07_望郷

 その直後のことは、あまりよく覚えていない。

 炎は怒りすら感じさせる勢いでお社を貪り尽くし、山にまで広がり始めていた。火の境界は既に線の形を留めておらず、灯虫ひむしが私と雪野姉さんを止めることはなかった。

 正門を越えた瞬間、雪野姉さんが膝を折った。口を覆った指の隙間から大量の吐瀉物が溢れた。膨らんだお腹から逆流するようにあふれた淡緑色の液体からは、微かに桑の香りがした。

 足を止めている暇はなかった。雪野姉さんを背負って必死で石段を降りた。農道に転がり出た私たちを出迎えたのは、恵餌の消防団だった。

 うつほさまの花嫁を抱えて炎の中から飛び出してきた私が、彼らの目にどう映ったかはわからない。誰よりも早く駆け寄ってきたのが消防団員の伯父だったことは、間違いなく幸運だった。

 混乱の最中、次に駆けつけたのは母だった。母は無言のまま私と雪野姉さんを車に詰め込むと、一直線に街の病院へ向かった。ありとあらゆる小言を覚悟したが、母は不思議なくらい静かだった。黙って家を抜け出したことについては、少しだけ怒られた。

 結論から言えば、雪野姉さんの体に医学的な変調はなかった。妊娠の痕跡はおろか、身長も体重も髪の長さも、一年前と全く変わらないままだった。

「しぃちゃんがうつほさまに会ってるのは、なんとなく知ってたよ」

 数日後に目を覚ましたとき、雪野姉さんは力なく苦笑した。

「一発引っ叩いて逃げてやろうと思ったのに、結局全部しぃちゃんにやってもらっちゃった」

 お社に登ってからの一年間について、ずっと眠っていたと雪野姉さんは言った。長い長い悪夢を見たのだと。

「夢の中ではね、お母さんが家にいるの。お兄ちゃんとお父さんは仲が良くて、家族で何度も海に行ったの。こんなの嘘だってわかってるのに、ちゃんと考えなきゃいけないのに、何も考えられなくて──」

 与えられた幸いを語る声は細く凍えていた。

「自分がゆっくり溶けていくみたいで……すごく怖かった……」

 検査の結果に反して、雪野姉さんの体調は安定しなかった。集落から出られない伯父に代わり、保護者の役を引き受けたのは母だった。

「雪野ちゃんも熾衣しいも、恵餌郷えじのさとには二度と戻らないで。悪いけど、兄さんとはもう話をつけたから」

 そう告げて、母は私と雪野姉さんを一度ずつ強く抱きしめた。

「兄さんと春雪くんは残るってさ。あんなとこ、何もないのにね」



 雪野姉さんは高卒認定試験に合格して、私と同じ年に大学を受験した。

 私は必死の勉強の末、雪野姉さんが選んだ国立大学──は無理だったので、その近くの公立大学に合格した。

 念願のルームシェアを叶えて最初の休日は、初めてのパンケーキを食べに行く約束をしていた。お詫びを兼ねて、私のおごりで。

「もっと高いものでも良かったのに」

 雪野姉さんを迎えに行くと約束したくせに、私は丸一年遅刻した。対価が二千円弱では足りなかろうとぼやくと、雪野姉さんは困ったように笑った。

「じゃあ、残りは誕生日に奢って」

「いいけど、それ一生かかるやつじゃん」

「一生お祝いしてくれるの? 嬉しいなぁ」

 楽しげに笑う雪野姉さんの白い額を盗み見て、私はほっと息を吐いた。

 雪野姉さんのお印は、恵餌を離れてからどんどん薄くなっていった。少し気をつけて化粧をすれば、私にさえわからないくらいに。

 一方で、私の左手にはくっきりとお印の形の火傷痕が残った。

 あの時の行いを思えば、それ以外の部分が元どおり治ったのがむしろ奇跡だった。母に嘆かれながら保湿や手袋を続けたけれど、肉色の傷痕は鮮やかになるばかりだ。

 伯父からの手紙によると、うつほさまのお社は全焼し、焼け残った御神体の石祠を守るために新しく小さなお社が建てられたらしい。

 火事以来、うつほさまのお姿を見た人はいない。自治会は形だけの恵餌祭を続けたけれど、うつほさまのお恵みが失われたことがわかると、住民の結束は徐々に薄れていったようだった。

 伯父との再会は私たちが大学を卒業した後、彼が最期に搬送された隣街の病院でのことだった。

 買い出しのために集落から出て、赤信号に気づかずねられたのだと伯父は言った。

 それが本当かはわからなかった。説明のつかない傷痕が身体中にあることについて、伯父は頑なに口を閉ざした。

 恵餌を離れ、うつほさまのお恵みを失って、伯父は急速に死に近づいていった。

 春雪はるゆきくんとは既に連絡がつかなくなって久しかった。雪野姉さんの他、見舞いに訪ねたのは私と両親だけだった。

「しぃちゃんのお友達がな、何度かうちに遊びに来とったよ」

 傷だらけの顔の中で、伯父の眼差しは憑き物が落ちたように穏やかだった。

「まあず珍しいみどりの眼の子でねぇ、しぃちゃんを待っとるって言っとったに」

 いっとう優しそうな子だったよ、と告げて、伯父は眠るように意識を失った。

 それが、私が伯父と交わした最後の会話だった。



 伯父の言葉が縁を繋いだのか、以来、恵餌祭の時期が近づくたび、懐かしい故郷の夢を見る。

 雪の朝、青々とした桑の葉、蛍舞う初夏の夜。変わらず美しい風景の中、うつほさまのお社だけが変わり果てた姿で佇んでいる。

 絶やさず設けられていた火の境界は、二重の塀と共に失われて戻らず──だからだろうか、夢に現れる曙色の髪の子供は、覆面を付けることもなく、恵餌郷えじのさとを気ままに遊歩しているようだった。

 無理に孵化を早めたからか、そのひとの姿は私が知るものより随分幼い。

 夢の終わり、美しい翠の目が物言いたげに私を見つめて、しかしその唇が開くことはない。

 目を覚ますたび、ひたひたと忍び寄った寄る辺なさが生暖かく頬を濡らした。

 肉色に変わったお印をなぞって、自ら捨てた水の甘さを思った。


 けれど、炎の中で雪野姉さんの手をとった、あの冬の日を最後に。

 私が故郷の土を踏むことは、ついぞなかった。


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