憧れは霞の中に
星山藍華
読み切り
中学二年の終わり頃、
「やりたい仕事って言ってもなー……」
椅子からぽつりと呟いたそれが転げ落ちる。けれど何かが起きるわけではなかったし、隣で一生懸命お絵かきをする小学生の妹は気にも止めない。
ちょうど夕飯の支度が出来たのか、母が愛花里と妹を呼ぶ声が聞こえた。妹は我先にと部屋を飛び出し階段を駆け下りる。一方で愛花里は一つ大きな伸びをして重い腰を持ち上げる。着崩れしたパーカーを直してダイニングに向かえば、いつもは仕事で遅い父がのんびりとテレビを見ながら夕飯を待っていた。
「あれ、パパ今日早かったんだね」
「ああ。行き詰まって帰ってきたんだ。明日は休みだし、早く帰ってゆっくりしようと思ってさ」
その声のトーンと目を合わせないで返事をする時は、大抵スランプに陥っていることが多いと愛花里は思った。
父の仕事は販売促進用のポスターを作るDTPデザイナーで、忙しい時は大抵二一時を過ぎてから帰ってくることの方が多くなる。十九時過ぎの夕飯を一緒に食べることは月に数回ほどだ。
家族四人揃って、いただきます、と手を合わせると、他愛ない会話で場を盛り上げるのはいつも妹だ。今日は友達とこんなことをして遊んだとか、この間テレビに映ってた犬が可愛いとか、そんなどうでもいいことで父と母は愛想良く返す。愛花里はくだらなさすぎて、ただ聞き流しているだけだった。
食事が終わり、妹が部屋に戻るのを確認すると、愛花里は父に宿題の件で助けを求めた。
「あのさ」
「なんだ? 愛花里」
「パパの仕事って、楽しい?」
唐突な質問に目を丸くする父は、返答に困っている様子で頭を掻く。
「どうしたんだよ急に。愛花里がそんな質問するなんて」
「宿題。『仕事をする自分を想像して文章を書く』ってやつなんだけど、春休み終わったら提出しなきゃいけないの。でも、まだ一文字も書けてなくて……」
「なるほどな。確かに中学生にしては難しい宿題だな」
父はテレビを消して、愛花里に自分が座っているソファーの隣に来るように、その場所を二回ほど叩く。すぐに座ると、愛花里は真面目に聞く体勢を取る。
「『ハローワーク』って言葉を知ってるか?」
愛花里は首を横に振る。
「簡単に言ってしまえば、仕事を探している人と雇いたい会社を結ぶために、仕事を探している人に向けて仕事を紹介する場所のことなんだ」
「ほへー……」
「でもな。何でもいいから仕事したいって人には、仕事が見つからないことが多い。なんでか分かるか?」
「なんで? その人は仕事ができればいいんでしょ? 何でもかんでもじゃダメなの?」
「仕事ってのはな、ある意味、その道のプロフェッショナルとして働かなきゃいけないんだ。だから会社も、そんないい加減な理由でその人を雇いたくはないんだよ。――例えば、そうだな……、もし愛花里が友達の誕生日パーティーをサプライズでやりたいって思った時、まず何をやらなきゃいけないと思う?」
うーん、と唸りながら少し考える。
「私一人じゃパーティーなんてできないし、人を集めないといけない、かな」
「そうだ。じゃあ誰を誘う?」
「私が共通して仲の良い友達」
「うんうん。じゃあ内緒でパーティーの計画をするには、どうしたらいい?」
「役割を決める、かな。みんなでやった方が絶対楽しいと思う」
「そうだろ? でも皆でやろうって言ってるのに、皆が『何でも手伝うから愛花里が決めてね』って言われたら、どうする?」
黙ってしまった愛花里を見て、父はさらに言葉を続ける。
「『何でもいいからやります』って言われると、一見『何でもやってくれるんだ』って思ってしまうだろ? でも頼み事をしても『できないからやりません』って言われると、お互い嫌な気持ちになるだろ? これが仕事だったら、『できないからやりません』って言う人は仕事をしてないわけだから、当然辞めさせられる」
父の言うことに必死で理解しようとして頷いてはいるものの、愛花里の顔はまだ理解したようには見えなかった。
「『何でもいいからやります』って言う人より、好きなことを貫き通して、自信を持って『私はこれができます』って言える人の方が頼みやすいし、安心して仕事を任せられるんだ。まあ、愛花里も高校生くらいになって、もっとやりたいことを見つけていけば、分かるかもな」
「……パパの言うこと、難しい」
脹れ面の愛花里の頭を撫で回す父は、笑って誤魔化していた。その裏にある感情は、愛花里が理解するにはあと五年足りなかった。
* * *
三月も残りわずかとなり、愛花里は四月から大学生になろうとしていた。都内の大学に進学するために実家を離れなければいけないのは心苦しく思っていた。
「愛花里、忘れ物無い?」
母がノックするなり部屋に入り、あれこれと確認しに来る。
「多分無い。忘れても新幹線で取りに来るし」
「そんなこと言って。新幹線だってそんな頻繁には乗れないんだからね?」
「分かってるよ」
駅までは二、三ヶ月前に会社を辞めた父が車を出してくれることになっている。昼過ぎの新幹線に間に合えばいいから遅くても三〇分前には家を出ればいいのに、父は二時間も部屋で漫画を読み、満足したところでベッドでくつろいでいる愛花里をドライブに誘った。
「愛花里、パパとドライブに行かないか?」
「いいけど、だいぶ早くない?」
「いいじゃないか、しばらく会えないんだし」
「寂しいの?」
「行くなら準備しろよ。先車で待ってる」
相変わらず誤魔化すのが下手な父を見て可愛らしく思えた。しかし部屋を出る後ろ姿を見ていると、なんだか小さくなったなと感じた。
母と妹に挨拶して、父と愛花里は車に乗り込む。いつもと全く違う道に、愛花里はどこへ向かっているのか不安になる。
「どこに行くの?」
「着いたら教える」
ちぇー、とつまらなさそうに返事をして頬杖を付ながら流れていく知らない景色を見ていたが、うたた寝をしていたのか、気付けば父の目的地に到着していた。
「美術館?」
車の窓から見えたエントランスにはそう書いてあった。人気が少ないためか開いているのかすら分からないが、父に付いていくほかなかった。中に入れば乾いた空気だけが出迎える。なんとも寂しい場所だと感じた。しばらく館内を歩くと、父は一枚の壁いっぱいに描かれた絵画の前に立ち止まった。それはただ子供たちが体中に絵の具を付けて遊び回ったような、正直何が描いてあるのかすら分からない作品だと、愛花里は思った。
「これはな、パパがデザインの仕事をしようと思ったきっかけなんだ」
父は隣で語り出す。壁に跳ね返って響き渡る低い声は、威勢や元気は無かった。
「いろんな色を体にくっつけて走り回る子供たちや、ふざけて絵の具を零したり、手形を残してみたり、すごく自由に溢れてると思ったんだ。この絵を見た時、こういう自由な表現を仕事に出来たらいいなーって、そう思って中学生の時に本気でデザインの勉強をするようになったんだ」
愛花里は相槌を打つことなく、ただ黙って聞いていた。
「でも実際大人になって就職して、自分のやりたいことと仕事で求められてるものは全然違った」
「どう違ったの?」
「パパはただ自由に絵を描いていたかった。でも仕事はいつも意図を持って絵に起こさなきゃいけない。仕事に自由は許されなかった。『自由に描いて』って言うくせに、求められるものは全然違うのさ」
「それが嫌になって、仕事辞めたの?」
父は少し間を置いてから返事をした。図星を当てられて、本当のことを言うのが恥ずかしかったのだろう。
「情けない父親だろ?」
「……」
その言い方をされて、愛花里は腹立たしくなった。今まで頑張ってきたことに対して、その一言で自分の全てを否定するような言葉を切って捨てたいほど、愛花里は珍しく声を荒らげた。
「情けない? ふざけんなよ! 五年前に学校の宿題で困ってる時にあれだけ話してたのに、ついこの間仕事を辞めた理由がそれ? やりたいことの一つや二つ、持ってたっていいじゃん! それが仕事に関係あろうがなかろうが、辛くても仕事を頑張ってたパパは格好良かったのに、通用しなくなった途端に弱気になるなんてパパらしくない!」
怒鳴り声が館内に響き、アナウンスで愛花里を叱る文言が流れる。けれど今の愛花里には聞く耳を持たない。父は愛花里の言葉に雷を打たれ、今にも泣きそうな愛花里を見つめていた。
「そんな風に思ってくれてんだな」
「そうだよ。好きなことに夢中になるパパはいつも楽しそうだったのに、今は何やってもカラッカラに干からびたキュウリみたいで嫌」
「はは、愛花里はキュウリ、嫌いだもんな」
「うっさい……」
愛花里よりも一回りも二回りも大きい掌で頭を優しく撫でる。ありがとう、と父が一言零すと、愛花里の涙も零れた。
「さあ、もう行こうか。新幹線に間に合わなくなる」
小さく頷いてからゆっくり歩き出す。車に乗る頃には涙なんて無かったかのように乾いていた。
ロータリーに車を止めて、新幹線の発車時間まで休憩室で待つことにした。一人暮らしで注意しなければいけないこととか、勉強とバイトの両立とか、今さら頼もしい親らしくあれこれ聞かされて悶々としていた。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、しっかりやれよ」
「パパも。次ぎ会う時は情けない姿、晒さないでよね?」
「頑張るよ」
改札に入り、コンコースへ出る直前に振り返った時、父の小さくなっていく背中が見えた。あんな父の姿を見るのはもうごめんだし、自分もあんな風にはなりたくない。愛花里はそう強く思って、新幹線に向かった。
おしまい
憧れは霞の中に 星山藍華 @starblue_story
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