武蔵野の雑木林。幸福な太陽の記憶。

百一 里優

1. 記憶の始まり

〝物心がつく〟という言葉を僕はずっと自分の記憶が始まった時のことだと誤解していた。そのせいか、今でもその言葉を聞くと、僕はあの場所から離れていく情景を想い出す。

 引越屋さんと父親に挟まれて、青くすすけたトラックのベンチシートの真ん中に座った僕は、薄汚れた後部窓のガラスを通して、荷台に低く積まれた家財道具の向こうに、電車組の母と姉、そして近所の人たちが手を振っているのを見た。小さな集落が土埃つちぼこりの向こうに消えていくのを見守った。

 どのくらいさかのぼれたのかは今となっては知りようもないが、その時点ではそれ以前の記憶をもちろんおぼえていたのだと思う。

 向き直って前を見た三歳かそこらの僕は思った。

 僕の幸福の時代はこれで終わるのだ、と。

 それが、今世における、僕の、記憶の、始まりだ。


 そこが埼玉県所沢市の狭山ヶ丘さやまがおかという場所であることを再認識したのはもう少し大きくなってからだ。茶畑が点在し、小学校に上がっていた三歳年上の姉は雑木林ぞうきばやしを抜けて通っていたというから、かなり長閑のどかなところだったようだ。近くには狭山湖をいだく森も控えている。〝トトロの森〟の近くと言えばイメージが湧く人もいるかもしれない。


 幼い僕の予感は当たっていた。

 引越先は千葉県にある父親の実家で、国鉄(現在のJR)で都心まで三〇分程度の、古くから住宅地の広がる東京のベッドタウンだった。森や草原で自由に暮らしていた動物が、動物園の檻の中に入れられたようなものだった。それに加えて、僕は、祖父母に対してまったく親しみを持てなかった。もしかすると、引越しの時に記憶が始まったのではなく、それ以前の幸福な記憶を僕自身が封印してしまったのかもしれない。

 しばらく待って入った私立の幼稚園(園長先生が画家だった)は僕の最後の楽園で、地元の公立小学校は苦痛でしかなく、中学から通った東京の私立の男子校では、楽しいと感じたことは何度かあったけれど、幸せだと感じたことは一度もなかった。

 大学生になって、それまで死んだように生きて来た僕は、僕自身を見失っていることに気が付いた。見た目はほどほどで、テニスも上手かったから、女の子からまったく相手にされないわけではなかった。大学のサークルやバイト先で出会ったとデートすることはあった。でも、恋人になることはなかった。自分を見失った僕は、心のどこかで、女の子と親しくなることをこばんでいたらしい。

 そんな僕だったから就職活動には見事に失敗し、大学卒業後はアルバイト生活を送ることになった。二年ほどして、さすがにまずいと思い、朝日新聞の求人広告欄で見つけた業界新聞を発行する小さな会社になんとか就職した。



 業界紙の記者を始めて一年半ほど経った一九九二年の晩秋のことだ。

 取材で金沢に行くことになった僕は、午前中からの仕事に備えて、前日の最終便で羽田から小松空港に飛んだ。

 非常口の横の、離着陸時に客室乗務員が向かい合って座る席だった。

 ふとした拍子にクレジットカードやら身分証やらを足元にぶちまけてしまった。離陸時に向かいに座った山野やまの香澄かすみさんという客室乗務員が拾うのを手伝ってくれた。

 最後に、通路に飛んだ記者証を渡してくれる時、一瞬それを凝視して、それからほのかに怪訝けげんな表情の浮かんだ瞳で僕を見て、ゆっくりと僕の手のひらに戻した。

 僕は違和感を感じた。

 記者という若干特殊な仕事かもしれないけど、スキャンダルを扱う派手な雑誌でもなければ、誰もが知る一般紙でもない、大抵の人は一生知ることもないであろう小さな業界紙の記者だ。記者証の写真はそれなりに普通に写っている。何か疑いをけられるようなことはないはずだ。

 着陸が近づいて、山野さんという同じ客室乗務員が向かいに座った。

 さっきのことが気になってちらっと視線を送る。すると、客室乗務員は微笑んでくれる。どうも職業上の義務的なものとは違う気がする。自意識過剰なのかなと思いながら、もう一度見る。しっかり視線を合わせてみる。今度は、はっきりとした笑顔だ。すると、向こうから話しかけてきた。

「あの、失礼ですが、お姉さんはいらっしゃいます?」

「は?」

 そりゃ、誰だって、客室乗務員から唐突に兄弟構成をたずねられたら驚く。

「えっと、リサさんというお姉さん……あ、もし違っていたらすみません、忘れてください」

 リサというのは、確かに僕の姉の名前だ。だけど、山野香澄という名前に覚えはなかった。父親を早くに亡くした所沢時代の姉の友達が〝かすみ〟だったが、苗字みょうじは福本だった。左手の薬指にリングをめているから結婚で苗字が変わった可能性は高い。しかし、まさかな。いずれにせよ顔はまったくおぼえていない。

「ええ、姉の名はリサですが」

「やっぱり! 大木リサちゃんの弟の太郎さんですよね、所沢でご近所だった。ごめんなさい、さっき、身分証のお名前とか生年月日とかがちらっと見えてしまったものですから、もしかしてと思って」

「じゃあ、あなたはカスミさん? あの、狭山ヶ丘の?」

「そう、そうなんです。憶えていてくださいました? でもびっくり、太郎ちゃんにこんなところで会うなんて!」

「すみません。僕は小さかったんで、福本さんのこと、ほとんど憶えていなくて。お名前はときどき家族で話に出たから知っているんですけど」

「でも少し大きくなって、父が亡くなった後に、お母様とリサと三人で来てくださいましたよね?」

「ええ。でも、憶えているのは大きな家とか芝生の庭とかシェパードとか、そんなことばかりで」

「そうですか……」

 香澄さんはちょっと残念そうな顔をすると、上着のポケットからメモ用紙を取り出して、何かを書き留めた。

「もしよかったら、リサちゃんに連絡ください、って伝えていただけます?」

 香澄さんは二つ折りにしたメモ用紙を僕に差し出した。

 普通に自宅の連絡先でも書いてあるのだろうと確認するつもりで開いてみて驚いた。

〝今日は金沢に泊まるので、

 もしお時間があれば、

 お食事でもいかがですか?〟

 宿泊先として航空会社の系列ホテルの名前が書いてあった。偶然僕も同じホテルだった。香澄さんを見ると、職業的な笑顔を浮かべ、小さくお辞儀をしてくれただけだった。

 記者クラブ仲間も来ているはずだが特に約束はない。人見知りだから少々気は重いけれど断る理由はないし、どんな女性なのか香澄さんに興味もあった。

 午後七時前にチェックインして、軽くシャワーを浴びてからフロントに電話した。香澄さんはまだだったので、伝言を頼んだ。

「同じホテルだったんだ! びっくりだね」

 内線電話をかけてくるなり、香澄さんは笑いながら言った。機内よりずっとフレンドリーだ。

「ええ。でもそれよりも、あなたがあの福本香澄さんだったなんて」

「普通、まずそっちか。どことなくリサに似ていたし、名前と生年月日を見て確信したの。ところで、食事どうする? 仕事柄、いろいろ知ってはいるけど?」

「僕は全然土地勘がないので、おまかせします」

「了解。じゃあ、一五分後にロビーで待ち合わせでいい?」

 香澄さんは近江町市場近くの高そうな寿司屋に連れて行ってくれた。ユニフォームから黒のタートルネックセーターとジーンズに着替えた香澄さんはまったく違う女性に見えた。薄めの化粧に、ショートな髪と少年っぽい顔立ちが大きな金色のイヤリングで強調されて、ハンサム・ウーマンという感じだ。

「こんな偶然、あるんだねー」

 ビールで乾杯すると、香澄さんが言った。

「僕は結構、全然関係ないところで昔の知り合いと偶然会ったりしますけど。どうもそういう体質らしいです」

「そうなの? でもわたしには結構驚いていたみたいけど?」

「それは、顔も知らなかったし、とっても綺麗なひとだったから」

「ずいぶん持ち上げてくれるんだ。もしかして、おごらせるつもり?」

「いえ、そういうつもりじゃ。僕が払います」

「冗談よ。でも、めてもらうのは好き」

 綺麗なんて、普通に言われ慣れている気がするが、黙っておいた。

「太郎ちゃんってさ、コロコロしてて、可愛かったよねー。わたしは兄弟がいなかったから、リサに『ちょうだいっ』て真剣にお願いしたこともあったんだよー」

「そうなんですか」

 ペットのように扱われていたような気もするが、欲しいと思われるだけましだ。

「僕はどうも姉からあまり好かれていないらしくて」

「不思議だった。こんなに可愛いのになんで嫌って……あ、ごめん。でも君も気づいているみたいだし、ほんとのことだから言っておくね。可愛かわいいより格好良い弟が欲しかった、って言ってた。あと自分に対抗心を燃やしてくるのが鬱陶うっとうしいとも言ってた。リサは君に『お姉ちゃん』ではなく『リサちゃん』って呼ばせてたでしょう。なんでだか知ってる?」

「姉はアメリカ生まれで二歳くらいまでだけどアメリカで育ったし、あとは僕をひとりの人間として見てくれているのだと好意的に解釈してましたけど」

 僕からしてみればまだ初対面同然なのに、いきなりデリケートな部分に入ってきたのでちょっと驚いた。でも妙な親しみと美しさで許せてしまう。

「さすが太郎ちゃん、全然違うよ。できるだけ自分の弟だと思われたくなかったんだよ。学校の友達とかには、近所の子とか、親戚の子とか言ってたんだから。わたしは口止めされてた。あのときに、リサの人間性に気づいてればなぁ」

「実は僕も大人になってから、ぼんやりと疑ってはいましたけど」

 香澄さんの最後の言葉が心に引っかかったが、質問にされた。

「太郎ちゃんはここへは仕事で?」

 ここへ来た理由と仕事の内容を簡単に説明した。それから、香澄さんに引き出されるままに、これまでの人生を結構長く話すことになってしまった。僕自身も、あの場所を知る誰かに、あの場所に対する思いを聞いてもらいたかったのかもしれない。

「結局は、あの狭山ヶ丘の時代が、僕の人生の唯一の幸福な時代だったみたいです。誰にも干渉されず、誰の目も気にせず、ただ自然の中で自由に遊んでいたあのころが」

「ふぅん。まあ、あの辺りは、自然って言っても、当時からかなり人の手は入っていたけどね。二次的な自然っていうの? そういう感じだったよね」

「正直、ほとんど憶えていないんですけどね。あそこから引っ越すときが、僕の記憶の始まりだから」

「へえ。じゃあ、太郎ちゃんの記憶の始まりにわたしも入っているんだ。わたしも太郎ちゃんとお父さんがトラックで出発するところを見送ったから」

 僕はカウンター席の左横に座る香澄さんの横顔をまじまじと見た。この人が、僕の記憶の始まりの一部なんて、なんか不思議だった。ほんの二、三時間前までは見ず知らずの他人も同然だったのに、こうして寿司を食べながら、ビールを飲んでいるなんて。

「太郎ちゃん、人生、こじらせちゃったんだ?」

「ですね。もう、あの頃に戻りようもないんですけど」

「太郎ちゃん、一度、あの場所に行ってみたら? わたしの実家の住所を教えるから。といっても、もう、うちも引っ越しちゃったけど。近所だからきっと君の家のあった場所もすぐわかるよ。そうだよ、絶対、行ったほうがいいって」

 香澄さんは小さなバッグからメモ用紙とボールペンを出して、記憶を確認するようにしばらく上を向いてから、住所を書いてくれた。

行ってね? そして、行ったら報告をして? いい?」

「は、はい」

 なぜ香澄さんがこんなにになっているのか、わからなかった。もしかすると本当の弟のことのように心配してくれているのかもしれない。

「まあ、わたしも他人ひとのことは言えないけど、ね」

 香澄さんが呟くように言った。

「え?」

 僕はちょっと驚いて香澄さんを見た。特に問題もなく、順調な人生を歩んでいるように見えていたから。美人で、高嶺の花の客室乗務員で、頭も良さそうだし、明るいし。

「香澄さんも、人生を拗らせているんですか?」

 香澄さんは僕を見てから、カウンター内の照明に向けて、ゆっくりと左手をかざした。左手には指輪をしていなかった。

「香澄さんは結婚されているんですよね?」

「なんで?」

「苗字も変わっているし、それに機内では指輪をしていたような気がしたんですけど」

「ああ、あれね。部屋を出る時、はずしてきた」

「そうなんですか」

「理由、かないの?」

「なんで、ですか?」

 香澄さんはフッと笑いをこぼし、僕の方を向いた。

「ねえ、場所を変えて、もう少し飲む?」

 その瞳は力強く何かを訴えかけていて、ちょっと悲しげで、断るわけにはいかなそうだった。

 香澄さんは手慣れた仕草で店員さんを呼んで、さっとクレジットカードを渡した。僕はさえぎろうとしたけれど、「じゃあ、次のところでごちそうして」と軽くなされてしまった。

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