第34話 マリアの後悔




「うっ……」



身体が痛い。目を覚ますと俺はうつ伏せで倒れていた。頬が床のタイルに当たって冷たい。筋肉痛のような身体の痛みと、かき氷を頬張った直後のようなキーンとした痛みが頭を走る。


何かの香りが鼻にツーンと刺さった。




ボーっとする頭を一生懸命に働かせながら、何が起こったのかを必死で考える。状況が読み込めない。公園でショウとアヤカと話をしていた。そこまでは、はっきりと覚えている。……その後は、黒服に、多分スタンガンでやられたんだ。スタンガンを当てられた瞬間の事を思い出すと、身体の痛みが増していく気がした。


ショウとアヤカは無事だろうか?


そして、黒服の男とヤマダ先生は同一人物で、今回マリアの殺人動画を撮影した、マリアを誘拐した犯人だ。



これからどうするべきか落ち着いて考えなければならない。


まずは部屋の中の状況を把握しようと思った。

電気がついているようで部屋の中は明るかった。


起き上がろうと試みたが身体が思うように動かない。どうやら手は背中の方にロープのような物で縛られているらしい。足もきつくロープで縛られ、思うように動かせない。口もガムテープでふさがれている。転がる事しか出来ず、アザラシの様な状態だ。上半身を使って前後左右にもがきながら、どうにか起き上がることが出来た。手は後ろに縛られたままだが体操座りのような体勢だ。




ここはどこだろう。家のような、倉庫のような部屋だ。床は思ったとおり灰色のくすんだタイルが張られていた。部屋の広さは十畳程だろうか。



俺は部屋の中央にいるようだ。


部屋の中を見渡すと壁際全体に沢山の花が飾られていた。白いスミレ、スカビオサ、バラ……。花瓶に生けられていたり、鉢植えだったり、花束だったり、飾り方は様々だ。ここがヤマダ先生の部屋だとするならば、マリアのSNSに投稿された花達はきっとこれらを使ったのだろう。見た事のない花も沢山ある。香りの正体はこの花達のようだ。一つ一つならきっと良い香りなのに、様々な香りが入り混ざって俺には息苦しかった。


部屋の中に窓はあるがカーテンがきっちりと閉められ、光は入ってこない。そして壁にはいくつか蝶の標本が飾られていた。




蝶と言えば……やはり、ここはヤマダ先生の家なのか?

ショウとアヤカの姿も見えない。二人は違う場所にとらえられているのだろうか?




「……こんにちは」

「っ……」


いきなり声を掛けられ背筋が凍る。後ろの方から少し高い声がした。目覚めてから背後の様子は確認していなかった。人の気配を全く感じなかったから。最悪だ。見落としていた。冷や汗がこめかみを流れていく。今度こそ殺される。ガムテープで口をふさがれているせいで声が出せない。俺は恐る恐る振り返る。



「……驚かせてごめんなさい。面と向かって会うのは、はじめましてよね?」


目を疑った。そこにはずっと会いたかった、ずっと探していた、天使のような少女が居た。



「私はマリア」




マリアは生きていたのだ。



生きていてよかった。信じてよかった。ずっと頑張ってきてよかった。無事でよかった。


マリアは口はふさがれてはいないものの、手と足は俺と同じように縛られている。ボロボロになった制服を着ていた。サラサラだったロングヘアーは絡まり、パサパサになっていた。



「本当に本物のマリア?」そう聞きたかったけど声が出せない。


俺は身体をアザラシのように動かしてマリアの隣まで移動した。顔色が悪く、スカートから延びるスラっとした長い脚にはいくつかのアザがある。こんな状況の中でさえも儚さが増して美しいと思ってしまった。



感動のあまり、じわっと涙が出てくる。



沢山の人の話を聞いてマリアのイメージが思っていた感じと違って、会うのが少しだけ怖かったけれど、そんなものを吹き飛ばすくらい嬉しかった。


誰が何と言おうとマリアはマリアで、俺の中で特別だった。



しかし感動している暇もない。喜ぶのはまだ早い。早くここを脱出しなければ。



「あなたがアッくんだよね?……先生がよく話しているの。マリアのファンアカウントのアッくんの事。アヤカから聞いたのよね?ヤマダ先生が犯人だって。先生、アヤカが裏切ったってすごく怒りながらアッくんをここに連れてきたのよ」



マリアが優しく、穏やかな口調で話しかけてくる。親しみを込めてなのか、それとも本名を知らないからSNSのアカウント名で呼ぶのか、俺の事を「アッくん」と呼んできた。憧れの人にアッくんと呼ばれるのは何だかむず痒い。


マリアはもう脱出しようと言う希望さえ失ってしまったのか怖い程に冷静だった。



「ねぇ、アッくん。蝶は好き?私は苦手なの。だって私達みたいじゃない?遠くから見れば、キラキラして羽ばたいて美しい。でも近くで見れば見えたくないものさえも見えてしまう。そこが好きだって人もいるかもしれないけどね。……私は嫌い。大嫌い」



声を出せない俺はマリアを見つめる事しかできない。



「アッくん、いつも私の事を応援してくれていたんだよね?ありがとう。私の事を好きになってくれてありがとう。ここに来てくれてありがとう。きっと私を探してくれていたんだよね?私の事なんてもう、皆は忘れたと思ってた。毎日、毎日ここで一人で過ごしておかしくなりそうだった。たまに来るヤマダ先生は一方的に話すだけで、私を人として扱ってくれない。


だから、アッくんが来てくれてすごく嬉しい。


嬉しいけど、でも私、後悔しているの。


あの時アッくんに生きて欲しいなんて言わなければよかったって。あの時の子がアッくんなんでしょ?先生が言ってた。



……違う。ここに来たのだって本当は私がっ……違う、違うっ!こんなの私じゃない。意地悪な事を言いたい訳じゃない。違うの。アッくんは悪くない。教えて欲しい。どうすればよかった?!何が正しかった?!」





頭を左右に振りながら話している。マリアはひどく混乱しているようだった。話している間に感情が高ぶってしまったのか、さっきまでの冷静さを失っていた。情緒が不安定だ。



今までマリアの言葉に助けられて俺は生きてきたのに、マリアにとっては後悔している出来事だったと言うならば、俺は何を想って生きていけば良いのだろう。「あの時アッくんに生きて欲しいなんて言わなければよかった」マリアが言ったその言葉が頭から離れなかった。


蝶の話のように近づき過ぎたのが間違いだったのかもしれない。マリアを助けたいと言う気持ちさえも迷惑だと考えるべきか。



マリアはいきなり、俺の顔を見つめてきた。そして身体も寄せてくる。マリアに何を言われても、マリアが近くにいて生きていると言う事実に安心してしまう。


マリアの顔が近い気がする。


これが吊り橋効果と言うものか。俺はマリアに言われた言葉のショックと、早く脱出しなければと言う焦りと、マリアが身体を寄せて来たと言う事に最高潮にドキドキしていた。それはもう、口から心臓が飛び出そうと言う表現がぴったりだ。


こんな美少女に近づかれたら、どんな酷い事を言われてもさらに好きになってしまう。


アヤカが言っていたように俺は女性をすぐ好きになってしまう単純な性格なのかもしれない。



気のせいではなかった。マリアの顔がさらにゆっくりと近づいてくる。長いまつげ、白い肌、透き通るような瞳。その瞳に中に慌てた表情の俺が映っていた。顔が近すぎて身動きも出来ず、俺はギュッと目を瞑る。


マリアの柔らかい唇が俺の頬に優しく触れた。柔らかい感触、そして歯が当たる。今までの人生で感じた事がないくらい、ドキドキしている。ドキドキが自分の意思では止められなくて、心臓が壊れそうだ。冷や汗とはまた違う、緊張から出てきた汗が、じわじわと額や掌に溢れ出す。無意識に呼吸を止めていた。


そして唇はゆっくりと離れていった。


呼吸が一気に楽になった気がした。


そっと目を開くとマリアはガムテープをくわえていた。……俺の口のガムテープをはがしてくれただけだった。それもそうか。マリアも手足を縛られているからこのやり方しかなかったのだ。少しだけ残念な気持ちになる。


それでも頬に少しだけ触れた唇の柔らかな感触が残っている。顔が熱い。


「教えて?」


マリアはガムテープを吐き捨て、首を傾げながら俺を見つめるとそう言った。


「え?何を?」


俺は今の出来事で頭の中がいっぱいになり、前の会話の内容が飛んでしまった。



「私の話、聞いてた?」


「えーっと、マリアが生きていてくれてよかった。本当にそれだけでもう充分。何もいらない。本当に良かった……早く脱出しよう。ここから」



「だからそうじゃない。嬉しいけど違う。脱出しようとしてもきっと無理よ。私は何度もやった。……私はただの道具なの。先生に利用された道具なの。……アッくんがきっと殺されるの。私があの時、アッくんのお悩みを配信で読まなければこうはならなかったかもしれない。……先生の本当の狙いはアッくんなんだよ」


「え?それって、どういう……」



マリアの言っている意味がわからなかった。

どうして俺を狙う必要がある?俺とマリアの仲が良いと先生が勘違いして、嫉妬したとか?それで俺がいなくなれば良いと考えたのだろうか。それならアヤカを利用する必要はあったのか?


詳しく話を聞こうとした。




その時、キーっと錆びたような音を響かせて部屋の重たそうなドアが開いた。





この時の俺はまだ何もわかっていなかった。マリアがなぜあれ程、後悔していたのかを。何故、俺が狙われているのかを。







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