最後の一週間。

@harakoro1210

愛犬との最後の一週間。

三月の終わりに、ポチは天国へと旅立った。冷たい夜風の中、どうして僕らを置いて、出ていってしまうのか。包んでいた毛布には、まだ体温が残っている。

「ありがとうな、ありがとうな。」

ゆっくりと冷たく、そして固まっていくポチを囲んで、言葉をかける。つらかっただろう、最後の瞬間まで、ポチは僕ら家族をよく見ていてくれたのだろうか。最後の晩は、たまたま一家全員が揃う日だった。


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 一週間ほど前に症状は現れた。いつものようにボールで遊んでいると、ふらっと倒れるように、壁に寄りかかった。今まで転ぶことやつまづくことはあったとしても、急に倒れるようなことはなかった。その姿を見た母が病院に連れていくと、腎不全と診断された。正直、何を言っているのか分からなかった。いつものように散歩をしたり、遊んだり、ご飯を食べたり。誰かが帰ると玄関まで走ってくる。

「もって一週間…。そう言ってた。そこを乗り越えることができるかもしれないけど、可能性は低いし、その後もずっと病院に行かなくてはならないって。」

たどたどしく、母は話す。昨日まで、当たり前のように過ごしていたポチがいなくなるかもしれない。病院から帰る車で、ギュッとポチを抱きしめた。抵抗しない、世垂れかかったポチは確かに、弱々しく感じた。それでもいつものように温かいポチは、僕の心を落ち着かせてくれた。

(大丈夫、大丈夫。)

そう言い聞かせることしかできなかった。

 注射を打ったためか、病院から帰ったその日の夜には、大好きなご飯を口にすることができていた。以前ほどの勢いはないものの、用意した量をしっかりと食べた姿を見て、少し安心した。

「良かった、これで少しづつ元気になったら良いね。」

安心感から、そんな言葉を口にしていた。病院の先生は長くないと話していたが、目の前のポチを見て、信じることができなかった。きっと、信じたくなかったのだろう。

「明日、起きたら少し遊ぼうな。」

スヤスヤと眠るポチを撫でながら、明日の約束をした。普段はめんどくさいとか思いながら、投げていたボール。走って、持ってきて、また投げて。その繰り返し。こんなことにならなければ、自分から遊ぼうとしなかった自分に嫌気がさす。

(どうしても、あの姿が見たい。)

僕は安心したかったのだと思う。いつものように走る君を見たら、病気なんて吹っ飛ばせそうじゃないか、と。


「おはよう。」

「おはよう…。」

 なんとなく元気のない母を見て、覚悟しながら、ポチの方へと向かう。いつもの場所にいるものの、横になって、動かなかった。元々、アレルギーで鼻詰まり気味なこともあり、少しだけ鼻息が荒い。僕に気づくと、目を開けて、手をなめる。そんなポチの頭を静かに撫でた。

「なんか、朝ドックフード食べられなくなってね…。」

お椀にはドックフードが残っていた。普段なら、すぐに平らげてしまうのだから、その異常さはよく理解できた。

「腎不全って…味覚が変わっちゃうんだって。だから、今まで食べていたものが食べられなくなる子は多いって。」

食べることが大好きなポチにとって、それがどれほどのことか。僕はポチを撫でて、側にいてあげることしかできない。今、なめている僕の手も今までとは違う感じなのだろうか。側にいられているようで、ポチにはわからない存在になっているのだろうか。弱々しく目を開けるポチに、「寝てな。」と一度撫でて、その場を離れる。

「ポチ、もう一回だけでも遊ぼうな。」

ポチの背中はとても大きく見えた。僕の願いであるそれを、ギュッと受け止めてくれる、そんな大きな背中に見えた。


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「食べた!!」

 その日の夕方に、むくっと起きたポチは缶詰を口にした。ドックフードは、もう食べられないと思い、缶詰やおやつ、ヨーグルトなど、ポチが食べられそうな物を用意していた。

「良かったぁ…。」

少し涙ぐむ母と、周りで喜ぶ父と兄。みんなで、ポチが食べているその様子をじっと見ていた。当たり前だけど、当たり前じゃない。目の前の幸せに、安堵する。

 缶詰を食べたポチは、少しだけ歩きたかったのか、外へ行きたがった。まだまだ冷たい3月に、君を外へ出していいものか。悩んだ末に、玄関のドアを開けることにした。すぅーっと、冷気が流れ込み、僕とポチを包む。雪の深い僕の地域では、毎年膝くらいまで雪が積もる。今年も例外ではなかった。つい、一か月前には一緒に走った雪道。隣で眺めるポチは今、何を考えているのだろうか。足の短いポチは歩くたびに、跳んで進む。その冷たさが心地いいのか、雪道の散歩もどんどん進んでいた。

(なつかしいな…)

思い出すだけでも、頬が緩む。今、隣にいるポチのためにできることを尽くそうと、覚悟を決めた。


病院から2日、3日と日が経ち、朝は寝ていることが多いものの、昼には起きてリビングをうろうろしていたりする。その姿は弱々しく、家族みんなポチから目を離すことができなかった。ご飯は相変わらずに、食べることができない。毎日のように、食べるものが変わっていく。

(長くないのだろうか…元気になるだろうか…)

 

 時間が止まってくれるわけではなく、大学生である僕もアルバイトに行かなくてはならなかった。たった4時間。レジでの接客中にも、少しの時間があると、どうしても考えてしまう。

「なんか、あったん?」

分かりやすく、考えているつもりはなかった。それでも、長い付き合いのある友人には隠し切れなかったらしい。

「うちの犬さ…死んじゃうかもしれない。」

言葉にすると、泣きそうになる。なんとなく、家ではみんながこの悲しみを知っているから、態度や直接的な言葉でなくとも、伝わるものがあった。でも、他の人に話す時には、言葉を整理して話す必要がある。自分の中に、実感として、悲しみが湧きたつ。目の前からいなくなって、抱きしめることも話すこともできなくなるかもしれないことを、やっと理解したのである。


 それからも、ポチの様子は良くならなかった。朝は寝て、昼に少し起きて、夜も寝ている。そんな日が続いた。特に夜中はひどく、鼻のアレルギーに、呼吸器官も弱く、息が辛そうだった。1時間に1度くらいは目を覚まし、その度に、母と僕が抱きしめていた。背中をさすり、鼻を高くしたり、換気をしたり…。やれることは何でもしようと、できる限りを尽くしたと思う。それでも、徐々に弱くなっていくポチを見て、「ああ、明日は君といられるかな。」そんなことを考えていた。


 病院に行ってから、5日目の夕方。ポチはむくっと起きた。その時は、家族みんなでご飯をたべる直前だった。ポチはリビングを歩いて回る。台所にいる母を見て、テーブルで食器を並べる父を見て、ソファでテレビを見る私と兄を見て回った。一人一人に撫でてもらいに来た。

「元気になったの…??」

僕もみんなも、すごく嬉しかった。泣きそうになりながら、ポチを撫でる。

「少しだけ、遊ぶ?」

走らせるのは怖いので、ポチがキャッチできるようにボールを投げた。上手くキャッチはできなかったが、ゆっくりと落ちたボールを追いかける。嬉しかった。本当に嬉しかった。この時間が続けばいいのに、僕は強く願った。

 ご飯を食べる時には、僕の足元に寝ていた。家族四人が囲むテーブルの下。みんなの足元を周り、その後に寝ていた。その日のポチの元気は、僕らに希望を見せてくれた。

(明日には、もっと遊べるようになるんじゃないか。)

そんな期待が僕の心を膨らませていた。


その日の夜、僕はすっと目が覚めた。夜中の1時半。普段は途中で起きたとしても、すぐに寝付けるのだが、やけに目が冴えていた。ポチは、今のところゆっくりと眠っている。しかし、若干の呼吸の荒さがあった。僕は換気をしたり、ポチを撫でたり、なんとなく寝れるまで起きていることにした。

 30分ほどして、ポチが目覚めた。正確には、呼吸がしづらく、顎を上げるために布団の方に移動した。前夜までと同じように、鼻詰まりに咳、本当につらい夜が始まった。母が抱き寄せ、呼吸を楽にしたり、腕に顎を置き、鼻詰まりを無くしたり…。食べたものを吐いたりもした。長い長い夜だった。「ズーズー。」「ズーズー。」

ポチのいびきが鳴りやまない。どうにかしたい、どうにかしてあげたい。何度も何度もポチを抱き寄せた。

「ポチ。ポチ。」 (もう大丈夫だよ…)

心の中で、ポチが苦しまないことを願った。


 夜の2時半を回った時だった。ポチはぐっと立ち上がった。吐いてしまうのかもしれない…僕は急いで、ポチの元に駆け寄る。リビングの隅を目指して、ポチは歩く。僕はそれを追いかける。ポチは止まった。そのまま、パタッと僕の腕に倒れこむ。

「あれ、あれ。あ…」

力がない。

「息してない…。」

分からない、何が起きているか分からなかった。母親が駆け寄り、そして父と兄を呼びにいった。ポチはもう動いていなかった。電気がつく。よく見ても、ポチは倒れこんだままだった。

「ポチ!ポチ!」

みんなで声をかける。

「ありがとうね、ありがとうね。」「頑張ったね、頑張ったね。」

涙が止まらなかった。ポチは息をすっとする。息が戻ったわけではない。まだ聞こえているだろうか。

「ポチ、君がいて本当に幸せだった。ありがとう。」

ポチはもう動かなくなった。


 長い長い夜はもう少し続く。ポチがいなくなって。12年ぶりにポチがいなかった、家族四人の生活に戻った。止まらない涙に、ポチの話。固まったいくポチの腕が伸びきる前に、腕を交差させる。氷嚢で冷やした。分からないままに、たんたんと作業をした。そして、みんなで、ポチを囲って、夜が明けるのを待った。


夜が明けた。長いようで、短い。僕らの時が止まったかのように、時間だけが過ぎていく。父は葬儀場に電話をかけていた。

「今日の夜…最後ですか。ええ、それでお願いします。」

電話が終わった。どうやら、今日中には火葬してもらえるらしい。

 ポチの身体はどんどん固まっていった。2時間もすると、もう動かすことが出来ない。いなくなったことを、そこで初めて実感した。葬儀までの間、ポチのことを沢山話した。初めてペットショップに来た時のこと。サッカーを一緒にしたこと。泣いている家族の涙を舐めてくれたこと。そういえば、脱走したこともあった。

「ポチって…ほんとにおもしろかったね。」

 ポチがいなくなった家族四人の話は、ポチ中心だった。間違いなく、ポチは僕ら家族の中心にいた。


「そろそろ行くか。」

 動かなくなったポチを毛布に包み、車へと乗り込む。大好きだったおもちゃに、花束、お菓子を入れた。天国で、道に迷ってもおなかが空かないように。友達が見つかった時に、遊んでもらえるように。まっすぐ、まっすぐ、お花のある場所に向かえるように。

 ポチってこうだったよね。ああだったよね。ポチがいなくなって、なんとなく会話に間が空く。僕が生まれてから、ポチがいる時間の方が長かった。そんな僕にとって、ポチのいない日常は非日常になる。

 ポチがいる最後の家。最後に全員でのお出かけ。もっといろんなところに一緒に行きたかったな。そんなことを思いながら、家を発つ。


 

 ポチとの最後のお出かけは終わった。今日も、仏壇の前に座っている。ポチの骨はすごい丈夫だったが、少し黒ずんでいたり、緑がかった部分もあった。腎不全は気づかないことが多い病気だ。でも、着実に身体をむしばんでいて、気づいたときには手遅れなことが多いらしい。ポチの骨を見て、すごく頑張ったんだな、つらかったんだなと思った。眠ることが多くなり、おしっこの回数が増えたり、そんなささいなことを見逃してしまったことがポチを苦しめてしまった。

 ポチに教えてもらったことは沢山あった。家族と一緒に過ごす時間の尊さ、大きな存在であったと改めて思った。ポチが幸せだと感じてくれたかはわからない、ここにいるよりも良い暮らしがあったかもしれない。いろんな考えが頭を巡った。それでも、今目の前の時間を大切にしようと、それだけは決心した。

 今日もポチへの挨拶から朝が始まる。

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