5. シンクロ

 僕はため息をつきながら、腰を下ろした。


 口をつけないままの目の前のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。ひとくち啜ってみると、香りから想像していた通りの、美味しいコーヒーだった。それを飲み干すと、おかわりとベークドチーズケーキを注文した。たぶん香澄さんも、ここでこうしてコーヒーか紅茶を飲んでいたんだろうな、と思った。それからあの夜の、香澄さんの優しい笑顔や、悲しげな笑みを思い浮かべた。ひとつひとつの会話や行動を思い起こした。僕にとっては、金沢の香澄さんは本物の香澄さんだったのだと思った。あの素晴らしい肉体の感触も、あの甲高かんだかあえぎ声も。それを思い出したら、ズボンの中のペニスが痛いほど硬く勃起ぼっきしていた。それはあの晩のことが本当だったことを証明しているように思えた。

「お、おおきさん?」

 僕は驚いて、股間を見つめていた顔を上げた。

 坂元さんが立っていた。

「ど、どうしたの? 忘れ物?」

 僕は慌てて立とうとしたが、股間のものが邪魔をして、うまく立ち上がれなかった。

「違うんです。わたしは今日は早番でもう上がりなので、もう少しお話しできたらと思いまして、急いで着替えて、戻って来たんです。まだいらして、よかった。あの、よろしいですか?」

「ああ、どうぞ、どうぞ。僕も今日は午後は休みにしてきたから大丈夫です」

「じゃあ、失礼します」

 坂元さんは分厚いウールのコートを脱ぎ、僕の正面にゆっくりと腰を下ろした。焦げ茶色のニットのワンピースにブーツを合わせている。肩までの黒い髪を指で後ろにすっと掃くと、白い耳に金色のイヤリングが下がっていた。

「あれ、それ」と僕は思わず声を上げた。「香澄さんも同じようなのをしてた」

 坂元さんはちょっと驚いた顔をしてから、これ? というようにイヤリングに軽く指を触れ、微笑んだ。ができることに今初めて気づいた。

「これ、香澄さんとお揃いで買ったものです。香澄さんはショートだから少し大きめので、わたしはセミロングだからちょっと小さめの」

「へえ、そうなんだ」

 僕はカバンの中のイアリングを出そうかと一瞬思ってやめた。僕にとっては香澄さんと会った、いわば証拠であるけれど、だけどあの日に会ったという証明にはならない。

 坂元さんはミルクティと、少し迷ってイチゴのショートケーキを注文した。

「あらためまして、わたしは坂元レナと申します。レナの〝レ〟は王偏に命令とかの令、〝ナ〟は神奈川県とか奈良県の奈です」

「こちらこそ、大木太郎です。松田さんは大学のテニスサークルの後輩になります。それで福本香澄さん、山野香澄さんは、埼玉県所沢市の狭山ヶ丘で、この場合、幼馴染おさななじみというのが適切かどうかはわからないですけど、まあそんな感じです」

「ということは、うちのCAとはずいぶんご縁があるんですね」

「そうなのかな。そういえば、坂元さんはグランドホステスって松田さんが言ってたけど、あれですよね、制服からすると、飛行機を誘導したり整備したりする人ではなく、空港でチケットを確認したり、荷物を預かってくれたり、案内したりしてくれる係ですよね」

「はい、そうです」

「そういえば、グランドホステスになった知り合いもいたな」

「え? 名前は?」

「本村いずみちゃんだったかな。彼女よりもお母さんの方が知り合いで、まあ何度か話したことがある程度だけど」

「うそ。いずみちゃん、ひとつ後輩です。えー、どれだけ知り合いがいるんですか!」

「そうだね。自分でも驚いている。なんか、青系の制服には思いのほか縁があるみたいだ。自分で選んで乗る時はかならずこっちを選ぶし。そういえば大学時代の友人の妹も客室乗務員になったはずだ」

「へえー」

 坂元さんは僕の顔をまじまじと見た。とても親しみのこもった微笑みを浮かべながら。

「香澄さんは大木さんを弟にしたかったみたいだし、わたしも香澄さんから妹のように可愛がってもらっていたし、なんかここまでくると、今日初めて会ったとは思えなくなってきた」

「そうだね。まるで隠されてきた秘密の兄妹みたいだ」

 ふふ、と坂元さんは声に出して笑った。またえくぼが浮かんだ。

「あ、そうだ、話というのは、実は松田さんや末広さんがいるところでは話しにくくて、さっきは言わなかったんです」

「というと?」

「あの、わたしのこと、変な女と思わないでくださいね。わたしもあんなこと、初めて経験したんですから」

「あんなこと?」

「なんというか、たぶん夢だったと思うんですけど、その割には妙に実感があって、しかも、その、ちょっとエッチな話なもので」

 そう言って、坂元さんは目を伏せ顔全体をあかく染めた。

「あの話す前にちょっと訊いてもいいですか。たぶん、答えにくい質問なんですけど」

「え? なに? いいよ、訊いてみて」

「あの、金沢で香澄さんと会った夜、食事をしてお酒を飲んだとおっしゃってましたけど、ほんとにそれだけですか?」

「え、どういうこと?」

 僕は内心、ドキッとしながら、平静を装った。

「はっきり言っちゃうと、大木さんは香澄さんと男女の関係になりませんでしたか? あのこれは怒っているとか、非難するとか、そういうことじゃないんです。もしそうだとすると、わたしの体験の解釈が変わってくるというか……」

「どういうこと?」

 かなりプライベートな内容なので迷ったが、坂元さんが真剣な思いで訊いていることははっきりとわかった。

「そうだね、まず正直に答えよう。そう、僕は香澄さんと寝た。セックスした。しかも、かなり濃密なセックスを二回した」

「そ、そうですか。しかも、二回?」

「うん。二回。濃密なのを二回」

「濃密なのを二回?」

「うん。なんか、言っていて、僕の方も顔が赤くなってきた」

「そうですか。時間は? 何時頃ですか?」

 坂元さんは至って真面目な顔だった。

「そうだなぁ、時計を見ていたわけじゃないからはっきりとはしないけど、寿司屋に行った後、九時頃にホテルの部屋に戻って、それからワインを飲みながら結構話をしていたから、たぶん十一時頃じゃないかな、一度目は。二度目はたぶん十二時過ぎとかそんなもんだったと思うけど」

「うわー」

 坂元さんが小さな叫び声をあげた。

「じゃあ、完全にシンクロしてる……」

「ど、どういうこと?」

「あの日、わたしは十時ごろベッドに入ったんです。そしてたぶん夢だったと思うんですけど、香澄さんが現れて、わたしにキスをしてきたんです。ふたりはベッドの縁に座って、抱き合っていて。夢の中のせいか、わたしは完全に香澄さんの行為を受け入れていて、それで、なんかそういうことになっていて、香澄さんがわたしの気持ちいいことをいっぱいしてくれて、だけど香澄さんはいつの間にか男性になっていて、でもそれでも香澄さんは香澄さんで、だけどはっきりと男の人が中に入ってくる感覚があって……こ、こんなこと素面しらふで話すことじゃないですね。すみません」

 坂元さんはで上がったような顔に申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「謝ることはないけど、確かに聞いている僕の方もちょっと困っちゃうな」

「どうしましょう?」

「せめて、どこか、場所を変える?」

「そうですね。そうさせてください」

 僕たちはモノレールに乗って浜松町に出て、まだ明るかったので、そこからさらに新宿に出た。その頃にはようやく日も暮れて、飲み屋もぼちぼち店を開け始めていた。

 個室のような席になっていて食事もできそうな店に入った。

 電車の中ではふたりとも口を開かなかった。店に入ってからも、お互いの自己紹介的にどんな仕事をしているのかとか、そんなできるだけ当たり障りのない話を続けた。坂元さんがビールは苦手だというので、赤ワインを頼んで、それから、サラダやらピザやらが運ばれてきて、少し口にしてから、ようやく話の続きが始まった。

「あの、わたし、レズビアンではないんです。たぶん、ですけど。女子校だったけど、そんな風に友達のことを見たことはなかったし。でも、香澄さんに対しては、ちょっとそういう感情を持っていたのかもしれません。宝塚の男役の人を好きになる感じだと思います。女性としても憧れていたし、人間としても尊敬していました。だから香澄さんがもし男性だったら、間違いなく異性として好きになっていたと思います。それに香澄さんは仕事中はちょっと男性的な感じだったし。プライベートの時は、むしろ女性らしい柔らかい感じでしたけど」

「うん、なんとなくわかる」

「はい。だから、あの夢のようなものは、ある種のわたし自身の願望だったのかもしれないと思っていました。あの頃はもう香澄さんの容態もかなり悪化していたから、覚悟していましたし、香澄さんのことばかり考えていました。あの日も、泣きながら眠りについたのだと思います」

 坂元さんは心から香澄さんのことを好きだったのだなと思うと、僕自身は香澄さんが亡くなったという実感はまだなかったけれど、胸が締め付けられる思いがした。

「それで、さきほど話したように、香澄さんに抱かれて、その、現実では体験したことがないにさらわれてしまったんです。そこで一度、目が覚めたのかなと思ったんですけど、普通に女性の香澄さんがわたしの横に寝ていました。ふたりとも裸で。以前、一度だけふたりで沖縄に遊びに行ったことがあって、ふたりとも部屋で酔っ払って、冗談で裸で同じベッドに寝たことがあって、でもその時は別に何もなくて、ただ酔っ払ったまま、話をして、そのまま寝ちゃって、朝になっていたというだけでした。その時のことを思い出しました。それでその日も、内容はよく憶えていないんですけどいろいろと話して、香澄さんはわたしの手を握りながら、玲奈れなのお陰でようやく新しい人生に踏み切れそうと言いました。それから、その、もう一度しよう、と香澄さんが言って、今度はどういうわけか、鏡の前に立たされて、香澄さんが後ろから抱きしめているんです。それで、また、その、もっとすごい波が来たんです。で、朝起きたら、ベッドがをしたような状態になっていてびっくりして、すぐに夢のことを思い出して、あれはなんだったんだろうと思いました。そんなはずないのに、肉体的にリアルな感触も残っていて。でも仕事に行かなければならなかったから、とにかく頭を現実に切り替えて、職場に行って、そしたら、朝のミーティングで香澄さんの訃報ふほうを知らされました。わたしはもう泣き崩れてしまって、上司もわたしが香澄さんと仲が良かったことを知っていたので、すぐに病院に行かせてくれました。それでその晩のことはずっと心の中に封印してきたんです。誰かに話すような内容でもないし」

 そこまで割と淡々と話をすると、坂元さんは唇を噛んで、悔しそうな顔をした。

「病院に駆けつけたら、香澄さんの夫が白々しく悲しい顔をしていました。それを見たら、わたしはむしろ涙をこらえることができました。それに、香澄さんはまるで笑うように亡くなっていて、お医者さんも不思議そうな顔をしていました。たぶんすごく痛くて苦しかったはずなのにって。まだほんの少しだけ回復する見込みがあったから、化学療法とか治療を続けていたんです。でも、大木さんの話を聞いて、香澄さんの表情の意味がわかりました。たぶん、本当に最後は幸せな気持ちで亡くなったんだろうなって」

「そうなんだ。じゃあ、僕は僕でちゃんと香澄さんの役に立てたってことかな?」

「はい。そう思います」

「うん、じゃあ、よかった」

「と、ところで、その、濃密な二回というのは、どんなのだったんですか?」

「え? それ?」

 僕はちょっと困った。だって、坂元さんの体験って、僕と香澄さんがしたのと同じような内容じゃないか。坂元さんに話して、気持ち悪いとか思われないか?

「あの、できれば、正直に話していただきたいんです。なんかあまりにもいろんなことが一致しているというか、整合性があるというか、あまりに不思議で」

「そうだよね。あのさ、正直に話そうと思うけど、気持ち悪いとか思わないでくれる? その、そういう可能性があるんだ」

「大丈夫です。もうなんとなく、想像はついているんです」

「え、どんな?」

「たぶん、大木さんの場合、わたしの役が香澄さんで、香澄さんの役が大木さんだったんじゃないですか?」

「そう、その通り……ごめんなさい、というのもこの場合、変かもしれないけど」

「そんな、謝るなんておかしいですよ。もし、大木さんじゃなくて、香澄さんの夫だったら、死ぬほどイヤですけど。たぶん香澄さんは本当に大木さんのことを好きだった、愛していたんだと思います。二十年以上も会っていなかったのに変だと思われるかもしれませんけど、香澄さんはそういう人なんです。だからこそ、たぶん最後に大木太郎さんのところに行ったのだと思います」

「そうか。ありがとう。そう言ってもらえると僕も嬉しい。元気な香澄さんに会えないのは残念だけど。だけど僕にはまだ香澄さんが亡くなったという実感がなくて」

「あの、よかったら、今度、狭山ヶ丘に連れて行ってくださいませんか? もちろんひとりでも行けるわけですけど、大木さんと一緒に行くことに意味があると思うんです。あ、それはわたしの勝手な考えですけど。でも、もしご迷惑でなければ、お願いできませんか?」

「うん、まあ、いいけど。でも、狭山ヶ丘って特になにもないところだよ。それは香澄さんの元の家とかくらいは案内することはできるけど」

「はい。それだけでも結構です」

「じゃあ、善は急げということで、今度の土曜日はどうかな」

「あ、わたし、土曜日は仕事で。すみません。でも日曜日なら大丈夫です」

「ああ、そうか、空港は年中無休だもんね。うん、いいよ。じゃあ、日曜日に狭山ヶ丘に一緒に行こう」

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