告白


 それからの数日間、信乃は陽生と会うことができないまま、客人として宮殿で過ごしていた。


 今、陽生は国王の仕事が山積みになっているのだと言う。


 幸か不幸か、宝積は興味のない業務を放置していたようでそのが回ってきているのだと、丹生に説明された。顔を合わせるなら食事のときしかないと言われたが、信乃は断って、客間でひとり食事をとっている。

 大人数の場ではゆっくりと話もできないし、見た目の違う自分は確実に目立つだろう。


 ……というのは理由のひとつで、どんな顔をしていいのか分からなかったから。


(勢いとはいえ、陽生さまの額に口づけしてしまった……)


 そして思い出す度にどうしていいか分からなくなり、客室内をひたすら歩き回るのだった。

 白を基調とした部屋は、雨ツ国の館の大広間よりも広い。流石、陽ノ国の要人宿泊用だ。


 こん、こん。


「はーい」


 侍女が来てくれたのだろうか。信乃は扉を勢いよく押した。

 そして、見事に固まる。


「久しぶり」


 目の前に立っていたのは、前髪を下ろして、前にも見たことのある長い丈の服を着ている陽生だった。


 ばんっ!


 反射的に信乃は扉を閉めた。そしてくるりと回り扉にもたれかかる。


「えっ? えっ?」


 向こうからうろたえる陽生の声。


「陽生さま、お仕事で忙しいのではっ」

「猛烈に働いてようやく半日だけ休みを取れたんだ。ということで開けてくれないかな……」

「ちょっと待ってください」


 信乃は両頬を手ではたく。


(平常心。平常心!)


 それからゆっくりと扉を開け直した。

 少し痩せただろうか。

 苦笑いを浮かべた陽生が、右手を軽く挙げている。


「似合ってる。かわいい」

「……ありがとうございます」


 信乃は平常心という単語を脳内に大きく浮かべて答えた。


「明日で大祭が終わってしまうから、街へ出かけてみないか?」

「いいんですか? 変装したりしなくて、ふつうに」

「おれは元々、こういう恰好でふつうに街を歩いていたんだ。何を今さら、っていう話さ」


 第二王子と国王という立場では違うのでは、と信乃は思ったが、黙っておくことにする。



 街にはさまざまな色の提灯がいたるところにぶら下がっている。昼間だから灯りはついていないものの、太陽の光を透かして鮮やかに街を彩っている。

 薔薇の飾りはひとつもなく、代わりに飾られているのは時計草の飾りだ。


(そうだ)


「陽生さま、行きたいところがあるんですが、いいですか?」

「もちろん」


 信乃は賑わいを見せる饅頭屋の前まで陽生を連れていき、そこで気づく。


「しまった……変装道具を持ってきていなかったんでした……」


 饅頭屋で働いたときは水ノ国の人間を装っていた。そのままの姿で店を尋ねるのは説明が難しそうだ。

 信乃は肩を落とす。


(せっかく饅頭を食べてもらいたかったのに)


「なるほど。ここが、信乃の世話になった店か」


 察した陽生が、すたすたと店内へ入って行く。すると女将の楽しそうな声が外まで聞こえてきた。


「はい。即位おめでとうございます、っておまけしてもらった」


 両手にたくさんの饅頭の箱を持って戻ってくる。

 白い紙は巻かれていない。薔薇の印は結果として無駄に終わったが、それでよかった。

 陽生が饅頭をひとつ信乃に手渡してきた。


「あ、ありがとうございます」


 通りすがる人々は陽生に気づくと、うれしそうに話しかけてくる。やっぱり華衣より王族だ、と皆が口々に言うので、言葉通り陽生が市井に溶け込んで生きてきたのがよくわかった。


「美味い。たくさんあるし、ひとたちへの差し入れにしようか」


 のんびりと、饅頭を頬張りながら歩く。


「あれ? 細い道は、こっちじゃないのでは?」


 知らない道に入りこんでいたので、信乃が疑問符を浮かべた。


「実はあれは裏道だったんだ。ちゃんと幅のある道もある」

「えっ」

「あれは丹生たちを納得させる為。信乃が、ちゃんと街を歩いたかの証明」


(納得させる為に、か)


 計画前なら文句のひとつも出たが、今となっては、陽生も含めて丹生たちが信乃のことを計画に含めたくないと考えていたのだと分かる。

 人間の死ぬ場面を、見せたくなかったのだと。


 信乃はちらりと隣を歩く陽生を見上げた。

 饅頭を食べながら鼻歌を歌っている。冷たさも怖さもない、知り合って少し経った頃と同じ穏やかな雰囲気。


 しかし、信乃の見てきたどんな陽生も、まぎれもなく本物なのだろう。


「見えてきた、見えてきた」


 陽生が饅頭を食べ終わった手で指差した先。

 見慣れた草むらが視界に入ってくる。


「おーい! 仁ー!」


 陽生が叫ぶ。すると外で遊んでいた数人の子どもたちが駆け寄ってきた。


「はい、お土産。皆で分けるんだぞ」

「ありがとうございます!」


 きゃっきゃっとはしゃいでいる。

 そのなかで、仁がじっと信乃を見上げてきた。信乃がしゃがんで、目線を合わせる。

 ぎゅっ、と仁が信乃を抱きしめた。

 慌てたのは信乃ではなく陽生の方だ。


「こらこら、信乃が困るだろう?」


 仁を引きはがす声がうわずっている。

 すると物言わぬ少年は、信乃の頬に口づけて、走り去った。


「かわいいですね、仁くん。最初に会ったときも、陽ノ国の愛の言葉を囁いてくれたんですよ」


『わたしの朱ノ鳥の瞳が、あなただけを映し、翼が、あなただけを守りますように』


 そのおかげで陽生を引き戻すことができた、と信乃は思っているので、呑気に笑った。

 陽生が右手でこめかみを押さえる。


「……? 陽生さま?」


 信乃が立ちあがって陽生を見上げると、口元を手で抑えて震えていた。


「……あいつめ、いつの間に」

「そんな。子どもに本気で」


 ぷっ、と信乃が吹き出すと、突然陽生が信乃の左手を掴んだ。


「こっち」

「ひゃっ?」


 そしてすたすたと歩いて行く。


「ここは」

 月夜に会話した川辺へ辿り着く。

 明るく開けた場所に、ふたりだけ。


 陽生は信乃の手を離して、体ごと信乃に向けた。


「信乃」

「は、はい」


 急にあらたまった陽生に驚いて、信乃も陽生に向き合う。


「きみには感謝してもしきれないくらいたくさんのものを貰った。現実に引き戻してくれた。すべてに、心から感謝している」

「いえ、そんな……。感謝したいのはこちらの方です」


 暗殺の場で、信乃は、図らずも陽生の姿を自らの母親と重ねてしまったのだ。

 あのとき。

 陽生を助けることで己の内にかたまっていた重たい感情を溶かすことができた。未だにあの感情の名前は分からないままではあるものの、ようやく胸のつかえが取れたような思いでいる。


「……」


 視線が合い、なんとなく気まずくなってふたりとも地面を見る。

 それがなんだかおかしくなって信乃が笑うと陽生も笑った。


「信乃。すべてを取り戻したら、ちゃんと説明するといったことを、果たさせてほしい」


 陽生は、信乃を見つめている。

 柘榴色の瞳にはしっかりと信乃が映っている。


「いつも自分の居場所はここじゃないという違和感がつきまとっていたけれど、初めて知ったんだ。誰かの心のなかに、自分の居場所をつくりたいという感情を」


 風が吹く。


「きみが好きだ。叶うなら、ずっと傍にいてほしいと思っている」


 心地よい風が、ふたりをそっと撫でていく。


「わ、わたしも……」


 声が自らの心臓の音にかき消されてしまいそうだ、と信乃は思う。


「陽生さまが、好きです」


 答え終わると同時に信乃の瞳から雫が一筋滑り落ちた。

 慌てるも、次から次へと涙が溢れてくる。


「あ、あれ? どうして泣けてくるんでしょう……うれしいのに……あれ……」


 陽生はそんな信乃を見てようやく緊張が和らいだかのように口角を上げた。


「信乃。抱きしめてもいい?」

「まっ、前に訊かずに抱きしめてきたときだってあったじゃないです、か!」


 すると陽生は両手を伸ばして、そっと信乃を抱きしめた。信乃も、辿々しく腕を陽生の背中に回す。


(陽生さまも、どきどきしている?)


 陽生の心臓の近くに信乃の頭がある。どちらの鼓動が速いのか。


 信乃が見上げると少し照れくさそうにしている陽生の顔が合った。


「じゃあ、もうひとつ」


 今度は。

 何も訊かず、陽生は己の唇を信乃のそれに重ねる。


 信乃は驚きのあまり涙が止まる。

 真っ赤になりながら震えていると、陽生が嬉しそうに笑う。


「かわいい」


 そして信乃の返事を待たずに口づけた。

 柔らかく、ふたりのからだも影も重なり合う。


「ごめん、我慢できなくなった」


 ぱくぱくと口を動かす涙目の信乃。顔は真っ赤に染まったまま。


 陽生は吹っ切れたように、今度は涙の跡を唇でなぞりはじめた。

 信乃が諦めたように瞳を閉じると、最後は再び、唇に。


 体の奥底から、陽生へ対する愛しさが湧いてきて。


 全身へと、広がっていく。


(体の隅々まで、どきどきしてる)


 最初よりも長い口づけの後、お互いに瞳を潤ませているのを見合う。

 陽生が、告げる。


「……わたしの朱ノ鳥の瞳が、あなただけを映し、翼が、あなただけを守りますように」


 陽ノ国の、愛の言葉。

 さらにもう一回。


 あまく、


 痺れていく。


(く、くらくら、する)


 信乃にはもはや立っているのが精一杯だった。

 陽生から離れたらその場に崩れてしまいそうだ。

 それが分かっているのかいないのかは定かではないが、陽生は信乃を離そうとしない。


 ぽすっ、と信乃は陽生の胸に頭をぶつける。


「げ、げんかい、です」

「ごめんごめん。ちょっと抑えられなくなった」

「ちょっと……?」


 相当、ではないか。信乃はそう言いたい気持ちを抑えて、潤む瞳で陽生を見上げる。

 からだはまだ預けたまま。耳に届く陽生の鼓動は、信乃のものと揃っていた。


 かなりの長い間、ふたりは抱きしめ合っていた。


 ようやく落ち着いた信乃は身を離す。

 そこにはうれしそうにはにかむ陽生の顔が、変わらずにあった。


「そうだ。もうひとつ大事な話があったんだった」


 陽生が懐から手紙を取り出した。

 受け取ると、見慣れた筆跡が信乃の目に飛びこんでくる。


「……! これは……!」


 明らかに、兄、信音のぶとの書いた文字。

 信乃は震えながら封を開ける。


『信乃へ


 元気にしているか?

 陽ノ国の内乱の顛末は聞いた。

 情報を相手方に流した結果、かえって危険な目に遭わせてしまったことをきっと怒っているだろう。しかし僕には信乃を守る為に動ける精一杯だった。

 許してくれなくてかまわない。

 ただ、国じゅうの皆が君を想っているのは事実だということだけは、心のどこかに留めておいてほしい。

 陽生にも申し訳ないことをしたと思う。


 まもなく爺さまから首長の位を譲られることが正式に決まったので、国として謝罪も含めて陽ノ国へ訪れたいと別の手紙に綴った。規模は違えど、お互いの国が今後も発展していくように願っている。


 昔と今は違う。


 僕は、皆は。

 信乃が帰ってくることをいつまでも待っている。

 ただ、信乃が幸せでいることを、いちばんに願っているよ。

 きみは僕の最愛の妹だ。


 信音』


 昔と今は違う。それは、ふたりの両親のことを指しているのだろうか。

 雨ツ国から出て行くことを許されず処刑された父と、処刑した母。


 感情を縛ってきた、国の掟。


 ……方法は異なっても、兄妹は両親への想いをようやく昇華できたのだ。


「……兄さま……!」


 先ほどとは違う大粒の涙が信乃から溢れる。


 嗚咽が、漏れる。

 そんな信乃の涙が収まるまで、陽生は、ずっと頭を撫でてくれた……。

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