3. 幸福な太陽の記憶

 香澄さんに導かれるまま、ゆっくり長く、愛し合った。久しぶりだったせいもあるようだが、経験の少ない僕でも香澄さんは満足してくれたようなので、ほっとした。しばらくして冷蔵庫の冷えたペットボトルを渡すと、香澄さんは体を起こし、美味しそうに喉を潤した。

「さっき太郎ちゃんはわたしのこと、突っ張っているのに可愛いとか言ってくれたけどさ、夫には可愛らしいところを見せられなかったんだよね。向こうはなんか、しっかりしているわたしみたいなのを求めてきててさ。わたしは相手が要求することにできるだけ応えようとしちゃうんだよね。一方で、結婚して一年くらいして仕事を辞めて家庭に入って欲しいと言われたんだけど、子供の頃から憧れて頑張ってなれた職業だから、そこは譲れなかったの」

「そうなんですか。でもそういうのって、結婚前に言わないとずるいですよね」

「そうだよね。夫はベンチャー企業の共同代表で、自由な感じの人だったから、そんなこと言うとは思わなかったの。ちょっと甘かったね。子供ができたら辞めると思っていたみたいけど、結局できなかったしね。わたしの身体のせいもあるんだろうけど」

「まあ、うちの親も最近別れましたから、離婚ってそんなに珍しいものじゃないんでしょうね」

「そうなんだ。太郎ちゃんもいろいろとかかえているね。おかげで、ようやくわたしも決断できそう。ありがとね」

「そんな。なんか姉がひどいことしちゃったし、かと言って、僕は香澄さんになにもできないし」

「君が責任を感じることはないよ。リサからはひどい扱いを受けてきたんだし。それにたぶん今までで一番良かったし」

「なにがですか?」

「セックス」

「僕はひとりしか知らないし、そんなことはないはずですよ」

「なんていうのかな、すごく相手のことを観察して、思いながらするんだろうね。たぶん技術じゃなくて、思いやりなんだろうなぁ。それから、このコも、とびっきり元気だったし」

 そう言って、香澄さんは僕の縮んだペニスに優しく触れた。

「いや、それは、香澄さんが無茶苦茶セクシーというか、そりゃ興奮しますよ、こんな綺麗な人にあんな可愛げのあるエッチな声出されたら……」

「ねえ、今度はさ、太郎ちゃんの思い通りにしてみてくれない?」

「え? いや、でも」

「もう、無理?」

「たぶん大丈夫とは思いますけど、僕の思い通りと言われても」

「だから、太郎ちゃんがわたしにこんな格好させたらムチャ興奮するとか、痛くないやつなら、いろいろわたしに命令していいから。さっきはわたしが太郎ちゃんにたくさんお願いしちゃったから。服のまましたいとか、下着を着けたまましたいとかでもいいし。でも制服だけは無理。制服は旦那も頼んできたけど、それだけはダメ」

 僕は布の使用量の少ない黒いレースの下着をもう一度着けてもらった。エレガントでセクシーな下着で美しさを一層引き立てられた女性に僕は興奮するのだ。香澄さんを洗面所の広い鏡の前に立たせ、後ろから抱きしめた。鏡に映った香澄さんはものすごくエロチックだった。そして、香澄さんの身体からだのいろいろなところを、でたり、こすったり、したり、軽くひねったり、接吻キスしたりしながら、香澄さんの美しく恥じらう表情の変化を楽しんだ。ほんとうに綺麗で可愛らしかった。旦那さんの心が離れていくなんて信じられなかった。僕は我慢ができなくなって、その場で立ったまま、後ろから香澄さんの中に入った。香澄さんが立っていられなくなると、舞台をベッドに戻して、もう一度交わった。

 モーニングコールの音で朝の七時に目を覚ました時には、もう香澄さんはいなかった。ヘッドボードの小さな棚に、香澄さんが途中で外した金色のイアリングが忘れてあった。服を着た香澄さんが僕の頰に優しくキスをして、小さく「太郎ちゃん、ありがとう」と言ってくれたことをぼんやりと憶えている。たぶん、午前三時半くらいだったのではないだろうか。でも完全に疲れ切っていた僕はまたすぐに眠りに引き戻されてしまったらしい。できれば朝食も部屋で一緒に食べたかったけれど、香澄さんには香澄さんの事情があるのだろう。そりゃ、同僚に僕の部屋から出て行くところを見られたりしたら気まずいだろうし、早くから空港に向かわなければならなかったのかもしれない。



 金沢から戻って二週後の土曜日、僕は池袋に出て、そこから西武線に乗って、狭山ヶ丘へと向かった。もう十二月に入っていて、改札を出ると、冷たい風が肌を刺した。駅前の本屋さんで所沢市の一枚ものの地図を買った。妙にお団子だんごが気になって、しょうゆ味のを二本食べた。

 駅からの道はたぶん当時に較べると商店がかなり増えたようだが、地図を片手に、香澄さんが書いてくれた住所を探して歩いて行くと、香澄さんの元の実家はすぐにわかった。二階建てだったと思っていた建物は平屋だったし、芝生の庭もそれほど広くなかった。でも香澄さんのお父さんが亡くなった後に訪れた家だと確信できた。その時の記憶がよみがえってきた。表札は「福本」ではなかったけれど、しっかりと造られた家屋はそのまま使われているようだった。家の大きさや敷地の広さが記憶と違うのは、たぶん四、五歳の僕はまだ小さく、相対的に大きく見えたのだろう。

 そこから先は手探りのはずだったのだが、かつての香澄さんの家から歩いて五分ほどで、本当に呆気あっけなく僕の記憶の始まった場所に辿り着いてしまった。似たような路地がいくつかあったが、その路地だと分かったのは、引越し後に訪れた時にこの場所に来た記憶が少し戻ったのと、一番奥の家の表札が家族の話に出ていた大山さんだったからだ。ただ、僕が住んでいた小さな家のあったはずのところには、二階建てのアパートが建っていた。


 その路地は、まだ舗装されておらず、砂利が敷いてあった。

 アパートの前に立って、ふと空を見上げた。

 薄く曇った空に、南中の太陽が、鈍く重い光を放っていた。

 太陽は、僕が、あの頃見上げていた太陽と、まったく同じものだった。

 どうしてだか、はっきりとわかった。

 僕は、あの頃の僕として、太陽を見上げていた。

 ここが、僕が、幸福な時代を過ごしていた、あの場所なんだ。

 それはもう、確信を超えて、事実だった。

 残念ながら、当時の記憶は、戻らなかった。

 でも、僕は、あの頃の僕を取り戻した。

 取り戻していた。

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