雨音の解

檸檬焼酎

本編

「あ、雨降ってる」


 誰かのそんな声が耳に届く。外を見やるとポツポツと小振りの雨が降っていた。


「午後結構降るらしいよ」

「まじ? 傘持ってきてないんだけど」


 やだー、なんて話すクラスメイト達。最悪、なんて言ってもどうせ明日には今日の雨のことなど忘れてるんだろう。


「てか彩香ー、課題の答え見してくんね? 次の数学当てられそうなんだよね」

「えー? もう、しょうがないなぁ」


 喧騒の中を凛と突き抜ける玲瓏とした声を、自然と耳が拾う。佐藤彩香の声だ。サラサラとした艶やかな黒髪に、白百合のような真っ白な肌。綺麗な薄紅色の唇にはリップなんて妨げになるだろう。困ったように笑う頬にはえくぼがよく似合っていた。何かの間違いで空から落ちてきた天使なのではないだろうか、なんて思ってしまうほどに彼女の容姿は美しい。その上勉強も運動もできるときた。これで性格さえ悪ければ思う存分妬むこともできるのだが、生憎彼女はとても優しい。それこそ天使のように優しく、私を除くみんなに愛されている。そうだ、私は彼女が嫌いだ。

 皆が綺麗と褒めそやす黒髪が嫌いだ。大和撫子なんて謳われるが、あんなものただ黒いだけじゃないか。黒猫だってカラスだって不吉と言われるのに、何故人間になった途端褒められるのだ。

 皆が優しいと称賛するその性格が嫌いだ。優しいから何なんだ。どうせ彼女の性格が悪かったとしても気の強い美人は素敵、だなんて言われるんだろう。彼女の行動が優しいんじゃあない、彼女が行動するから優しいと言われるのだ。

 皆が可愛いと慈しむその瞳が嫌いだ。全部見透かしたような黒い目が時折不穏な影を覗かせるのを、切ない感情を浮かべるのを私は知っている。ほら、今だって笑っていない。


「てかヤバ。もうチャイム鳴るじゃん」


 バタバタとクラスメイト達が席につき、佐藤彩香は私の前の席に座った。全く、後ろ姿まで可愛らしいとはなんなんだろうか。湧き上がってくる感情を堪え、阿呆毛のない後頭部から目を逸らそうと窓を見る。雨足は外界の景色をノイズのように曇らせ、ガラスは鏡のように教室を映し出していた。呆けたように反転した世界を眺めていると、視界の端に映る彼女も窓を眺めているのに気づいた。思わずそちらに視線を動かすと、物憂げな彼女の表情を目が捉える。ああ、またそんな顔をして。一体何をそんなに憂うことがあるのだろう。言いようのない感情がまたしても込み上げて、喉に小石が詰まったような不快感を覚える。空調が効いていないのだろうか、じっとりとした空気が肌にまとわりついて暑い。

 ふと、ガラス越しの彼女と目が合う。鼓動がびくりと跳ね、心臓を冷たい手で撫でられたような感覚に冷や汗が出る。彼女は先程の表情は見間違いだったかのように嫋やかに微笑んでいた。


キーンコーンカーンコーン――


 チャイムが鳴り、冷水を浴びたように意識が現実へと引き戻される。


「授業を始めるぞー」


 教壇に立つ教師が声を発する。彼女はもう前を向いていた。


「起立、礼」


 日直が気怠げに号令の挨拶をする。ガタガタと不揃いな椅子の音が教室に響く。皆がまともに礼をしていない中、彼女はきっちりと三十度の礼をする。そんな彼女の背中を、私は夢の中にいるような感覚で見ていた。


ザー――


 授業が全て終わった頃には小さかった雨足は大きく育ち、我こそはと早足で地上に降り立っていた。バタバタと豪快に地面を打ち鳴らす雨は何が楽しくてそんなに暴れているのだろう。雨音のドラムロールを聴き流しながら下駄箱へと向かうと、佐藤彩香が昇降口で突っ立っていた。

 なにをしているんだろう。一瞬傘でも忘れたのだろうかと考えるが、彼女の手には傘が握られていた。本当になにをしているんだろうか。心ここにあらずといったような状態の彼女を横目で見やりながら、私は傘立ての方へと向かった。


「はぁ?」


 思わず声を溢してしまった。ないのだ、傘が。私の傘は何の特徴もないビニール傘だったから、きっと傘を忘れた奴に盗られたのだろう。


「最悪……」


 天気予報を確認するのを忘れた自分の怠慢が原因だというのにその不幸を他人に擦り付けるなよ、と腹が立つ。近くのコンビニまで我慢して買うとか、友達の傘に入れてもらうぐらいの考えは浮かばないのだろうか。

 こんなことなら特徴的なストラップでもつけておけばよかった、と嘆いているとトントンと肩を叩かれた。


「佐々木さん。どうしたの?」


 顔を見なくてもわかる。佐藤彩香だ。


「……傘、盗られて」


 仕方無しにそう答えると彼女は眉間をぐっと歪ませた。


「え!? それは酷いね……。人の傘を盗るだなんて」


 思ったよりも感情豊かに彼女は答える。そして何かを閃いたような顔をして再度口を開いた。


「あ! じゃあさ、一緒に帰らない?」

「は?」


 きっと今の私は引き攣った顔をしているんだろう。思わぬ彼女の提案に、脳が雷に打たれたように痺れる。


「いや、でも、方角違うし……」


 嘘だ。彼女の家は通りを曲がるか曲がらないかぐらいでほとんど方角は一緒だ。しかし今の今まで話したことのない彼女はきっと、私の家がどこかなんて知らないだろう。


「? 佐々木さん帰り道同じでしょう? 二丁目の角のお肉屋さんを右に曲がったとこだよね」


 あそこのコロッケ美味しいよね、なんて彼女は朗らかに言う。知ってたのか、なんて呆けている間に彼女はばさりと傘を開いた。


「ほら! 帰ろう?」


 未だに痺れる脳では、正常な判断ができなかったのだろうか。思考する前に私の口は勝手に動いていた。


「……貸して」

「え?」

「傘。あたしの方が背高いでしょ」


 そう言いながら私は手を差し出す。彼女はありがとうと、嬉しそうに笑いながら私の手に傘を預けた。


 ザーザーと一定の音を鳴らす雨の中、私と彼女の傘を打つ雨音はバシバシと異質な音を奏でている。そんな傘の下、世界から隔絶されたような沈黙が私と彼女を包んでいた。


「……あんたさぁ」

 

 沈黙に耐えきれなくなった私は口を開いた。


「なぁに?」


 視線が交わる。彼女は薄く微笑んで返事をする。真っ直ぐにこちらを見るその瞳に心がざわつく。


「なんでさっきあんなとこで突っ立ってたの?」


 何気ないその質問に、彼女の表情がぴしりと凍りついたのがわかった。


「別に、なんでもないよ」


 動揺しているのを隠せずに誤魔化そうとしている彼女を見て、悪戯心がわいた。


「馬鹿みたいにぼーっとしちゃってさ、朝もそうだったっけ? センチメンタルですって顔して外見てさ、何? 雨嫌いなの? 博愛主義ですって面してるあんたにも嫌いなものあんのね」


 水を得た魚のように捲し立てて話す。少しずつ曇っていく彼女の顔を見ていると、背徳感で胸が満たされた。きっと彼女のこんな表情は私しか見たことがないだろう。段々と彼女の歩みは遅くなり、ついには立ち止まってしまった。雨が私の左肩を濡らしていた。


「……佐々木さんって、人のことよく見てるよね」


 すごいなぁ、と自嘲気味に彼女は笑う。


「あのね。私ね、雨苦手なの」


 消え入りそうな声で彼女はそう言った。私の耳には彼女の声だけが響き、雨音なんて聞こえなくなっていた。

 正確には一人で傘を差すのが苦手なんだと彼女は語る。傘を差すと孤独を感じるのだと、自分はここにはいないのではないかと、声を上げても雨音に溶けて消えてしまう感覚が、いつか自分も溶かしてしまうのではないかと怖いのだと。


「私は弱い人間なの。一人が怖い、周りに誰かがいないと耐えられない」


 泣きながら彼女は言う。涙が白い頬を伝う。


「私、佐々木さんのこと尊敬してるんだよ」

「え」


 不意に飛び出た彼女の声に驚く。さっきまで散々人のことを馬鹿にしていた女に、何を言うのだろう。


「佐々木さんってさ、いつも一人でいるじゃない。けど、友達ができないんじゃなくて望んで一人でいるタイプでしょう」


 見透かしたような瞳をして彼女は語る。あぁ、嫌だ。また小石が引っかかる感覚がふつふつとわいてくる。


「……何をわかったようなこと」


 右側の空気がじっとりと熱を持ったように暑く、肌にまとわりつく。


「わかるよ、私が一人が嫌なタイプだから、わかっちゃうの。いつも凛と過ごしてて、周りなんて気にも止めないあなたが羨ましかった。背を伸ばして立つあなたが綺麗だと思った。太陽の下で輝く茶髪も、日に焼けた肌もひまわりみたいで好き。赤いリップが似合う唇から目が離せなくて、少し低めの声が耳に染み付いて離れないの。強くて、美しくて、私にはないものを持ってるあなたを、私は、」


 衝動的だった。私は、堰を切ったように話す彼女を抱き寄せた。ばしゃりと傘が水溜りに落ちる。シン、と音が止まったように感じて、息が止まる。再び呼吸を始めたときには彼女の唇は赤く染まっていた。私も彼女もずぶ濡れで、風邪をひいてしまうな、なんて他人事のように考えた。


「それ以上、話さないで」


 切り捨てるように彼女に告げる。


「これ以上、あんたを好きにさせないで」


 本当は解っていた。私は彼女が好きなのだ。いくら嫌いだなんて言葉で誤魔化しても、頭の中は日に日に彼女で埋め尽くされていく。もううんざりだった。落ちた傘を手に取り彼女に差し出す。


「はい。こんな濡れたんならもう傘なんてあってもなくても一緒でしょ」


 彼女は傷ついた表情をしていた。彼女のその顔を見てると胸のあたりに何かが込み上げる。また、口が勝手に動く。


「……まぁ、雨の日だけなら一緒に帰ってあげてもいいけど」


 彼女は弾かれたように顔をあげた。潤んだ瞳がキラキラと輝いている。空はこんなに曇っているというのに、何を反射して光っているのだろう。チカチカと煌めく目が眩しくて、私はスッと彼女から目を逸らした。


「苦手なんでしょ、雨。しょうがないし付き合ってあげる」


 顔も見ずにそう言うと、数秒間をおいて彼女の嬉しそうな笑い声が耳に入った。傘は手から離れ、代わりにそっと右手に指が絡まる。私はその手を握り返した。強い雨が私達を打っていた。

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雨音の解 檸檬焼酎 @lem_shochu

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