死神クオンのお見送り ~クール&キュートな死神さんに看取られたい~

郡冷蔵

──いっしょに行こう。

 こんにちは。

 わたしは死神のクオンです。ええ、死神です。

 はい、つまるところ、あなたはいままさに死神さんのお世話になろうとしているわけです。もちろん、ちょっと間違えて殺しちゃってー、なんてことではないですよ。わたしの正しい職務の内のこと、ただただ粛々と、あなたの魂を刈り取りに来たのです。なんてね。

 ……おや。現代人向けの定番ジョークなのですが。お楽しみいただけなかったようで残念です。とはいえ、内容自体はちっともジョークなどではありません。

 あなたはこれから死ぬのです。

 いえ、正しくは、あなたはすでに肉体としての死を迎えており、これから魂としての死を清算しに行こうとしているところです。おっと、どうやらピンと来ていない感じですね。もしかして何も思い出せませんか?

 ふむ、ご安心ください。実際のところ、よくあることです。パターンです。把握していますとも。わたしはこれでも仕事熱心なので、ええ、これでもね。なんでか意外がられるのですけれどもね。マニュアルはきっちり読み込んでありますから。

 さておき。

 何もわからないままただ召されるだけ、というのも嫌でしょう。

 人間はもとより知るための生き物です。

 あらゆる未知を理解し嚥下して、恐怖を理知の下に統べる、生まれもっての支配種族。その中にあって記憶を失うというのは、すべての知識を失い、逃げ出した恐怖たちに脅えざるを得なくなることに相違なく。

 だから、少しだけ、いっしょに思い出してみましょうか。

 わたしは死神。死者の神。死の神ではなく死者の神です。あなたのための慈悲もいくらか持ち合わせているのです。

 ──いっしょに行きましょう。

 あなたはどうして死んだのか。あるいは、あなたはどのように生きたのかを巡る、死出の旅路を、死神クオンが導きます。

 さあ、ゆっくりと、目を閉じて。

 あなたの中にあるものに、真摯に思いを馳せるのです。

 それではきっと、よい旅を。




 朝ですね。より正確には、今日の朝です。今朝ですね。

 ほら、耳を澄ませてみてください。窓の外から聞こえてくる鳥のさえずり。木の枝葉が朝日の中で擦れる音。まさしく、今朝聞いた通りの音でしょう?

 覚えてないって、それは当然、覚えてないから思い出させようと……え? そんなことを覚えている人間なんていない?

 ふむ……そうですか。それは、悲しいことですね。

 人間は、死ぬことを怖がるくせに、生きることに無自覚である。誰の言葉だったかは覚えていません。もしかするとわたしの言葉かもしれません。

 なんてね。

 いや、いまはそんな話がしたいわけではなくて。

 ほら、行きますよ。わたしが抱えてあげますから、変に力を入れないでください。

 いやいや、当方死神ですからね? 人間の物差しで話を考えないでもらいたい。

 あなたを担ぎ上げることなど余裕の極みです。よわみです。なんか違うな。忘れてください。さっさと行きますよ。そろそろ朝食の時間です。

 あなたには何か好きな食べ物などはありましたか? わからない?

 それじゃあ、ちょっと考えてみてください。

 朝ごはんはご飯とパンならどちらがいいのか。ヨーグルトは好きですか、きらいですか? そのひとつひとつの質問が、あなたという人格の一端をあらわしていたはずなのです。いいえ、決して大げさなどではありません。トマトは好きですか、運動は好きですか、あの子のことは好きですか、どれもこれも、立派なあなたの行動理念の要素に間違いないでしょう。ほら、どっちだ。ご飯かパンか。

 ……うんうん、なるほどなるほど。いい調子ではないですか?

 え、いや、わたしは、死神ですけど。あなたには死神が食事をするイメージがあるんですか。ご飯派です。たしか。

 なんてね。

 さてと。とはいえ、これはあくまで既に起こったことの再現。過去を振り返る作業であって、過去に立ち返る偉業などではありません。

 要するに、いまのあなたに食事それ自体は必要ないということですね。

 悲しいですか?

 そうですか。それではひとつ発見ですね。どうやらあなたは食いしん坊というわけではないようです。もしかすると、いくら食いしん坊でも、死んでしまってはもう食欲なんて湧いてこないのかもしれませんが。

 それで、次は何をするんですか?

 ああ、顔を洗って歯を磨いて、部屋に戻って着替えをする。

 いたって普通の身支度ですね。

 しかし洗面台には行かないほうがいいと思います。部屋は、確か大丈夫ですね。

 では顔を洗って来たというていで進めていきましょう。

 ……いちいち部屋に戻る必要もないのではと?

 うーん、あなたがそれでいいのならわたしは一向にかまいませんが、これは失われたあなたの記憶をたずねる旅路であることだけは、どうぞお忘れなきように。

 まあ、繰り返しになりますが、あなたがいいならいいのです。

 これはあなたに心地よく死んでもらうためだけの儀式ですから。


 さて、あなたには出かける用事があるようですね。こんな朝早くからご苦労なことです。まあ、死神業務は毎日二十四時間休憩なしなんですが。おまけに休日はお盆と十月末だけですからねぇ。失礼、ただの愚痴です。それにそろそろ辞めますからね、いまとなってはいい思い出……よくはないな……まあなんでもいいのです。はやく電車に乗りましょう。片道十数分とは、思ったよりも短い旅になりそうです。

 まずは駅ですね。

 ……ああ、はい。再現しているのは今日のあなたの行動であって、今日の世界ではありませんから、あなたが意識にも留めていなかった通行人の方々は、いちいち描写するまでもないでしょう。特別混んでいただとかがあればあるいは違ったのかもしれませんが、まあ、空いているならいいじゃありませんか。こうしてわたしがぺらぺら喋っている以上、本当に独りきりというわけでもないのですし。

 さて、駅につくまでの数分間、あるいはその後の十数分、あなたのことを思い出すには、ちょうどいい時間なのかもしれませんね。行動の再現以外にも、記憶復帰のプロセスは色々存在しますから。例えば何かを話していたらポロっとだとか。

 なんでもいいですよ。本当にとりとめのない会話シーンです。

 ……いえ、なんでもいいとは言っても、わたしのことは、別にあなたにはぜんぜんちっとも関係ないことなのでは。

 心地よく死ぬために必要?

 それはまた、それはまた。

 案外、ひとつあなたのことがわかりましたね。

 あなたは連続殺人ドラマの中でなら起承転結の承あたりで被害者になるタイプです。でなければ探偵役になるのでしょうが、ホームズという柄でもないですので、やっぱり背後から殴られるのがお似合いでしょう。パッとしないものです。

 恋愛ドラマの中でなら。

 もしかしたらホームズかもしれませんが。あるいはワトソンかもしれませんが。

 この話は連続殺人のほうなので、あしからず。

 なにしろ当方、もうそろそろ千人連続キルの一大ストリークを達成せんとしているところですから、殺人鬼としては相当上の殺人鬼のはずです。

 ただ、シリアルキラーを名乗るには、少し殺し方に芸がないかもしれませんね。

 一から十まで、十から千まで、冥府の底に突き落とすだけですから。

 いい機会ですから、あなたは特別な殺し方にしてあげましょうか。例えばほら、ええと、端っこからサメに食べさせてみるとか……。

 冗談ですよ。わたしはマニュアル順守の死神ですから。

 それで、別にマニュアルには死神自身のことを死者に話してはならないと記載されてはいませんが、本当に聞きたいですか?

 やはり人間は未知を知りたがる生き物ですね。

 まあ、それなら、なんでもいいと言ったのはわたしですから、少しだけお話ししてみるとしましょうか。たとえば、どんなことが聞きたいのですか? 卑猥な質問でなければお答えしますよ。

 ……ふむ。死神とは何なのか。ですか。まあ、至極真っ当な疑問ではありますね。

 あれですよほら、卍解するやつですよ。

 違いますけど。

 死神というのは。

 まあ。

 幽霊みたいにふよふよ現世を漂いながら、生きとし生けるものどもをそっと見守りつつ、うっかり死の運命を違えてしまった命があったなら、それを正しい輪廻の中に戻してやるという、そういう仕事です。

 ですが、死ぬはずだった命が永らえることはほとんどありません。

 死神の職務の九分九厘は、まだまだ生きるはずだった命の火が唐突に立ち消え、輪廻が魂を回収し損ねたとき、代わりにその魂を刈り取って、辿るべき次の運命を組み直してやるという部分にあります。

 確かに、こう言うとほら、何でしたか、すべての運命は初めから決まっているというような、そういうつまらない議論を呼び起こすかもしれませんが、誤解しないでいただきたいのは、輪廻や死神が決定しているのは生と死だけ、始まりの瞬間と終わりの瞬間だけです。その間どう生きるのかはすべて生者に委ねられています。加えて、我々が設定するのはあくまでゴール、ここまで来たらお疲れ様という上限であって、その中途で運命を降りるという選択も、また常に存在するのです。まあ、わたしとしては、仕事が増えてしまう以上、到底おすすめはできませんが。

 ああ、いえ、必ずしもあなたが自殺したとは限りませんよ?

 たとえば信号無視のトラックにはねられるのだって寿命では到底ありませんからねぇ。チートを与えるには神様ではなく死神が登場するべきなんですよ、だから。

 この手のヤツにいまいち受けが悪いですね。もしかしてもう古いんですか?

 とにかく、言ってしまえば、老衰と病死以外はすべてリタイア、死神案件です。少しは死神の大変さを理解していただけましたでしょうか。

 違った。自分の死に悲観的にならないでくださいという話がしたかったのです。

 ……ちょうど電車が来ましたね。続きは乗ってから話しましょう。

 中も空いているようですね。

 よいしょっと。

 なんだかんだで、あなたの身体がどれだけ軽く、わたしがどれだけ死神でも、荷物を負ったまま歩くのは、それでそれなりに疲れるものです。ちょっと一休みができないものならなおさらですね。

 わたしからも、ひとつ質問をさせてもらってもいいですか。

 あなたは「死」をなんだと思いますか。

 すべての血液循環が停止し、呼吸が終わり、瞳孔が開き切ることですか。

 生きていないことは死んだことと同義ですか。

 ならば「生きる」とはなんなのでしょうか。なんて。そんなチープな問答は、現代に生きるあなたたちは、もう聞き飽きているのかもしれませんね。

 とはいえ、渦中にあってその全体を把握することは不可能ですから。

 もはや死したあなただからこそ、生きるという事象を縁の外から眺めることができるはずです。とくれば、チープではない答えも出せるでしょう。あるいはチープでシンプルな回答こそがただの真実だったのだと、そんな悟りを得るのかも。

 わたしは、わたしは既に外れすぎています。生命というくくりから。

 千人を殺した大鎌よりも、ひとりを殺したナイフのほうが、命というものの感触を、確かに明瞭に答えてくれます。少なくともわたしはそう考えています。

 改めて、あなたにとって、生きることとはなんですか。

 何があれば生きていて、何がなければ死んでいるのですか。

 ……少し複雑すぎましたかね。

 時間はたっぷりあります、とは言えません。

 ここは刹那須臾の一瞬を無限にまで引き延ばした、今際の際に閃く光。

 ですが。

 本当に死んでしまえば、自ずとわかるはずです。いままで目にした死者たちは、みな最後の最後にそれを知り、その結末に涙を流すのです。ゆえに、そのときが来たのなら、どうあれ答えは必ず出るはずだ、とわたしは言います。

 すべての光が消えるとき。あなたの理解が結露したそれが感動の涙なのか、悲哀の涙なのか。本当に死んだことのないわたしはまだ、その答えを知り得ません。

 だから、もしもすべてを思い出したとき、まだ覚えていたのなら、わたしにこっそり教えてください。人の命の終着とは何なのかを。

 わたしはそれが知りたいがために、刹那を引き延ばし続けているのです。

 おわっと。

 いくら退屈だからといって、寝るのはないでしょう、寝るのは。

 まあ、いいですけどね。

 着けば自ずと目が覚めるはずです。あなたはちゃんと電車から降りるはずですから。さすがに、眠ったまま歩けるような不気味な器用さは持っていないでしょう。

 持っていませんよね?


 ……しかし、あなたは、わたしに少し慣れ過ぎていますよね。

 慣れると言っていいのかは曖昧ですが。

 もしかして臨死体験は初めてではないのですか?

 でなければ夢をみるのが上手いのかもしれません。いえ、枕を変えてもとかそういう話でなく。夢の一幕に死がちらりと触れることは、ときたま認められることなのです。

 もしかすると所在が似ているのかもしれません。

 でなくとも形態が似ているのは確かです。

 こんな話を聞いたことがあるかもしれません。

 睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。睡眠とは死からの負債である。

 こちらは出典を覚えていますよ。十九世紀ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの言葉です。これは、それ以前の人々の間に横たわっていた睡眠観を受けた表現と言えるでしょう。

 当時、十九世紀は、「灯り」が夜を征服するまでの百年でした。

 それ以前、中世の世には絶対にして侵されざる闇であった夜、頼りないろうそくの灯り、オイルランプのささやかな安らぎは、巨蛇に立ち向かうに木の枝をもってするに等しい小さな抵抗でした。照らし得ぬ闇とは進み得ぬ未知であり、死の恐怖と夜の恐怖はほとんど同義でした。

 夜に眠ることは、少し死ぬことです。

 目覚めることは息を吹き返すことです。

 その間、夢を見ている間、自分は果たして、生きているのか、死んでいるのか。

 それが十八世紀終わり際のガス灯の発明と、次いで十九世紀にかけての普及に始まり、アーク灯の発明を経て、木の枝は簡易的な槍くらいには信頼に足る武器となり、 夜は暴かれ既知となり、死と徐々に分離され、十九世紀末、エジソンの白熱電球によって、大いなる夜は討伐されました。もはや彼が目を覚ますことはありません。

 ショーペンハウアーは、あるいは生こそが神からの負債であり、死そのものが返済であるとするならば、睡眠は当座の利息であると説きました。利息をきちんと支払っているうちは、暴力的な取り立てには遭わずにすむだろうという話です。睡眠は死に向かうことでありながら死とは離れて、逆に生からは離れられないものになりました。

 しかし、まだ眠りの中には、当時の闇と夢が残っています。

 どんなに夜が明るくとも、人は眠るときには孤独なのです。

 どんなに眠りが明かされようと、夢の中は未知なのです。

 夜でもなく、眠りでもなく、夢をみることこそ、現世に残された冥府への扉です。

 だからこそ、夢をみるのがうまいとなれば、死ぬこともうまいのでしょう。

 わたしは夢をみるのが下手でした。

 地に足の着いた現実だけがわたしの世界でした。

 ……ええ、まあ、そうなりますね。わたしもまた元はあなたのように生きて死んだ人間でした。いえ、死にきれなかった人間でした。

 あなたは果たして死にきれるでしょうか?

 なんてね。

 少し話過ぎたかもしれません。マニュアルの逸脱です。

 まあ、マニュアル通りの時間が来たら、このあたりは改めてお伺いします。

 さて、少々わたしの話が長引きましたが、聞いていて何か思い出すことなどはありましたか? うすぼんやりとでも、何ぞかをかたちづくれたなら、お話しした甲斐もあるというものですが。

 ……それは重畳。

 列車行ももうすぐ終わりです。

 おそらく、この電車を降りたなら、もう現実味のある空間には立ち会えないでしょう。いわば最後の観覧です。いまのうちに外の景色でも眺めておかれてはどうですか?

 景色だけではありませんね。

 座席から伝わってくるこの振動も、車輪がレールを掴む音も、わたしたちの息遣いも、この電車を降りればもう感じられなくなるものです。

 それが死ぬということです。

 最後に残るのは死神だけ。そして本当の最後には、孤独だけが残ります。

 怖くは、ありませんか?

 だとすれば……本当だ、すごい雲ですね。雨が降るかもしれません。

 死ぬ前のあなたもこんなことを考えていたのでしょうか。まあ、わたしたちがそう観測しているということは、そうだったということですね。

 本当に死ぬ前のあなたはどんなことを考えるのでしょうか。

 あなたの涙の意味、できれば、忘れないでくださいね。

 車両が減速し始めましたね。どうぞ、こちらへ。死神は死者を抱きかかえて死に運ぶものです。そう決まっています。マニュアルで。

 ドアが開きます。自動です。

 なんてね。

 さて、降りてみましたが……やはり、もうまともな場所ではありませんね。

 輪郭がぐらついていて、かろうじてコンクリートに見える地面ですら、泥のようにふわつきぐずついた感触と来ました。よく見れば鏡のように我々の姿を反射してもいるようです。ほら。

 ……ああ、もう目が見えませんか。混乱するでしょう、まぶたはもう閉じておくのがよいかと。大丈夫、聞く職能だけは最後の一歩前まで残るはずです。死神は真実の死の瞬間まで、必ず死者と共にあります。

 いつも、ここからです。

 視覚を失ってから、死者はみな何か別のものを見始めます。

 何が見えているのか、そもそも本当に見えているのか、そこはわたしにはわかりません。あなたたちはそれを見て呑み込むことに精いっぱいで、言葉を吐き出してはくれませんから。わたしはただ胸の中のあなたたちの表情から、おぼろげな線を束ねていく他にありません。

 それでも、千近く死に立ち会っていれば、それに死神マニュアルを読んでいれば、ええ、多少のことはわかります。

 あなたがたが最期の十分を過ごした領域。

 この場所には、肉体死の瞬間、あなたがたが取りこぼした無数の記憶たちが漂っているのでしょう。あなたの人生であなたが抱いてきた歓喜、嚇怒、悲哀、悦楽、すべての記憶がまぜまぜ練られた、あなたという個の煮込まれた大釜です。わたしにはややパステルチックな白濁にしか見えないこの世界に、あなたたちは無際限の虹を見るのでしょう。

 もしかしたらなんとなく考えているのかもしれませんが、ええ、ここまでの道程は、ここにたどり着くためだけのものです。記憶なんて、ここまで来れば一発で戻りますからね。あれは死への混乱をひとつの方向に導いてやる、方便みたいなものです。死神マニュアルにもきちんと手引きされています。あはは、ドッキリ大成功。

 なんてね。

 少しくらいツッコミを入れてくれてもいいんですけど。

 まあ、あなたはあなたで、あなたの人生を振り返るのに大変でしょうから、よしとしましょう。

 というか、わたしも一度はそれを経験したはずなのですが、もうあまり覚えていないのです。

 死神は……聞こえていますか。聞こえていても反応できないのでしょうが、聞こえているならそれでいいのです。わたしはマニュアル順守の死神ですから、ここにひとつの事実を通知します。

 死者が死神に支払うのは六文銭ですが、死神は、冥府の川を渡り戻ってくるときに、自分の記憶を少しずつ失っていきます。

 およそ千回の渡航を経てなお冥府の川を戻ったとき、死神をかたちづくる記憶は消滅します。輪廻にも戻ることはありません。死ではなく、消滅です。

 とはいえ、死神が定める運命はあくまで最大値である、というのは、先にお話しした通りです。死神自身の寿命も例外ではありません。要するに、この川を戻らず、そのまま死ねばいいのです。

 だから、もしもまだ死ぬ覚悟ができていないのなら、あなたは死神になることで、束の間の猶予期間を得ることができます。あなたの刹那を拡張し続けるために、誰かの刹那を引き延ばすのです。

 だから、死者を渡すたび記憶を失うのは、期限であると同時、救いでもあるのです。どこかで「死への恐怖」を忘れられれば、気持ち良く死ねるはずですから。

 もうひとつお伝えしておくと、わたしのように千回を間近にしてなお死ぬ覚悟が固まらないなあなあな死神は、相当珍しい死神です。なので、もしもその気があるのなら、変にためらう必要はありません。とりあえずでもいいのです。

 死神になりたいのなら、目を開けてください。

 もしも目を開けたなら、わたしの案内は、ここで終わりです。

 わたしの腕を振りほどき、あなた自身が死神となって、大鎌を手に現世を渡り、死に迷う魂を本当の死へと渡しながら、いつかきちんと死んでください。

 少し待ちます。ああ、目を開けるなら、そのときはお別れの暇もありませんから、予め言っておくとしましょう。さようなら。きっと、よい旅を。





    ……うん。わかりました。

 あなたの死は、もうすぐそこですよ。



 案外、長い旅になりましたね。

 いえ、決して長くはなかったですが。充実した旅だった、と言い換えましょう。そのほうが適切です。あなたにとってはどうでしたか?

 あと一歩。あと一歩でこの旅も終わりです。

 あと一歩進んだら、わたしはあなたの身体をはじまりの海の中に離すことになります。その先どうなるのかは、わたしは知りません。ただ、終着点だけは知っています。あなたは正しい輪廻の輪の中に戻され、新たな生命として、再び現世に命の芽吹きを得るはずです。

 ……覚えていますか? 覚えてくれているでしょうか。

 あなたは、どうして泣くのですか。

 死ぬのが怖いからですか。あるいは嬉しいからですか。あなたは何を知り、何のために涙を流すのですか。あなたはこれから先、あなたが辿る死を理解しているのでしょうか。

 わたしはそれが知りたくて、どうしても知りたくて。

 死ぬのが怖くて。

 どうしても恐怖からは逃げられなくて。

 だから知りたいと思ったのです。だから死神になったのです。だから、刹那を千の悠久にまで引き延ばし、運命を渡し続けているのです。

 知れば、そこに恐怖はありません。

 ガス灯が、アーク灯が、白熱灯が、夜のベールを暴いたように。

 死を凌辱する理解の光が、わたしの旅には必要なのです。

 教えてください。

 あなたはどうして、泣くのですか。


 ……ふふ、大丈夫、わかっていました。気に病むことはありません。

 千回も同じことを繰り返していますからね。意地悪などではないことはわかっています。それに、どうあれ、これからわたしも消えますから。この道を帰って消えるか、海に身体を沈めて死ぬのか。残された選択はもう、そのふたつしかありませんから。それではどうぞ、よい旅を。わたしにできるのは、せめてそう祈ることだけ……はい? いまなんと?

 もう一度、どうか教えて、教えてください。

 あなたの内にある答えに、強く思いを集めてください。

 あなたはわたしに、何を伝えようとしているのですか?


「──いっしょに行こう。」


 …………え?

 ああ……ああ。まあ、確かに。

 どうせ結果が同じなら、あなたの提案に乗るのも決して悪い選択ではありません。

 しかし、怖くはないのですか?

 ふたりで海に飛び込んだとして、わたしたちはどこまでふたりでいられるのでしょう。同じベッドで眠る夫婦が違う夢をみるように、結局死は孤独になってしまうのではありませんか? その孤独感は、ただ孤独であるよりも大きなあぎとをもって、わたしたちを食らい尽くしはしないでしょうか。だから、わたしは、だから。

 結局。怖いのです。いまもまだ。

 あなたは怖くないのですか?

 ……もう、何も言ってはくれないのですね。言うべきことは言ったとでも?

 そう思ってみれば、なんだか満足そうな死に顔にも見えてきますね。

 どうせ結果が同じならと、簡単なことを言って。

 ……ええ。そうでしたね。運命が終着を用意し、過程は命あるものに決定の権が与えられていたのでした。だから、死ぬのは、どこまでも怖いものなのですね。運命は、世界の外にあるものですから。所詮輪廻の中を少し外れたくらいでは、理解の手が及ぶはずもないのだと。

 ひどくシンプルで、チープで、否定されるべきで、理解しがたく、理解しなければならない真実です。

 ああ、だから、これを理解したなら、涙も出ます。

 最後の瞬間まで、人は未知に脅えながら、立ち向かわざるを得ないのならば。

 知る生き物の顛末としては、確かに、これ以上なくふさわしい。

 怖いです。知るのは。

 ようやく、わたしも泣けました。

 ──いっしょに行きましょう。

 ゆっくりと、涙を隠して、微笑んで。

 わたしたちの中にある、頼りない微かな光に、真摯に思いを馳せるのです。

 それでは、きっと。

 きっとお互い、よい旅を。



 ……鈴の音が聞こえます。まだそこにいますか?

 いないのでしょうか。もうわたしの目も見えませんから、いまいちよくわかりません。きっといてくれるのでしょう。知らないということは、これはこれでいいものです。人間が生に無自覚であるのは、きっと、そういうことなのでしょうね。

 名前が残らないわけです。知る必要がない。

 それでもあえて残すなら、これはわたしの言葉でした。

 死神クオンの言葉でした。

 死者の神から、死にゆく者に向ける言葉でした。

 なんてね。

 鈴の音が聞こえます。

 鈴の音が聞こえます。

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