないかな」

 まあ、俺の中の印象はかなり変わっていただろうね、と身も蓋もないことを付け加えて続ける。

「結局、自分っていうのは、自分でしか定義できない物なんだよ。誰も見てくれなくても、納得できなくても、全部自分だ。だったら、自分の思うようにやればいい。他人を気にしても仕方がないって、俺は思うけど」

 それは、一匹狼に近く、でもクラスの大半の人とはうまくなじんでいる清水らしい言葉だった。こびない、甘えない、でも押し付けたりしない、そういう清水は、私にとってとても付き合いやすい。一緒に学級委員を務めるのがこいつでよかったと、心から思う。

「そう、だね」

「納得いってない顔してるね」

 当たり前だ。私は今まで、認めてほしい、褒めてほしいと意固地になって生きてきた。人の考えはそう簡単には変わらない。

 ただ、嬉しかった。

 清水が、私のためだけに言葉を紡いでくれたことが。

 私の心に、真摯に向き合ってくれる人が、一人でもいることが、この上なく。

「ありがとう」

 私は、持っていた本に栞をはさみながら、そう返す。

「よく分からないけど、気は済んだ?」

「うん」

 一言だけ、そう答えるとやけに素直だね、とまた苦笑された。

「ま、ならお礼に出席簿片づけておいてよ」

「わかったわかった」

 今度は、私が苦笑する番だった。まあいい。これも仕事の一つだ。私は文庫本をリュックサックのポケットに滑り込ませ、立ち上がる。

「雨、やみそうだね」

 清水の言葉に、ふと顔をあげる。

 直前まで淡いカーテンのようだった細雨は、見違えるほど薄くなって、その向こうに雲の掃けてきた空をうつした水たまりが見える。時折光る残された雨たちは、ビーズの簾のように陽光を反射していた。

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