あれから彼に会わされた

草森ゆき

遠山浩孝、カニを食いに行かされる

 寒い。冬だから当たり前だが、雪の降り積もる地域に来てしまったせいで余計に寒い。降雪はなくとも積雪はあって、分厚い雲が途切れず続いている。バス停は本当にバスが来るのかと思うほどに人気がない。

 早く来いよと苛立ち始める俺とは違い、瀬戸口は平気な顔でバスの時刻表を眺めている。寒くないのか、問いかけようとしても、口がうまく動かない。

 寒さのせいではない。瀬戸口のせいだ。俺はこいつに話し掛けることが恐ろしかった。

「あ、きたきた」

 場違いなほど明るい声を出しながら、瀬戸口は道の奥を指差した。薄い緑色の小さなバスがこちらへ向かってくる姿が見えた。

「田舎って一時間に一本しかバスないんだね、来ないかと思ったよ。これでやっとカニに会える」

「……」

「楽しみだなあ、食べ放題!」

 瀬戸口は嬉々としながら目の前に停車したバスに乗り込む。積雪による到着遅れについての謝罪が、ノイズのひどいスピーカー越しに聞こえてきた。乗客は少ない。

 迷っていると肩を叩かれた。振り向いた先で瀬戸口はにっこり笑い、

「一番後ろに座ろう、人少ないし占領できるよ」

 と俺の腕を引っ張りながら断定的に告げた。

 じわりと嫌な汗をかく。五人は座れそうな後部座席の真ん中に、遠慮なく腰を下ろした瀬戸口は、何を考えているのかまるでわからない。掴んだままの腕をさらに引き、俺を隣に座らせる。

 バスがゆっくりと動き出した。車窓の向こう側は、どんよりと暗かった。


 瀬戸口から電話がかかってきた瞬間、心臓が嫌な音で鳴った。スマホの表面に浮かび上がる瀬戸口奏の四文字を何度も確認し、無視するか、取るか、脳では考えていたが指が勝手にタップした。

『あ、出た出た。久しぶり! 元気?』

 どんな相槌を打ったか思い出せない。瀬戸口は世間話も何も挟まず、次の日曜は暇かと問い掛けてきた。暇だった。彼女がいるにはいたが別れかけており、大学卒業くらいしか、やることがなかった。

 暇だと答えた俺に、瀬戸口は駅名を伝えた。食事に行こうという誘いで、なぜお前と、というよりもなぜ俺と、食事に行きたがるのか甚だ疑問で心底行きたくなかったのだが、了承してしまった。

 結局心のどこかで喜んでいたのだ。偶然再会したあの日以来、俺は記憶に残らない日々を過ごしていて、それは、全部瀬戸口が原因だとはわかっており、あの天才が俺のような万年二位に興味があるはずもなかったと自分を納得させかけていた矢先の着信で、踊ってしまった。掌の上だった。瀬戸口はじゃあよろしくねーと明るく言って電話を切り、俺はのこのこと指定の駅まで出向いていった。

 駅で待っていた瀬戸口は俺に乗車券を渡した。北陸行きの券だった。理解できずに固まる俺に向けて、瀬戸口は軽い調子でこう言った。

「カニの食べ放題プランを予約してたんだけどさ、行く前に彼女と別れちゃったんだよね。でもあんまり知り合いいないし、めんどくさそうなのと二人旅なんて論外だし、電話帳漁ってたら君のこと思い出してさ。誘えば来るだろと思ったら本当に来たからびっくりしたけど助かったよ、カニ好き?」

 食べたことがなかった。多分、食べたことがないと答えた。瀬戸口は何度か頷き、俺の目を見て朗らかに笑った。

「君も可哀想なやつだね、浩孝」

 そこからどう歩いて電車に乗ったのか全く覚えていない。気がつくと瀬戸口の隣に座っていて、気がつくと北陸だった。

 そしてバスに乗り、カニが食べ放題らしい旅館へと、二人で向かっているわけだった。


 静かな雰囲気の旅館だったが、カニをとにかく食べたい人間が集まっているらしく、通された大広間は異様な雰囲気だった。真新しい畳や上座の掛け軸が霞むほど、カニが机に盛られていた。俺と瀬戸口は指定の席に座った。良く見ると机にはタイマーがあり、皿やカニ用らしき道具を持ってきた従業員が、九十分に合わせてからポンと押した。

 瀬戸口はカニを一杯、皿に置いた。丸ごと茹でられた真っ赤なカニは、黙って足をもぎ取られていた。食べ方があまりわからず瀬戸口の手つきを見ていると、目の前に細長い棒を突き出された。

「これ、カニの足の中に突っ込んで、身を取り出す道具だから。見てないで食べなよ」

「あ、ああ……ごめん」

 目を刺されるかと思ったとは言わずに受け取り、ひとまずカニを持ってきた。足をもぐのは案外大変で、ちょっとカニが可哀想にもなりつつあったが、食べてみると霧散した。美味かった。そのまま夢中で全ての足を食べ尽くし、胴体はどうするんだと再び隣を見ると既に見つめられていた。

「な、なんだよ」

 いつから見ていたのだろうか。まごついていると、瀬戸口は俺の皿に残った胴体を指差した。

「この中に詰まってる蟹味噌、食えなかったらちょうだい。一番好きなんだ、蟹味噌食べにきたって言ってもいいくらい」

「ああ……欲しいなら、これごと持っていって、いいけど」

 足だけで満足だった。皿ごと寄せれば、瀬戸口はパッと笑顔になった。

「なら遠慮なく! いただきまーす」

 ピアノを捨てた指先が、カニの胴体をばきりと割った。溢れた汁が皿に落ちる。現れた蟹味噌、おそらく脳か何か、臓器だったと思われる部分は緑がかった苔のような様相で、美味そうには見えなかったが瀬戸口は小型のスプーンで掬い取り食べ始めた。

 濁った緑の物体は、瀬戸口に気に入られている。妙な気分だった。瀬戸口の興味や趣向を、俺は何一つ知らないのだと、改めて思い知らされた。


 九十分は意外と早く、三匹目を半分食べたか食べていないかの時点で終わってしまった。俺は既に満腹だったため構わないが、瀬戸口はまだ食えるのにと不満そうだった。

 広間を出て驚いた。外がいつの間にか吹雪いており、日帰りできそうもない様子だった。他の客たちも、困った顔で窓の外を見つめていた。

「うわー、やば!」

 流石の瀬戸口も困っている、と思いながら振り向いたが違った。満面の笑みのまま、猛吹雪の様子を眺めていた。

「好きなんだよねー、吹雪とか、嵐とか。超吹雪いてる日に嫌がる妹連れて外に出た時のこと思い出すよ、前もなんも見えなくなってさ、運が悪かったら死んでたなあ」

「危ないことするなよ……」

「ピアノのコンクールの日に台風来てた時あるじゃん、あの時も歩いて帰ろうとして親に怒られたよ」

 こいつやばいな、と心の中で呟く。瀬戸口は機嫌が良さそうなまま窓の付近をうろうろしていたが、ふと振り向き、俺を手招きして呼んだ。

「この前さあ、あっ、この前っていうのはアイス屋で君と会った日ね。あの日、ピアノ弾いてやっただろ」

「ああ……まあ……」

 思い出したくもない一日だ、曖昧に濁すが瀬戸口は笑顔のままでどこかを指差した。

 指の先にはピアノがあった。エントランス横のスペースに、ご自由にどうぞという札と共に設置されていた。

「あれ、弾いて」

「え」

「暇だろ、弾け、遠山浩孝」

 瀬戸口がなぜそう言い出したのかわからない。ピアノ自体も、年単位で触っていない。俺が棒立ちしている間に瀬戸口は動き、従業員に使用許可を求めて、承諾されて戻ってくる。背中を押されて歩き出したが足は鉛のように重かった。

 ピアノの前に立つ。久々に見た白黒の鍵盤は、無言で俺を見上げている。弾けない。他の誰でもない瀬戸口奏の前で、劣化した演奏を披露するなんて俺には、とても。

 鍵盤に触れることすらできない俺の隣に、瀬戸口が立った。素早く横を見た俺の目は縋っていたに違いない。瀬戸口はホールに響き渡るくらいに大きな声で笑った。折り重なるように激しい吹雪が建物を揺らし、俺ではなく瀬戸口の指先が、鍵盤の上に叩きつけられた。

 あの日に聴いた静かな曲ではなく、吹雪を煽るような激しい曲が始まった。俺は数歩下がりそうになり、いや違う、と思いとどまり、合わせて鍵盤に指を落とした。二人用の楽曲だったと思い出したからだ。

 俺の割り込みに、瀬戸口はまた笑った。何を考えているのかわからないまま、鍵盤の上で指先を踊らせて、天使のように澄んだ音のまま激しい曲を弾いていた。


「あー、止んじゃったな、まあ帰ろっか」

 弾き終わったところで瀬戸口は言い、拍手を送ってくれた客たちには笑顔で手を振った。俺はやっぱり全然弾けなくなっていて恥ずかしかったが、瀬戸口にはどうでもいいらしく、さっさと旅館の外へと出ていった。

 追いかけて、一面の銀世界を見つめた。止んだばかりだからか人の姿は一切ない。ただただ、ひたすらに白い。

 ざくざくと雪を踏み締める瀬戸口は、色の抜け落ちた世界の中をたった一人で進み始めて、振り向きもせずに歩き続ける。鮮烈な孤独だった。ずっとあの背中を追っていた。今でも追っていると、一生追い続けるしかないのだと、俺はもう気づいていた。

「瀬戸口」

 声をかけたが振り向かない。

 きっと一生、振り向かないのだ。

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