運命は導く

 宝積ほづみ郁李いくり亡骸なきがらの傍らに座っていた。

 もう冷たくかたまっているだろう愛娘の手をぎゅっと握っている。


「絶対に許してなるものか、生きてここから帰すものか。爪の一枚、睫毛の一本とて逃がしはせぬ。殺せ! いちばん深い傷を負わせた者には報奨金を倍にしてやる! 死んだら切り刻んで海に棄ててやる! 殺せ! 殺せ殺せ殺せ!」


 支離滅裂に、ひたすらに憎悪を叫んでいる。


 しかし陽生と丹生は圧倒的に強かった。

 陽生は向かってくる敵をぎりぎりのところでひらりと躱して背後から斬る。郁李の護衛と闘ったときとの違いは、気絶させるのではなくて、命を奪っていること。倒れた者を蹴りあげて武器に使っていること。

 ……命を奪うことに躊躇いがなくなっている。

 背後から肩を切りつけられてもまったく動じずに、すぐさま振り返りその手首を勢いよく掴むと投げ飛ばし、地面に叩きつけられたところをひと突きする。

 表情はすっかり抜け落ちたままだ。


 丹生はそんな陽生にできるだけ敵を近づけさせないように、……殺させないように先に気絶させていた。


「畜生が! どいつもこいつも役立たずめ! こうなったら皆殺しにしてやる!」


 宝積が郁李の服から漁るようにして棒状の香を取り出す。

 火打ち石で香に火をつけようとするも、手が震えてうまく使えない。


「どうして、どうして火がつかない。ついてくれ、頼む、おおお……」


 そんな宝積を信乃が止めにいこうとしたときだった。


 あっという間に敵を全滅させた血まみれの陽生と、丹生が、宝積を囲む。

 ……ぽろりと宝積の手から香と石が落ちた。


「あひ……」


 陽生の足元にすがりつくように、穂積が勢いよく土下座する。

 涙、鼻水、体の穴という穴から液体が漏れている。


「頼む、他の者はどうでもいい。儂だけは見逃してやってくれ。なんでもする。なんでもするから命だけは! 義理の父だろう?!」


 丹生は宝積の背後から服を掴み、無理やりに立ちあがらせた。

 あれほど居丈高だった男の顔は自らの液体でぐちゃぐちゃに塗れ、歯はがちがちと音を鳴らしている。

 強制的に陽生と向かい合わされた宝積の耳元で丹生が低く強く囁いた。


「義理の父だから助けろと? ほざくな。貴様も言っていただろう? 妻を殺したのが、目の前におわす御方だ」


 静かな大広間に水音が聞こえた。信乃のいるところからは見えないが、どうやら宝積が失禁したようだった。


 信乃は両手を組み合わせる。

 息が苦しい。だけど目を閉じては、逸らしてはいけない。見届けなければならない。


 ぱっと丹生が宝積から手を離す。己の刀で背後から斬りつける。前のめりに宝積が倒れかかる。

 陽生が刀で。

 一切の躊躇いなく。


 ――宝積の首を、刎ねた。


 刀を収め、丹生が片膝をつく。


「お見事でございました」


 陽生は天井を見上げて、ぽつりと呟いた。


「……ほんとうは何ひとつ失いたくなかったんだ」


 すとん、と両膝を床につけて、うなだれる。


 信乃も上座から降りて陽生たちのもとへ駆け寄ろうとする。


「!」


 女性たちを逃がしておいて正解だった。こんなものを見たら、眠れなくなってしまうだろう。


 中心に近づけば近づくほど、血生臭さが鼻をついた。

 血の海の所為だけではない。

 陽生もだが、丹生も返り血を浴びているのだ。


「陽生さま、丹生さま。まずはその血を洗い流しませ……」


 提案しようとして信乃は言葉を失う。

 陽生の瞳に、まったく光がないのだ。


(……これは!)


 抜け落ちたままの表情。光のない瞳。

 何も映していない、この状態を、信乃は長く深く知っている……。

 唐突に今までと違う理由で。

 動悸が、速くなる。


(似ている……似すぎている)


 地下牢で眠り続け、時折意識を取り戻す自らの母親。

 正気と狂気を頻繁に移ろい、まともに会話が成立するのは年に数回程度だった。


(このままだと、母さまと同じ道を辿ってしまう)


 突然、信乃の目の前が真っ暗になったような気がした。

 信乃の母親も、父親を処刑して数年は正気を保っていた。真実は分からないが、少なくとも信音のぶとや信乃の目の前では、それまでと何も変わらない穏やかな母親だった。

 長い時間をかけて、ちょっとずつ、壊れていったのだ。気づいたときには手遅れだった。

 だから。

 信乃には助けることができなかった。


 唐突に湧きあがるのは後悔。

 陽生と母親を重ね合わせて、信乃は呼び覚まされた内なる感情をようやく理解する。


「呪い……」


 信乃は、陽生の言葉を思い出す。


『おれは、許されてはいけないんだ』


 信乃にはまるで、母が言っているように、聞こえてしまった。

 また繰り返さなければならないのか?


 たいせつな人間が。

 望まぬ人殺しの末に心を壊す結末を。


 そして、ようやく悟る。


 もしも運命というものが存在するのなら。

 己がここにいる意味は、今、この瞬間の為なのだと。


(させない……! 母と同じ道を辿らせはしない!)


 黙り込んだ信乃に、丹生が眉をひそめる。


「……信乃さま?」

「ありがとうございます、丹生さま。わたしをここまで連れてきてくださって」


 丹生が眉をひそめる。

 いいのだ。これは、信乃にしか分からないことだし、分からなくていいこと。

 ここにいる意味。

 ようやく、繋がったのだ。


 信乃は、いちばん大きな雨晶を取り出した。なかで雨が揺れる、『癒雨ゆう』。

 途絶えてしまった父親の家系は代々『雨薬』の加工士をしていたという。


(わたしのなかに、癒やしの力があるのなら。ううん。あってほしい、あるんだと、願う)


 右手に雨刀をしっかりと握りしめ。

 左手の上に雨晶を置いて。


 しゅっ。


 信乃が雨刀で雨晶を横に切る。

 なかの液体が渦を巻きながら上へ昇っていき――


 さぁ……。


 解毒したときと同じように、やさしく、雨となって降りてくる……。


「返り血が……」


 丹生が感嘆を漏らす。

 陽生と丹生が浴び、すっかり乾いていた返り血が洗い流されていく。生臭さも消えていく。


 あらためて信乃は陽生の前に立つ。


「陽生さま」


 陽生が膝をついているおかげで身長差がほとんどなくなっていた。

 信乃は陽生にそっと両手を伸ばして、腕を掴む。


「……わたしの朱ノ鳥の瞳が、あなただけを映し、翼が、あなただけを守りますように……」


 そして、きれいになった額へそっと口づけた。


「……」


 緩やかに。


 瞳へ。


 光が、戻ってくる。


 信乃の姿が柘榴色に映り、ゆらりと揺れた。陽生が、ゆっくりと立ちあがる。


 瞳に溜まった涙を拭って、信乃は何事もなかったかのように努めて微笑んだ。


「おかえりなさいませ」

「……ただいま」

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