05_帰郷

 かつての我が家に着いてすぐ、荷ほどきを放り出して雪野姉さんの家に走った。例年はお社で舞姫を観てから挨拶に行くのだけれど、胸騒ぎがして待てなかった。

 母は運転に疲れたのか、珍しくひとつの小言もなく私を見送った。

 一年ぶりに訪れた本家は、心なしか手入れが荒れた雰囲気を漂わせていた。

 嫌な予感を振り払って呼び鈴を鳴らす。ややあって気怠げな足音と共に現れたのは、お酒の匂いのする春雪はるゆきくんだった。

「雪野なら戻っとらんよ。花嫁は二度とお社から下りられん」

 数年ぶりに顔を合わせた春雪くんは敵意すら感じる目つきで笑った。

 取りつく島もない物言いとともに扉を閉められて、私は伯父に会うことさえできなかった。

 ──戻っていない?

 ありえない。学校だってあるのに。悪質な冗談と言われた方がまだ納得できる。

 けれど、一年間なんの返信もなかったという事実が、今更になって無視できない強さで喉を締め上げるのがわかった。

 居ても立っても居られず、私はうつほさまのお社に走った。

 お社の石段を駆け上がる。左手首の守り石が跳ねるたび、皮膚に残る冷ややかな感触に不安が増幅した。早く空穂の声を聞きたかった。雪野姉さんの姿を見たかった。私の考えすぎだと、恐ろしいことなど何もないと笑い飛ばして欲しかった。

 息を切らせて最上段にたどり着く。お社から流れる音色で、舞姫が始まっていることがわかった。

 心なしか普段より厚みのある人垣の隙間から顔を出す。

 舞姫の舞台の奥、蝋燭の火で区切られた神域の内側、御簾の向こうにはふたつの影がある。

 うつほさまの隣に白い着物姿の女性を認めた瞬間、血の気が引いた。

「あ! 花嫁さまだ!」

「お綺麗だねぇ」

 笛の音も見物人の囁きも、何もかも遠い世界のことのように思えた。

 白い巨体の隣、慎ましく座した花嫁の腹は、遠目にもわかるくらい膨れている。ほっそりとした腕や脚は記憶の中の雪野姉さんのままなのに、そこだけがいびつに大きい。

 その姿の意味がわからないほど幼くはなかった。

 幼い日に教えられた決まり文句が、恐ろしく醜悪な響きを伴って頭蓋骨に響いた。

 ──花嫁の仕事はただひとつ。次のうつほさまの器をつくること。

 なにも難しいことはないのだと、私たちはそれだけを聞かされて育った。

「何十年ぶりかや? おめでたいことだに」

「あんな器量良しは街にだって滅多におらんに」

 周囲で飛び交う言葉の意味が理解できなかった。誰もがそれを祝福していることに目眩めまいがして、立っていることに耐えきれなかった。

 舞姫が終わる前に人混みを逃げ出した。言うことを聞かない脚が縺れ、社務所の裏で派手に転んだ。空は皮肉なほど晴れていて、乾いた砂利の感触が掌を刺した。

 ──約束したのに。

 雪野姉さんの糾弾が鼓膜に蘇った。衝動に任せて頭を掻き毟った。頭からぱらぱらと砂利が落ちた。一年前、雪野姉さんの不安にその場しのぎの対応をした自分が、ただひたすらに憎かった。

 お社になんて行かせるんじゃなかった。無理にでも村の外に連れ出すべきだった。お小遣いなんか全部叩いて、雪野姉さんを連れて逃げればよかった。

 その程度のことが、どうしてできなかったんだろう。

 こんなことになるくらいなら、どうして!

「しぃちゃん」

 聴き慣れた声に、一瞬、呼吸が止まった。

 顔を上げる。

 蝋燭の線の向こうに、雪野姉さんが立っていた。

 額にはうつほさまのお印があり、白い花嫁衣装を着ている。まだ祭事の途中なのか、傍に空穂の姿はない。

「来てくれたんだね」

 雪野姉さんの微笑みはどこか茫洋としていた。

 どう答えればいいかわからないまま、のろのろと身重の人影に歩み寄る。差し出された手を取った瞬間、雪野姉さんの表情は変わらぬまま、目から大粒の涙がこぼれた。

「会いたかった……」

 震えた一言に込められた痛みの深さに、全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。雪野姉さんの細い手を握りしめて、叫び出したいのを必死に堪えて唇を開く。

「逃げよう」

 火の境界なんてもう構っていられなかった。空穂に御神体の石祠せきしを見せられたとき、人の道から出た私には何のばちも当たらなかったのだから。

 私の手を支えに、雪野姉さんが片足を上げる。白い足袋の爪先が蝋燭の火を跨ぎ、地面に触れようとした瞬間、強烈な耳鳴りが頭を包んだ。

「しぃちゃん!」

 雪野姉さんに突き飛ばされるのと、左腕に焼けつくような痛みが走るのはほぼ同時だった。尻餅をつきながら無我夢中で振り払うと、左腕から大量の赤い羽虫が飛び立つのが見えた。

 灯虫ひむしの群れが渦を巻き、境界を守るように四つ足の獣の形をつくる。唸るような羽音とともにその姿が跳ね、赤いあぎとが眼前に迫った。

 目を閉じる間すらなかった。

 だから、白い紙飛行機が炎の獣を射る様も、はっきりと目に映った。

 燃え落ちた和紙の向こうで、空穂は微笑んだようだった。

「おかえり、しぃ」

 蝋燭の境界の向こう、ぐったりと倒れた雪野姉さんを、空穂が丁寧な仕草で抱き上げる。

 かつて私に舟の欠片を見せたときのように、大切な子供にそうするように。

「どうして?」

 ようやく絞り出せた言葉は、我ながら間抜けな響きだった。

「どうしてこんなことしたの?」

 遅れて膨れ上がった怒りに任せて立ち上がる。踏みつけた砂利が耳障りな悲鳴を上げた。

「帰してよ! 雪野姉さんを家に帰して! 受験生なんだよ!? こんなとこに閉じ込めたら、ど、どこにも行けなくなっちゃうじゃん……!」

 言いながら、頭の隅から冷ややかな実感がこみ上げる。

 ──もうとっくに手遅れだ。受験も。多分、お腹の子も。

 一年前のあの日、伯父も春雪くんも自治会の大人たちも、私以外の全員が、こうなることを知りながら雪野姉さんを送り出したのか。

 私の脳天気な答えがどれほど雪野姉さんを打ちのめしたか、想像するだけで吐き気がした。

 でも──だって──空穂がこんなことするはずなかったのに!

「舞姫の中で、雪野が最も恵餌とえにしの薄い娘であったから」

 空穂の声は普段通り穏やかだった。

も、それ以前も、お前たちが選ぶ娘は常にそうだった」

 わずかに考えるような間をおいて続ける。

「案ずることはない。雪野の役目はじきに終わる。ここに外の水はなくとも、幸いの夢はいくらでもある。もう目を覚ますことも、苦しむこともない」

 限界だった。大股で境界を踏み越えて空穂に掴みかかろうとして、しかし、私の足は神域の土を踏むことができなかった。

 恐ろしい息苦しさが全身を襲った。硬化した空気がゴムのように侵入を阻む。息ができない。思考が圧迫される。視界が徐々に狭まって暗転する寸前、空穂の手がそっと私の肩を押し戻した。

「無理をするな。お前たちはこちらの土を踏むことはできない」

 その手が滑り、灯虫に焼かれた腕に触れる。

「この傷は夜に癒そう。痛むだろうが、少しだけ辛抱してくれ」

 空穂の支えを失って、私はずるずると境界の外側に座り込んだ。

 呆然としたまま顔を上げる。よく晴れた空が眩しかった。陽光が目に滲みて痛かった。

 為す術もなく潤んで崩れた視界の中で、空穂の曙色の髪が炎のように揺らめいた。

「あまり無茶をするな。境ノ主サエノカミは融通が効かない。本当に灯虫に焼かれてしまうよ」

 あくまで優しく気遣わしげに、空穂が囁く。

「どうしてもと言うのなら、明日の朝、もう一度おいで」

 ──それからどうやってお社を下りたのか、確かなことは覚えていない。

 左腕には獣の噛み跡のような火傷ができていた。半円形の傷は前腕の半ばから手首に伸び、守り石を境に途切れている。奇妙なことに、灯虫に触れたはずの赤い組紐にも焦げた様子はなかった。

 燃えるような痛みに耐えられず流しで腕を冷やしていると、案の定、母に見つかって盛大に叱られた。

 経緯を問われても言えるはずがない。灯虫に触ったと誤魔化すと、母は顔を曇らせた。

「あんたねぇ。今日が恵餌祭えじさいじゃなかったら痕が残ってえらい騒ぎだよ」

 手当てを終えた火傷の上を、母は紙製の人形でなぞった。恵餌祭で配布される白い人形はうつほさまのお恵みのひとつで、私たちの病や傷を引き受けてくれる。

「雪野ちゃんのことは残念だったけど、お社の火を跨ごうだなんて馬鹿なこと考えるんじゃないよ。あの火はね、灯虫と同じで、うつほさまより古い神様がつかわせたものなんだから」

 祈るように私の手を握って、ぽつりと呟く。

「どんなばちがあたるかわかったもんじゃない」

 頷く以外にどうしたらいいのかわからなかった。

 じくじくと痛む火傷に気力と体力を奪われて横になる。氷嚢を握ったまま、雪野姉さんと空穂の姿を反芻する。消化どころか息が詰まっていくばかりで、固く目を閉じて吐き気に耐えた。

 浅い眠りを漂っているうちに夜が深まり、人形を持った母に起こされた。

「うつほさまがおいでになるよ」

 玄関から外に出ると、見慣れた恵餌祭の夜が広がっていた。

 お社から点々と灯された火は石段を下り、集落むらを一周する光の道を作っている。それぞれの家は与えられた場所にござを引いて、家族全員でお出迎えの準備をしていた。

 火の道に面した辺に人の頭ほどの平らな石を置き、その上に人形を乗せる。母が蓙の上に正座するのにならって、その後ろに膝をついた。

 お社の方角から、鈴の音が遠く鼓膜を打つ。三度目に合わせて平伏する。足音のないうつほさまの代わりに、鈴の音が近づいてくる。

 しゃらん、と頭上で鈴が鳴った。平伏したまま持ち上げた視界の上端で、人形の端が燃え上がる。白い紙が音もなく燃え尽きるのに合わせて、包帯の下で火傷の痛みが消えていく。

 白い裾が去っていく。縫い付けられた鈴が澄んだ音を響かせる。逆らいがたい重圧に背いて、辛うじて持ち上げた視線でうつほさまの背を追った。

 厚みのある美しいはね、柔らかな毛で覆われた白い巨体──その輪郭を、燃える羽虫の群れが照らしている。

 うつほさまの歩みを追うように、無数の灯虫が道の外を舞っていた。たまに火の境界を越えようとしては、不可視の壁に弾かれたように軌道を変える。

 焦げた紙の匂いに混じって、微かに不快な匂いが鼻をついた。

 人の肉が焼ける匂い。

 しゃらん、と涼やかに鳴った鈴が、それすらも冷まして遠ざかる。

 後には冬の夜の凍てついた空気だけが残った。

 雪が降り始めていた。

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