ムジナの恩返しin異世界王立学園

くれは

男爵令嬢meetsムジナ

 お義父様とうさまからのお手紙、という言葉だけで、自分の体が強張ったのがわかった。

 前回も失敗した、きっと罵倒される。今回はどんなことをさせられるのだろう。そして、母さんは無事だろうか。

 手紙を届けにきた使用人はいつもの人だった。少し垂れ目の、若い男の人。今日も優しげな顔で手紙を差し出している。そのホーフ男爵家の封蝋が赤く鮮やかで目に痛い。

 受け取りたくないけれど、受け取らなければ。わたしは震える指先で手紙を受け取り、手紙の中身など知らないだろう使用人に「ご苦労様」と頷いてみせた。

 使用人はこんなわたしにも丁寧なお辞儀を見せて、帰っていった。




 寮の自室に戻って手紙を開く。

 想像通りの罵倒の言葉、次に失敗すれば母さんがどうなるかわからないぞ、という脅し。そして、次にわたしがやるべきこと。

 その内容に小さく溜息をついたとき、部屋のドアが開いた。鍵をかけたはずなのに、と思って振り向けば、ソフィーの茶色い癖っ毛が見えた。


「アンネ、また鍵開いてたよ、不用心だなあ」


 そう言ってソフィーが部屋の中に入ってくる。そばかすの顔がにっこりと笑う。


「あ、えっと。鍵、かけたつもりだったんだけど」


 手紙のことで頭がいっぱいだったから、掛け忘れてしまったのかもしれない。気を付けないと、と思いながら、ソフィーの目から隠すように手紙を畳んだ。

 けれど目ざといソフィーはすぐに気付いてしまった。


「また男爵様からお手紙? 今度は何?」


 なんでもないと言う前に、ソフィーが近付いてきてわたしの手から手紙を奪った。


「駄目、ソフィー!」


 わたしの叫び声なんか物ともせず、ソフィーは手紙に目を通す。そして、急に真面目な顔になった。


「アンネ、これ本当にやるつもり?」

「わたしは言われたらやるしかないもの」

「やめなよ。こんなのアンネだって危ないよ」

「だって母さんが……男爵家には母さんがいるの。わたしが言う通りにしないと母さんがどうなるか」


 ソフィーは悲しそうな顔でわたしの顔をじっと見た。それから、小さく溜息をつく。


「じゃあせめて手伝わせて」

「ソフィーの気持ちは嬉しいけど、そんなことしたらソフィーだって危ないんじゃ」

「わたしは大丈夫だから。それより、アンネが一人で危ないことする方が心配だもの」

「でも」


 ぐずぐずとしてるわたしの顔を覗き込んで、ソフィーの優しい茶色い目が笑みを浮かべる。


「わたしはアンネの味方。大丈夫、わたしがなんとかするから」


 そう言って、ソフィーは手紙を折りたたんで封筒に入れて、それを制服のポケットに入れてしまった。


「待って、手紙は燃やすようにってお義父様とうさまが」

「そんな言葉を本気にしちゃ駄目だよ。今までの手紙と一緒に、これはわたしが預かっておきます。大丈夫、任せておいて」


 自信たっぷりに胸を張るソフィーに、わたしはそれ以上何も言えなかった。

 ただの庶民だったわたしは、突然に男爵家の養女にされて、付け焼き刃のマナーを叩き込まれて、こうやって王立学園に入学させられて、同じように学園に通っている王子様に取り入ることをお義父様とうさまに命令されている。

 どうしたら良いかもわからない。何もできずに縮こまっていた自分に、優しく話しかけてくれたのがソフィーだ。この学園で、ほとんど唯一の友達。だから本当は、ソフィーをこんなことに巻き込みたくもない。

 それでもソフィーは、いつもこうやってわたしの部屋に押しかけてきて、わたしの話し相手になって、わたしを手伝ってくれる。




 ソフィーによれば、この時間にちょうどこの階段を王子様が登ってくる。

 わたしはそれよりも少しだけ先に、階段を登っている。踊り場に差し掛かるところで、公爵令嬢のエフェリーセ様が上品な足取りで階段を降りてきた。

 わたしがやらないといけないことは、この階段から落ちること。それも、エフェリーセ様から突き落とされたように見せかけて、落ちなければならない。

 お義父様とうさまのシナリオはこうだ。わたしは王子様と仲が良い──お義父様とうさまの中では、だ。実際は全然そんなことはない。

 エフェリーセ様は王子様とご婚約なされている。だから、わたしと王子様の仲の良さに嫉妬したエフェリーセ様が、わたしを邪魔に思って階段から思わず突き落としてしまう。

 わたしはそのときに、とっさにエフェリーセ様のリボンを掴む。そのリボンが証拠になる。

 いろいろと破綻している気がするし、何もかもが無茶だと思う。でも、男爵家に閉じ込められている母さんのことを思うと、わたしにやらないという選択肢はない。


「失礼いたします」


 踊り場ですれ違いざま、わたしがそう声をかければエフェリーセ様は足を止めて振り返った。

 わたしは手を伸ばして、その見事な銀色の髪に結ばれた紫色のリボンを掴んで引っ張る。その銀色の髪も引っ張ってしまったらしい。エフェリーセ様が小さく顔をしかめる。

 リボンを握り締めれば、わたしの指に細い銀色の髪が二筋絡んでいた。ごめんなさい、と心の中で謝る。

 そしてわたしは、踊り場から身を躍らせた。その瞬間見えたエフェリーセ様は、心配そうな表情をしていた。その表情で、わたしをじっと見ていた。

 どうしてエフェリーセ様がそんな表情をするんだろう、と思ったのは一瞬のこと。

 次にはもう、自分の体が落ちてゆく感覚に、落ちたら痛いだろうな、嫌だな、という気持ちで頭がいっぱいになっていた。

 痛みに耐えようと目をつむって、奥歯を噛みしめた。


「おっと」


 床に落ちた衝撃はなく、わたしの体は柔らかく受け止められた。

 目を開けると、王子様が困ったようにわたしを見下ろしているのが見えた。わたしの体は、王子様といつも一緒にいる生徒に抱えられていた。

 この生徒は、生徒として学園に通っているけど、実際は王子様の護衛役だったはずだ。


「あ、えっと……」


 何を言わないといけないのか、とっさに出てこない。こんなだから、わたしはいつも失敗するんだ。焦れば焦るほど、言葉は出てこなかった。


「大丈夫か?」


 王子様に問われて、わたしはこくこくと頷いた。


「立てるなら立て」


 わたしを抱えている生徒の言葉に、わたしは慌てて立ち上がって、それから「ありがとうございます」とお辞儀をする。


「気を付けなさい」


 王子様の言葉に、わたしは自分の役目を思い出す。


「あ、ち、違うんです!」


 歩き始めようとしていた王子様が、足を止めて不思議そうに目を細めた。なんと言わないといけなかったのか、お義父様とうさまが手紙に書いた言葉を思い出す。


「あの、わたし、その、エフェリーセ様が」

「エフェリーセが……?」

「階段でエフェリーセ様とすれ違って、そしたら突然突き飛ばされて」


 そう言って踊り場を指差したけれど、そこには誰もいなかった。

 王子様の眉が訝しげに寄せられる。護衛の生徒が王子様に何か耳打ちしたけれど、王子様は片手でそれを制した。


「ほ、本当にエフェリーセ様だったんです。とっさに掴んだエフェリーセ様のリボンが……」


 そう言って握り締めていた手のひらを開いた。そこには、何か植物の葉っぱと、エフェリーセ様の銀髪には程遠い、茶色い短い動物のもののような毛が何本かあるだけだった。

 王子様は、小さく息を吐いてから口を開いた。


「エフェリーセは、今日は公務で学園には来ていない。だからきっと君の勘違いだ。そうだね」


 口調は優しげだけど、その言葉には有無を言わせない迫力があった。わたしは混乱したまま、それに頷いた。


「きっと、階段から落ちて混乱していたんだろう、君は。だから今の言葉は聞かなかったことにする。でも、二度はないからね」


 わたしはもう一度頷いた。そして頭を深く下げて、階段を登る王子様とその護衛の生徒を見送った。

 わたしはさっき確かにエフェリーセ様とすれ違った。そして、そのリボンを掴んだはずだ。でも、エフェリーセ様は今日は学園にはいないという。

 まるでわけがわからなかった。




 自分の部屋に戻ってもまだ、ぼんやりとしていた。

 わたしの手には、葉っぱと短い毛がまだある。これがあるということは、あの踊り場で何かはあったのだ。でも、何があったのかがわからない。

 エフェリーセ様とすれ違ったという自分の記憶すら、なんだか頼りなく、自信がなくなってゆく。

 部屋のドアが開く。ああ、まただ、鍵をかけたはずなのに。それともぼんやりしていたわたしは、本当に鍵をかけ忘れたんだろうか。


「アンネ、大丈夫だった!? 怪我はない!?」


 ソフィーが部屋に駆け込んでくる。わたしはまだぼんやりとしたまま、それに頷きを返した。


「良かった、アンネが無事で。怪我でもしたらどうしようって、わたし心配してたんだから」


 ほっとした顔をして、ソフィーがわたしの体を抱き締める。その体温にほっとする。ほっとしたら、涙が出てきた。


「でも……でも、母さんがどうなるか、わたし失敗しちゃったから」

「あのね、こんなやり方、成功するわけないでしょ。それはアンネだってわかってるよね?」


 ソフィーがわたしの体を離して、わたしの肩を掴んでわたしの顔を覗き込む。


「だけど……わたし、お義父様とうさまの言う通りにしないと……でないと、母さんが」

「アンネ、落ち着いて。よく聞いて。あなたのお母様は、もう男爵家にいない。男爵家から離れて、今は隠れてるけど無事にしている」

「そんな気休め言わないで」


 わたしは大きく首を振った。ソフィーがわたしの肩を強く揺さぶる。


「気休めじゃない。あなたはお母様に会いに行ける」


 ソフィーの表情は、真剣だった。嘘を言っているようには見えない。

 でも、信じられない。ソフィーのまっすぐな視線に、信じられない自分を責められているように感じてしまって、うつむいてしまう。

 小さな沈黙の後、ソフィーが急に言い出した。


「ねえ、あなたのところに手紙を持ってくる使用人て、こんな顔じゃなかった?」


 何を言っているのかと顔をあげれば、そこにいてわたしの肩を掴んでいるのはソフィーじゃなかった。いつもの、あの若い男の人だった。少し垂れ目の、優しげな顔の。


「それから、あなたがさっき踊り場ですれ違ったエフェリーセ様はこんな顔」


 若い男の人が軽く頭を振ると、ふわり、と銀色の髪が広がった。そして次の瞬間、そこにいたのは確かにエフェリーセ様だった。

 エフェリーセ様の白い手が、葉っぱを握り締めているわたしの手に触れる。


「開いてみて」


 言われてその手を開けば、そこにはエフェリーセ様の紫色のリボンがあった。


「どういうこと……?」


 エフェリーセ様は頭を振った。広がった銀色の髪が茶色に染まって、そしてソフィーのいつものそばかす顔がにっこりと笑う。


「ずっと騙していてごめん。でも、アンネをなんとか助けたくて。男爵家のことは、あとは王子様がなんとかしてくれる。あなたの手紙はその証拠として使われる。あなたのお母様はわたしが助けた」

「どうして?」


 ソフィーはちょっと悩むように髪をかきあげて、それからまた頭を振った。その体が縮んで、今度は人じゃなくて、不思議な生き物の姿になった。その姿を見て、わたしは「あ」と声をあげた。


「昔、あんたに怪我の手当をしてもらって、食べ物をもらった。覚えているか?」


 最初は犬に似ている気がしたけど、見れば見るほど、犬とはずいぶん違う気がする。じゃあなんの動物かと言われてもわからない、不思議な姿。

 けれど、その姿を見て思い出した。まだ男爵家の養女になる少し前のことだ。こんな姿の生き物を見付けて、傷を洗って、それから食べ物をあげた。


「俺は、ムジナという生き物……いや、妖怪っていうか」

「ムジナ? ヨカイ?」

「ああ、いや、名前はどうでも良いんだ。その、俺は、もともとは日本ってところで暮らしてて、なんだか突然この世界にやってきて、途方に暮れていて……そこを助けてくれたのが、アンネ、あんただ」


 そう言って、その生き物は頭を振った。体が膨らんで、男の人の姿になる。少し垂れ目の、優しそうな顔の。

 その人は、優しそうな顔のまま、わたしの手を取った。


「俺は普通の生き物じゃなくて、こうやって姿を変えることができる。その力を使って、どうやったらあんたに恩返しできるか考えてた。それで、男爵家に潜り込んだり、あんたの友達になったり、あとは誰かの姿を借りたりとか、まあ、いろいろ」

「ごめんなさい、あなたの言うこと、よくわからないんだけど……?」

「わからなくても良い。ともかく、あんたのお母さんは助け出した。男爵家のことはもう気にする必要はない。あんたはもう自由だ。だから、お母さんに会いに行こう」

「母さんに会える、の?」


 目の前の男の人は、ソフィーに似た笑顔でにっこり笑った。それでもわたしは、なんだかまだぽかんとしていただけだった。




 ムジナを名乗るその人の言うことは、全部本当だった。わたしは学園を出て、元の通りにお母さんと暮らすようになった。

 ホーフ男爵家はお取り潰しになったと噂で聞いたけど、庶民のわたしたちにはもう関係のないことだ。

 それから、ムジナさんはどうやら、どこにも行くあてがないらしい。故郷にはもう帰れないのだと言っていた。それで今は、わたしたちと一緒に暮らしている。

 本当の名前はダンシチさんというらしい。なんだか変な名前だ。

 垂れ目の若い男の人の姿が、きっとダンシチさんの本当の姿なんじゃないかと思う。わたしたちの前ではいつもその姿だし、本人も「この姿が一番楽だ」と言っていた。




「結局また世話になってしまって……恩返ししないといけないことが増えた」


 お皿を拭きながら、ダンシチさんがそんなふうにぼやく。


「もうじゅうぶん助けてもらってるけどな。それに、お金も稼いでもらって、生活費だって足りてるし」


 わたしの言葉に、ダンシチさんはお皿を拭く手を止めてわたしの顔をじっと見た。そして、垂れ目を優しそうに細めて笑う。


「あんたがそうやって笑えるようになって良かった。学園にいた頃は、ずっと怯えた顔をしてたから」


 わたしは瞬きをして、お皿を置くと自分の顔に触れた。自分では笑ってるかどうかなんて、ずっと気にしていなかったから。


「そうやって、あんたがずっと笑っていられるようにする。それが俺の恩返しだ」


 そのダンシチさんの表情を見て、ソフィーもときどきこんな顔をしてたな、なんて思い出した。

 わたしはずっとこの人に助けてもらっていたんだ。そう思ったら、自然と笑っていたし、言葉も勝手に出てきた。


「ありがとう、ダンシチさん。あなたがいてくれて、良かった」

「俺もありがとう。あんたのおかげで、俺は助かったんだ」


 そうやって、お互いに顔を見合わせて笑い合った。




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