2. 狭山ケ丘の匂い

 ホテルに戻ったので、最上階のバーに行くのかと思い込んでいた僕は、エレベーターに乗ると最上階のボタンを押した。「太郎ちゃんの部屋、何階?」と訊かれたので、素直に「八階です」と答えた。すると、香澄さんは八階のボタンを押した。

「落ち着くし、太郎ちゃんの部屋でも」

「いや、でも」

「もしかして、彼女でも部屋に待たせてるとか?」

「いえいえ、僕に限ってそんなことはないですけど」

「じゃあ、いいじゃない」

 仕事で来ているのに、こんな大人っぽい綺麗な女性と、しかも人妻なのに、ホテルの部屋にふたりきりになるのはちょっとまずい気がした。

「大丈夫よ。押し倒したりしないから」

 エレベーターを降りながら、僕の心の中を見透かしたように香澄さんは言った。

「おいおい、出張でひとりなのにダブルなの? やっぱり彼女と待ち合わせていたとか」と、部屋に入るなり香澄さんは僕を小突く。

 なんか先が思いやられる。

「だから、そんな女性ひと、いないですから。知り合いがホテルの本社に勤めていて、頼んだら安くこの部屋を取ってくれたんですよ」

「へえ」と呟きながら、香澄さんは窓辺に行った。

「何を頼みます?」と香澄さんの背中に声を掛けると、「赤ワインと、それに合うチーズとか、おつまみ程度でいいわ。もうお腹は満足しているから」とすぐに答えが返ってきた。ワインの種類が多くて僕が四苦八苦していると、電話を代わってくれた。

 運んできた給仕とは顔見知りらしく、いつもありがとうと言って、送り出した。系列のホテルだから毎回利用しているのだろう。ということはたぶん同僚も泊まっているに違いない。

 ワインであらためて乾杯をした。僕は備え付けのデスクの椅子に、香澄さんはベッドに腰掛けている。

「ねえ、この話、もしかすると、君にとっても、あまり心地のいい話じゃないかもしれないよ。それでもいい?」

「え?」

「リサも関係してるから」

 そう言われるとますます聞かざるを得ない。

「はい」

「うん。じゃあ、話す。というか、なんか、太郎ちゃんにとっても聞いてもらいたい気分。むしろ、君以外、聞くべき人間はいないのかも」

 一杯目のワインを飲み干して、僕に二杯目をがせてから、香澄さんはおもむろに話を始めた。

「実は、わたし、いま、離婚を考えているの」

 いきなりヘビーな話が来た。

「なんでですか? それよりまず相手はどういう人で、どういう風に知り合って、結婚してどのくらいなんですか?」

「お、やっと、記者らしくなってきた」

「記者っていっても、一般紙の社会部とか週刊誌とかじゃなくて、業界新聞だから、あまりそんな人間臭い記事は書かないんですよ」

「ふぅん。ま、いいか。そうだね、まず簡単な事実から。結婚して三年目。二五歳で知り合って、半年で結婚。五歳年上」

「どういう形で?」

「君と同じように、機内で仕事中にナンパしてきた」

「な、なに言ってんですか。ナンパしたとしたら香澄さんの方じゃないですか」

「この場合、別にナンパじゃないでしょ。ただ昔の知り合いを食事に誘っただけ」

「ちゃんと否定しない上に、虚偽に近い説明ですよね、それ。昔の知り合いといっても、ほんと僕の方は、香澄さんのこと全然憶えていないんですから」

「ほんとに全然?」

「いや、もしかすると、漠然としたイメージはあるかもしれません。ただ、顔とかは全然。あ、でも、なんか、スポーティですらっとした感じだったかも」

「ほら、少しはおぼえてる」

「ほんとにそんな感じだったんですか?」

「そう。ショートカットで、陽に焼けてて、すらっとしてた。リサもスマートだったけど、色白で、漆黒のロングヘアだったもんね。脚も長くてね。リサは踊りのバレエで、わたしは小学校からスポーツのバレーボール。あんな辺鄙へんぴな土地にタイプの違う美少女ふたりだもんね、奇跡的だよ」

「たぶんそうだったんでしょうね」

「やっぱり、記憶が完全に消えちゃったわけじゃないんじゃないの?」

「でも、あとになって写真とか見たのかもしれないし」

「まあその可能性はあると思うけど、わたしはそうじゃないと思うな。だから、またあの場所に行ってみたら、きっと何かを思い出せるし、少しは過去を取り戻して前に進めるんじゃないかな?」

「その話ですか……もしかして、香澄さん、ほんとうに僕のことを弟のように思ってくれてます?」

「どうだろう? たぶん、ちがうな。昔知ってた子が元気ないのを見るのがちょっとつらいいのと、封印した過去を解き放てば、自分自身を取り戻して才能を発揮できるんじゃないかなとか思って」

「僕、辛そうですか? それに僕に何か才能があると思います?」

「今の仕事、あんまり楽しくないんでしょう? でも自分の興味とまったくかけ離れているわけではない。違う?」

「うわ、香澄さん、もしかして読心術とかできるんですか? 心の方の」

「どうだろう。確かに時々、他人の心の声がマンガの吹き出しみたいに見えているような気はする。夫の心が自分から離れて行っていったのもはっきりわかったしね」

「そうです、そっちの話ですよ。え? そういうのがはっきりわかっちゃうんですか? 浮気じゃなくて別の本気の女性ができてしまったとか?」

「順番としては、まず心が離れて、その隙間を別の女性が埋めたってところじゃないかな」

「あ、すみません、なんかズカズカと香澄さんの心に踏み込むようなこと訊いてしまって」

「それは気にしないで。わたしの方も誰かに話したかったんだから。むしろ太郎ちゃんは犠牲者ね」

「それはないですよ。僕はそういう話を聞くのは得意だから。そういえばなにかの小説で読んだことがあります。『誰にだって、誰かに話せば、心が楽になることがあるものだ。状況はなにも変わらないにしても。』って」

「へえ。まあそんなところかな。うん、ありがとう。そう言ってくれると、わたしも話しやすい」

「はい」

「太郎ちゃん、ほんと、いい子。やっぱり弟にしとくべきだったかな。いや、それとも今から愛人にするか」

「弟の方はともかく愛人とかやめてくださいよ」

いや? わたしみたいなの。これでも一応客室乗務員だし、いまだに結構モテるんだけど」

「いや、そういう意味じゃないです。今日だって香澄さんが向かいの席に座った時、ドキドキしていたんですから。それに今だって……」

「今だって?」

「こんな、ホテルの部屋で、ふたりきりだし」

「じゃあ、わたしとセックスしたい? 正直に答えて」

 ストレートすぎる質問をしながら、香澄さんは真剣な瞳で僕の目を見据えた。

「うーん、香澄さんが香澄さんでなければ、したいです。すごく魅力的な女性だなと思っていますから。話をしていて楽しいし、美人でスタイルもよくて、頭もよくて、表面的には突っ張っているようだけど可愛らしいところもあるし。それに」

 自分が香澄さんに対して何をしたいと思っているのか、心の中を覗き込んでみた。

「それに?」

「そうだなぁ、なんかほおっておけないというか、なぐさめてあげたいというか。すみません、上から目線で」

「ふぅん。でも、ま、可愛らしいとかはちょっと嬉しい。わたしがわたしでなければというのは?」

「それはまあ、姉の友達だし、人妻だし、あとはそうだなぁ、まあお互い仕事で来てるし……」

「なんだ、その程度のこと。知ってる? フランスじゃ出張の最中に行きずりの女と寝て、腹上死して、それでも労災が認められたんだって」

「そ、そうなんですか? すごいですね」

「それに人妻といっても、離婚寸前だしね。夫には別に本気の女がいるし、世間だって許してくれるよ。それから、リサはもう友達じゃないしね」

「え? 友達じゃないって? 姉との間に何かあったんですか?」

「それが今日の本題のふたつめ。どっちかというと、こっちが本題かな」

「そうなんだ……」

「どうする? 聞かなくてもいいよ」

「いや、聞きます。姉の事をほとんど知らないし、香澄さんの弟だったらよかったと本気で思い始めています。もしかすると、いままで姉と話した合計より長い時間話しているかもしれません。少なくとも時間と密度を掛け合わせたら、香澄さんの方が絶対大きい」

「ありがと。でもいまさら弟にはできないけどね」

「まあ、そうですよね。でも友達になら……そうか、姉と友達じゃなくなったっていうのに、僕がそういうのも変か」

「ありがとう。気持ちは受け取っておくよ」

「はい」

「実はさ、大学生の時、たまたま渋谷で再会したんだよね。お互い東京の大学だったから、会っても不思議じゃなかったし。君との再会の方がずっとレアだよね」

「そうですね。渋谷に行かない大学生の方が少ないくらいでしょうから。特に香澄さんとか姉とかセンスのいい組は渋谷方面ですよね。僕なんかは新宿とかが多かったけど」

「それで、その時、わたしは彼と一緒だったわけ。大学三年の時で、一年の時から付き合ってたから、卒業しても続いて、やがては結婚かなという感じがお互いに芽生えていたと思う。互いの実家にも何度も遊びに行ってたしね」

「まさか姉がその恋人を奪ったとか? 当然ながら僕は姉のそういうことをまったく知らないんです。特に大学時代、姉は一人暮らしをしていて、ほとんど顔を合わせることもなかったし」

 しばらくの間、香澄さんは僕をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「まあ、真剣な恋愛の末に奪われたのなら、わたしもまだすっきりしたんだけどね。喫茶店で、わたしがトイレに行った隙に連絡先を交換してて、すぐにできちゃったみたい。リサって踊りをずっとやっていたせいか、動きとか仕草に妙に色っぽいところがあるじゃない? それにミステリアスだし。彼の方が夢中になっちゃてさ、もうわたしは彼にとって邪魔者。でもほんの一ヶ月くらいで、彼はまるで廃人のようにボロボロになって戻って来た。でもわたしだって、どんなに謝罪されたって、そんな彼を受け入れられなかった。もう彼もわたしの知っている彼じゃなくなってたし。それからしばらくして彼は自分の運転する車で事故を起こして、死んじゃった。悪いことに、そのタイミングで彼の子供を妊娠していることがわかった。親にも相談できず、こっそりおろしたの。それが原因で妊娠しにくい身体からだになっちゃたみたい。最悪だよね」

 一気に話した香澄さんは無理に笑顔を作って、最後のワインを飲み干した。


「隣に行って、香澄さんのこと、抱きしめてもいいですか?」と、僕は思わず口にしていた。

 香澄さんは悲しげに微笑んで、小さくうなずいた。

 僕はベッドの香澄さんの左横に座って、ゆっくりと肩に手を回した。香澄さんは頭を僕の方に預けてきた。

「ねえ、両腕で抱きしめて」

 香澄さんが小さな声で言った。

 僕は言われた通りに抱きしめた。強く。香澄さんも僕に抱きついてきた。でも不思議と性的な感じはしなかった。人間の魂と人間の魂が強く抱き合う。そういう感じ。

「なんか、狭山ヶ丘の匂いがする。僕の、失われた、記憶」

「君も狭山ヶ丘の匂いがする。わたしの弟になり損なった男の匂い」

 香澄さんは泣かなかった。ただ何かにすがるようにじっと僕に抱きついていた。僕は少し力を緩め、そっと、包み込むように、香澄さんを抱き直した。

「わたしね、もうずっと泣いていないの。涙が枯れちゃったみたいに、砂漠の砂から水を搾り取ろうとしても無理にみたいに。悲しい気持ちがミイラになっちゃったみたいに」

 ふいに香澄さんが体を起こした。僕のことを見つめた。美しい大人の女性の悲しげな微笑み。

「太郎ちゃんに会えて、よかった」

「僕も香澄さんに会えて、よかったです」

「ねえ、今度は裸で抱きしめてくれる?」

「え?」

 僕が戸惑っていると、香澄さんは唇を押し付けてきた。そして、僕をベッドに押し倒した。

「ごめん。押し倒さないって言ったけど、撤回する。いい?」

 僕は、返事をする代わりに、香澄さんを優しく抱きよせて、唇を吸った。

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