06_御印
鬱々と思考を巡らせながら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓の外は未だ真っ暗で、異様なほどしんとしていた。
左手にちくちくとした痛みがあった。火傷を覆っていた包帯を解くと、灯虫の噛み痕は跡形もなく消えている。
代わりに、手の甲から手首にかけて見覚えのある紋様が浮かんでいた。
──うつほさまのお印。
守り石を種子として芽吹いたような白い桑葉は、刺青のように肌に馴染んでいた。
驚きはなかった。もう一度おいでと空穂は言った。恵餌の人間が神の道に踏み入るなら、これ以外の方法はない。
ただ、疑問はあった。
私は恵餌祭の舞姫になったことはない。決まった手順を踏まなくても同じことができるなら、空穂はどうして、初めから私を選ばなかったのだろう。
選ばれるのは、恵餌と最も
引っ越しさえなければ、花嫁はきっと私だった。
私の父は県外の出身で、母は故郷を嫌っていた。郷との繋がりは伯父経由のものだけで、雪野姉さんと空穂以外の友達もいなかったのだから。
──一年前、私と雪野姉さんの立場が逆だったとしたら。
決して訪れることのないもしもを思い描いて、ふと、空穂の声が鼓膜に蘇った。外に出たいのかと問われて、かつての私は答えられなかった。
その理由が、今、わかった。
「──雪野姉さん」
己の感情の動きに愕然としたまま、手を離してしまった人の名前をなぞる。
答えがわかってしまった以上、やるべきことは一つしかなかった。
ダウンコートに袖を通して、母を起こさないよう裏口から抜け出した。
早朝の雪原があらゆる音を吸い取って、恵餌郷は死んだように静まり返っていた。街灯の疎らな光の下でも、お社の場所はすぐにわかった。
閉ざされた外塀の
「通してください」
うつほさまより古い神様は、どんな考えをもって私たちと空穂の間に線を引いたのだろう。
「雪野姉さんのところに行くんです」
火の獣が跳ねる。小気味良い音を立ててお社の門が開く。真っ直ぐに空を切った白い紙飛行機は、過たず獣の背を射抜いた。
引き裂かれ、霧散していく灯虫に左手を伸ばす。
熱い。けれど、すぐに火傷するほどではない。
覚悟を決めて、熱の欠片を強く握りしめた。
炎の残滓を吹き散らし、氷点下の風が凍えた頬を撫でる。白い階段の先を見上げると、開け放たれた正門の向こうに空穂がひとり
恵餌に住んでいた頃、空穂と会うのは私の最大の楽しみのひとつだった。通い慣れた灰色の石段を登るたび、空穂と過ごした時間が
蛍、駄菓子、貝殻──今なお鮮やかな思い出に、同じような日々を過ごした子供たちの影が重なる。郷に疎まれ、山を彷徨ううち、お社に導かれた無数の子供たちの姿が。
最後の一段を越えて、開け放たれた門を挟んで空穂と向かい合う。
両脇には篝火が、火の境界が煌々と燃えていた。
「ねぇ、空穂」
震えそうになる喉を叱咤して、息を吸った。
「空穂がずっと私を気にかけてくれていたのは、私が花嫁に選ばれると思っていたから?」
空穂は肯定も否定もしなかった。
「この地に生まれる限り、皆おれの愛すべき
「雪野姉さんのこともお社に呼んでいたの?」
「いいや。雪野はいっとう芯の強い子だった。苦い水を舐めても郷を離れず、おれの助けを望むこともなかった」
過ぎ去った時間を思い返すような間を置いて、空穂は静かに続けた。
「おれの声に応じた子らとて、半ばは外に出て戻らなかった。おれはお前たちに未知の甘さを与えてやることはできない。しぃが外の水を望むなら、無理に留めはしないとも」
思わず声をあげて笑った。そうしなければ子供のように泣き喚いてしまいそうだった。喘ぐように息をついて、力なく言葉を絞り出した。
「バカだね、空穂。無理にでも私を選べばよかったのに」
左手の甲に浮かんだうつほさまのお印を撫でる。握りしめた熱が荒れ狂って、恵餌を離れてからずっと
「雪野姉さんも空穂も、私のこと買い被りすぎだよ。外の水なんて苦いばっかりで、私、向こうでは恵餌に帰ることばっかり考えてたのに」
自動改札の通り方がわからないのがあんなに惨めだと知らなかった。カラオケもボーリングもやり方を知らなかった。テレビをつければ知らない番組が映った。
新しい学校の同級生たちの会話は、私にはほとんど未知の言語だった。
投げつけられた幾つかの言葉を思い出して、唇の端から乾いた笑いが漏れた。
「生まれって何? 育ちって何? 私を馬鹿にする人たちに頭を下げれば、正しい場所に生まれ変わらせてくれるのかな」
馬鹿みたいだ。空穂にだってそんなことできないのに。
雪混じりの風が頬を叩く。束の間、空穂は言葉を失ったようだった。
「恵餌に生まれたのは、お前にとって忌むべきことだったか?」
その問いはきっと、空穂が私に初めて見せた痛みだった。
「全ッ然!」
息を吸って、顔を上げた。覆面の下の翠の眼を想って、せいいっぱい微笑んだ。
「好きだよ、空穂」
母も雪野姉さんも故郷が嫌いで仕方なかったけれど、私は決して嫌いではなかった。それがたとえ、空穂が私に──いずれ選ばれるべき娘に恵んだ、優しい餌のためだったとしても。
意を決して、正門をくぐった。
耳鳴りも息苦しさもない。
昨日の抵抗が嘘のように、火の境界は確かに私を迎え入れた。左手の熱は随分前に痛みを通り越して、今は拳の中で微かな動きを感じさせるだけだった。
空穂は何も言わず、火傷だらけの腕で私を抱きとめた。空穂の体は痩せて骨張って、けれど確かに温かかった。
──大学生になったら何がしたい?
幾度となく繰り返された雪野姉さんの問いが、耳元によみがえる。
本当は、明確な答えなど私の中にはなかった。
「ねえ、知ってた? 私、空穂に選んでもらえるなら、パンケーキなんて一生食べられなくたってよかったんだよ」
雪野姉さんほど強い外への憧れは、私の中にはなかった。
答えに困ったから食べ物の話をした。嘘をついたわけじゃないけれど、空穂や雪野姉さんを差し置いてまで食べたいものなんてあるはずがなかった。
でも、今ならもう少しだけちゃんと答えられる。
視界の真ん中で、空穂の曙色の髪が濡れたように歪んだ。
「知ってる? 雪野姉さんには夢がたくさんあるんだよ。やりたい勉強があって、着てみたい服があって、行ってみたい場所があるんだよ。それなのに、そのどれより先に、私の誕生日をお祝いしたいって言ってくれた」
私は、雪野姉さんの味方でいたい。
雪野姉さんの夢が叶ったところが見たい。
雪野姉さんがやりたい勉強をしているところが見たい。好きな服を着て、食べたいものを食べているところが見たい。
券売機の使い方がわからなかったことも、電車がすれ違う音に怯えたことも、他のどんな情けない瞬間を誰に笑われたとしても、自ら交わした約束を果たすことさえできれば、私はきっと胸を張って歩いてゆける。
空穂の温かな抱擁を、ここで永遠に失ったとしても。
「返してよ」
左手首の組紐に指をかける。
空穂の両手が伸び、震える私の手を支えるように包んだ。
「空穂が
組紐が千切れる。守り石が地に落ちた瞬間、指の隙間から灯虫の群れが吹き上がる。
私の左手を
呆気なく、その姿が燃え上がる。
恵餌祭の人形のように、劣化して乾いた千代紙のように。
「辛くなったらいつでも戻っておいで」
空穂がそっと私の肩を押した。燃え落ちた覆面の下は無数の火傷で歪み、辛うじて残った翠の目が微笑むように瞬いた。
「お前の望む道に幸いがありますように」
私の手が再び空穂に触れることはなかった。
瞬きの間に、無数の灯虫が空穂の体を内側から食い破る。
人影の一片まで燃やし尽くして、四つ足の獣は力強く地を跳ねた。
「あ──」
お社の屋根が火の
呆然と見上げた足元から、パキリと乾いた音が聞こえた。焼け焦げた守り石がふたつに割れた音だった。
我に返った瞬間、左手の痛みが燃え上がる。歯を食いしばって、境内の小さな滝へと走った。
左手の消火ついでに雪まじりの水を頭から被る。冷たさで心臓が止まりそうだったが、止めている暇はなかった。
髪から滴る水を払って、燃え盛るお社へ走った。
「雪野姉さん!」
舞姫の舞台は既に踏み込めないほど火勢を強めていた。立ち止まりそうになった瞬間、
舟の欠片を祀った石祠と、お社の間には飛び石があった。
考えるより先に足が動いていた。
お社の裏手にはまだ火は回っておらず、飛び石の手前、お社の木製の扉も原型を留めていた。
障害物を蹴り開け、もうもうと吹き出した煙の奥に、私は確かに求めた人影を見つけた。
「しぃちゃん──!」
酸欠に喘ぎながら互いに腕を伸ばし、白い着物の裾を手繰り寄せる。
そうしてようやく、雪野姉さんと手を繋いだ。
◇◆◇
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