4. 連絡先

 月曜日になるのが待ち遠しかった。

 金沢で香澄さんの連絡先を聞き忘れていた僕は、勤め先の航空会社に連絡するしかなかったのだ。母親に訊けば、少なくとも香澄さんのお母さんの連絡先はわかるだろうが、姉のこともあったし、できればそれは避けたかった。

 月曜日の午前中、会社を出て記者クラブに向かう途中の公衆電話から航空会社の代表番号に電話をかけた。

「大木太郎と申します。客室乗務員の山野香澄さんに連絡を取りたいのですが、取り次いでいただけますでしょうか」

 僕はできるだけ丁寧に用件を伝えた。ところが対応は冷たいものだった。

――申し訳ございませんが、そういった個人的な連絡にはこちらでは対応しかねます。

 僕は少々うろたえた。でも考えてみれば当たり前のことだ。客室乗務員に連絡を取りたい男なんて山ほどいるはずなのだ。

「では、わたしの連絡先を申し上げますので、山野さんにお伝えいただけないでしょうか。それでわかると思いますので」

――申し訳ございませんが、そちらの方も出来兼できかねます。

「あの、これはナンパとかではなくて、山野さんとは幼馴染でして、先日、二週間前の火曜日の、金沢行きの最終便の機内で偶然再会しまして、それで連絡をするように言われていたのですが、肝心の連絡先をうっかり聞き忘れておりまして、そこでこちらの代表に電話している次第なのですが。あの、連絡先をお伝えいただけるだけで結構なのですが」

――そう申されましても、社内の規則でそういう取り次ぎはできないこととなっておりまして……。

 ナンパでないことは一応理解されたらしく、相手の言葉に若干申し訳ない感じが混じってきた。ただいずれにしても、取り次いでもらうのは無理のようだ。

 困った。その時、突然、大学時代のテニスサークルに、同じ航空会社の客室乗務員になった他大学の後輩がいたことを思い出した。確か国内線だったはずだし、彼女なら香澄さんのことを直接知っている可能性も高い。荷物をあされば、サークルの名簿がどこかにあるはずだ。ただそれも確証がない。この電話でなんとか糸口を見つけたいところだが、それも難しそうだ。僕は一か八かで、後輩の名前も出してみることにした。

「わかりました。無理を申しましてすみませんでした。今、同じ国内線の客室乗務員の松田奈津子さんが大学のテニスサークルの後輩だったことを思い出しましたので、松田さんに連絡してみます」

――……なにぶん、社内の規則で決まっておりまして、こちらこそお役に立てず申し訳ございません。

「いえ、そういうことなので仕方ありません。まずは松田さんに連絡をとってみます。失礼します。ありがとうございました」

 たぶんどうにもならないだろうが、香澄さんに迷惑をかけてもいけないし、失礼のないように電話を切った。

 サークル名簿が残っていたとしても、たぶんすぐには出てこないはずだ。それでも探すしかない。そう覚悟を決めながら、帰宅した。

「ただいま」

「あら、今日は早かったのね」と母親が顔を出す。

「ああ、うん。ちょっと家でやることがあって」

「そういえば、今日の午後、テニスサークルの後輩だという松田さんという女性から電話があったわよ。用件ははっきり言わなかったけど、なんとなく重要そうな感じだった。ほら、何年か前に、三つくらい上の先輩が亡くなったことがあったじゃない? そんなんじゃなければいいけどね」

「え、ああ、そう。連絡先は訊いてくれた?」

「ああ、ほら、これ」と言って、母はメモ用紙を手渡してくれた。

 渡りに船とはこのことだ。あのオペレーターがこっそり知らせてくれたのだろう。だけどなんで香澄さんじゃなくて松田さんの方なのだろう。いずれにせよ、松田さんに連絡してみればわかることだ。

 電話番号は、会社の社内部署と思われる03のものと、自宅の042からの二つの番号が書いてあった。午後七時なので、たぶん自宅の方が繋がる可能性が高いだろう。僕はコードを長くしてある固定電話を自分の部屋に持ち込んで早速電話をかけた。彼女の母親らしき女性が出たが、すぐに松田奈津子に代わってくれた。

――大木先輩、お久し振りです。お元気ですか? たぶん私たちの送別会でお会いしたのが最後ですよね。

「久し振り。確かそうだよね。もう三年くらいかな? 松田さんは元気? 久し振りなのに、なんか変なことをお願いしたみたいになちゃってすまないね」

――ああ、そのことなんですけど、もしよければ、お会いして直接お話ししたいんですけど。

「いや、そんな大事おおごとじゃなくて、松田さんがどこまで聞いているかしらないけど、ただ山野香澄さんとは幼馴染で、この間金沢行きの機内で偶然会って、連絡することになってたんだけど、間抜けなことに連絡先を聞き忘れちゃってさ」

――ああ、はい。たまたま電話に出た子がわたしの同期入社で、こっそり大木さんから電話があったことを教えてくれて、まだ手帳に大木さんの連絡先が残っていたので、ご自宅に連絡させていただいたんです。

「そうなんだ。ありがとう。まあ、だから山野さんに僕の家の電話番号を伝えてもらってもいいんだけど、ちょっと事情があって、できればこちらから山野さんに連絡を取りたいんだけど。それが無理だったら、会社の番号を教えるから、そこに連絡をくれるように伝えてもらえないかな。それとは別に、今度また、みんなで会おうよ」

 松田奈津子が僕に興味がないとは言い切れないけど、今はそれどころではない。とにかく香澄さんに報告をしたい。そして、難しいかもしれないけれど、できればもう一度会いたい。会って、顔を見て、報告がしたい。そして、香澄さんの喜んでくれる顔を見たい。

――あー、うーん、困ったな。こっちの方もちょっと説明がしにくいので、できれば直接お会いしたいんです。

「説明がしにくいって?」

――すみませんけど、電話ではこれ以上……明日の夕方、お時間取れませんか? それと、これもすみませんが、羽田空港の近くでお会いできれば助かるんですけど。

「うーん、そう? わかった。もともとこっちが無理なお願いをしてるわけだし、明日の夕方の何時ごろがいい?」

――大木さんの都合が合えば、夕方でなくても、午後三時以降ならいいです。

「わかった。じゃあ、十五時に待ち合わせよう。松田さんの都合のいい場所で」


 翌日、約束の一五分ほど前に指定された喫茶店に着くと、すでに松田奈津子は来ていた。しかも、他にふたりの同僚らしき女性が一緒だった。

 僕に気づいた松田さんが立ち上がると、もうふたりも立ち上がって、さすがと思える美しいお辞儀をした。三人とも制服を着ていたが、ひとりだけちょっと違う制服だった。

「すみません、わざわざ羽田まで来ていただいて」

「いや、全然。こっちの頼みごとだし。だけど、こちらの方は?」

「同じ制服のこちらが、国内線客室乗務員の末広で、こちらはグランドホステスの坂元さん。ちょっと関係があるので来てもらいました」

「え? 関係? 香澄さ……山野さんと親しいとか? え、山野さんはフライト?」

「コーヒーでいいですか? 大木さんはコーヒー派でしたよね?」

「ああ、ああ」

「すみません、コーヒーをひとつ追加してください!」

 松田さんが顔見知りらしい女性店員に頼んでくれる。

 それにしても三人ともやけに神妙な顔をしている。そうだ、きっと、先輩の香澄さんから、もう大木太郎には会いたくないから説得して来てくれない、とか頼まれたに違いない。

「あの、大木さんが山野先輩と会ったというのは先々週の火曜日でしたよね? そう伝言されたんですけど」

「そう。十一月二十四日の火曜日。水曜日の朝から取材があったから、火曜日の金沢行きの最終便に乗った。非常口の横の席で、離着陸時に向かい合って座っていたのが、香澄さんだったんだ。途中で身分証明書とかをぶちまけちゃってさ、香澄さんが拾うのを手伝ってくれて、それで僕がかつて所沢で近所だった大木太郎ということに気がついたんだ。でも、そんなに日にちが重要なの?」

 三人はますます緊張した面持ちで目を見合わせた。なんだ、この空気は?

「驚かないで聞いていただきたいんですけど、その日、香澄先輩はその便に乗っていないんです」

「え? そんなはず……」

「乗っていなかったどころか、香澄先輩、実は急性白血病で入院されていて、次の日、水曜日の早朝に息を引き取ったんです」

 松田さんも涙声になっていたが、グランドホステスの坂元さんは抑えた声で泣き出した。

「え、嘘だろう? だって、そのあと、二人で食事をして、お酒を飲んで……」

 さすがにそれ以上のことは言えない。水曜日の早朝ということは、香澄さんがちょうど部屋を出て行った頃だ。いや、でも、そんなはずはない。だって、香澄さんの実体はあった。いまだに抱きしめた感覚は残っている。返そうと思ってあのイアリングだって大切に鞄に入れてある。

「わたしはその便に乗務していました。松田さんから話を聞いて調べてみると、乗客の中に確かに大木さんのお名前がありました」

 末広さんが固い声で言った。

「じゃあ、僕の前に座っていた人は?」

「渡辺という別の乗務員です」と末広さんが答えた。

「わたしたちも香澄先輩にはとても親しくしていただいていたんです。坂元さんは職種は違いますけど、妹のように可愛がってもらっていたらしくて……」

 松田さんがそう言うと、坂元さんはうつむいたまま何度もうなずいた。

「か、香澄さん、ずっとご主人とのことで悩んでらして、ずっと体調も良くなくて、でもたぶんただのストレスだから大丈夫って言っていて、わたしもすごく心配したんですけど、香澄さん、すごい頑張り屋さんだから、無理をして……」

 坂元さんが涙交じりのかすれ声で説明してくれた。

「そうなの」

 僕は言葉を失った。だけどどういうことだ? まったく意味がわからない。

 確かに香澄さんは離婚を考えていたし、夫婦間のストレスも溜まっていた。でも僕が接した香澄さんは少なくとも肉体的には健康そうだった。肌だって、吸い付くように滑らかでしっとりとしていた。それに僕がくたくたになるほど元気に求めて来た。

「あの、ちょっと言いにくいんですけど」

 松田さんが躊躇ちゅうちょしながら言った。

「なに?」

「実は今回の件を上司に報告しましたら、大木さんに口外しないように頼んでくれないかと言われまして。会社としては変な噂が立つと困るとのことで」

「そうなんだ。まあ、別に誰に話す気もないけど。でも、松田さんたちはこのこと、どう思う?」

 三人はまた顔を見合わせた。でも最初よりはずっと穏やかな表情に思えた。

 松田さんが代表して口を開いた。

「わたしたち、この三人だけですけど、わたしたちは怖いというのではなく、むしろ聖なる出来事のように感じています。香澄先輩は本当にこの仕事が好きで、わたしたち後輩は仕事が嫌になっても、香澄先輩に相談して、みんな笑顔で飛び立っていくという感じでした。だから、最後の最後まで飛んでいたかったのではないかと思っています」

「つまり、僕が会ったのは香澄さんそのものではなく、香澄さんの霊のようなものと考えているってこと?」

「霊というよりは魂みたいなものに近い気がしています」

 松田さんがそう言うと、末広さんと坂元さんも頷いた。たぶん、この三人で、今日僕と会うに当たって、考えをまとめたのだろう。彼女たちにとってもなんらかの解釈が必要だったに違いない。

「そうだとしたら、僕との出会いは?」

「この仕事って、人との出会いもひとつの大きな魅力なんです。香澄先輩と大木さんとの出会いについてはもっと個人的なことのような気もしますけど、でもわたしも昔の友達と同じ便に乗り合わせたことがあります」

 坂元さんが顔を上げた。

「わたしは、香澄さんが所沢市の狭山ヶ丘というところに子供時代住んでいたことを聞いたことがあります。父親を亡くした悲しい場所ではあるけど、のびのび成長できた思い出の場所だったと言っていました」

「小学校の時に引っ越してしまった友達についてはなにか聞いてる?」

「さあ、どうだろう? あ、でも、近所の友達がアメリカ生まれの美少女で、その弟が子熊みたいに可愛くて、弟が欲しくてたまらなかったと聞いたことがあります。それって、もしかして、大木さんのことでしょうか?」

 子グマか。やっぱりペットのようだったのか? いや、違うだろう。たぶん本当に弟のように心配してくれたんだ。

「まあ、どう考えても僕のことみたいだ。僕はまだ二歳くらいだったから、ほとんど記憶にないんだけど」

「あの、金沢でお会いした香澄先輩はどんな感じでした?」と松田さんが訊いて来た。

「確かに夫婦の問題で悩んではいたけど、すごく元気そうだった。僕がついていけないくらい。お寿司も美味しそうに食べてたし」

「香澄先輩に連絡して、どうされる予定だったんですか? あの別に変な意味じゃなくて、香澄先輩がどうしたいと考えていたのかと思って。できればその思いを叶えて上げたくて。ね?」

 松田さんの言葉にほかの二人が頷いた。

「香澄さんは僕に弟のような親しみを持っていてくれたらしくて、あの晩、僕の人生相談みたいな話になったんだ。狭山ヶ丘時代が一番幸せだったみたいなことを言ったら、狭山ヶ丘に行ってみるべきだと強くすすめてくれたんだ。香澄さんは、僕があの場所に行って、あの場所に忘れて来た本当の自分を取り戻して来て欲しかったみたいだ。必ず行って、行ったら報告してと言われた。まあ香澄さんの性格で、ほとんど強制みたかったけどね」

 僕の言葉に、三人はようやく笑みをこぼした。たぶん後輩たちにも同じような感じだったのだろう。

「それでどうだったんですか? 行ったんですよね、その狭山ヶ丘というところに?」

「うん、土曜日に行って来た。それで、自分を取り戻して来た。見上げた太陽が、憶えていないはずだったのに、あそこに住んでいた二歳頃とまったく同じだったんだ。もちろん太陽だから同じなんだけど、なんていうか、あの場所でしかみられない太陽の表情があるというのか……もちろんそれは僕固有の見え方なんだろうけど。だから、少なくとも僕に関する香澄さんの願いは叶ったんじゃないかな。まあ最低限だろうけど」

「最低限というのは?」

 松田さんがわずかに首をかしげながら訊く。

「たぶんここからが人生の再スタートというか、取り戻した自分で僕らしい人生を歩んで欲しいということだったんだと思う」

「そうですか。香澄さんが最後に行ったのが大木さんのところというのが、わたしたちはちょっと悔しいんですけど、でも香澄さんらしいです。わたしたちは生きている間にたくさんのことをしていただいたし」

 松田さんは涙を溜めた目で小さく頷いた。末広さんは下唇を噛み締めていた。坂元さんは明るい瞳で僕を見た。

 末広さんが腕時計をちらっと見て、松田さんに目配せをした。松田さんが「じゃあ、わたしたちはそろそろ」と言いながら、立ち上がった。末広さんと坂元さんもそれに続いた。

 僕も立ち上がった。松田さんがさりげなく伝票を取ろうとしたので、僕はさっとそれを自分の方に引き寄せた。

「上司に言われたこともあるので、経費で落とせますから」

「いや、いいんだ。せめてこのくらい香澄さんの後輩さんたちにおごらせてよ」

 松田さんは微笑んで、「そういうことならごちそうになります。今日はありがとうございました」と言って、頭を下げた。もうふたりも後に続いた。

 三人は席のブースを出ると、綺麗に横に並んで、もう一度僕に向かってお辞儀をした。僕も不器用に頭を下げた。

 顔を上げた松田さんは、「じゃあ、また」と言って、昔のような笑顔を見せた。末広さんも微笑み、坂元さんはにこりとした。三人は美しく僕に背を向けると、麗しい後ろ姿を見せながら、きれいな足取りで店を出ていった。

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