自分はこの作者様の作品・神慈悲シリーズのファンだ。神慈悲を読みに戻ろうとカクヨムに久々にログインしたのだが、寄り道に、神慈悲ではない別の、それでいて短い作品を読んでから、という気になった。それでこの小説を手にとったのだが失敗した。完全に迷子だ。読み終えた後も、この小説の冒頭に戻ってしまうのだ。
物語は主人公「ぼく」が自慢の父親からパステル一式を贈られるところから始まる。時代はナチス一色の第二次世界大戦下ドイツ。絵を描く喜びに沸き上がる主人公だったが、ユダヤ人の使用人・ダヴィドが言う。それはもともとぼくのものなのだと。
絵を通して交わされる少年たちの交流を時代の波が呑み込んでいく、青春小説だ。
語り手「ぼく」は、心情をあまり語らない。彼の沸き立つ喜びと興奮と期待は、絵のモチーフ探しに奔走し――それこそ駆け回る彼の足音が消えて来そうな――さらに母親に薔薇を一輪手折らせたという出来事をもって語られる。
ダヴィドの母への想いは見なくても絵を描けること、才能を持つダヴィドへの嫉妬のような感情は絵と引き換えに灰色のパステルを使わす交渉を持ち出す行動に。
つまり空白の多い小説なのだ。モチーフを生かす余白を持った絵のように、書かれないことで語られる。語り手にとってダヴィドという存在が、胸のうちに大きな巣を作っていることが痛いくらいに迫ってくる。簡単にことばになどできるものか。ことばになんてできない。そこに感情がある限り。
語り手が書けないものは、書かれていない。自然に読み手はその書かれていない心に誘導されていく。
最初は灰色から始まった。それが、小さくなった三十四色へと広がっていく。それが最後には、彩度を失った世界へ落される――。
前後でネガとポジがひっくり返るような文章の持つ色彩の反転は、信じて疑わなかった戦前に全て裏切られた「ぼく」の体験を語らずに語る。あれだけ美しい色の洪水はすべて戦前という一色に染まっていた。だから戦後も、失ったあとの時代も一色しかない。
それでも、彼が最後まで手に留めたものを想えば、それは彼の少年への想いにつながっていく。愛おしさとこいしさが込められたたった一色で描かれたそれがどんなに鮮やかな色だったか。
「喪失」「愛」「憧れ」「光」――そんな簡単ではない。読後に読者を待ち受けているのは、彩度なき灰色が、印象的に、鮮明に、浮かぶ光景だ。心で読み取る一篇の小説なのだ。
だからこそ、まだ生きている彼がこのあと、この灰色の中をそれでも歩いていかなければならない、その後を想像して、だが想像できなくて、したくなくて、したくて。
ただ、弾むような足音はもう、聞こえてこない。画面に擦れる小さななパステルの音も、それはだいぶ遠くにいってしまった。パステルは脆く崩れやすい。