最後の敵
(……初めから、こうするつもりで)
信乃には自らの心臓の音がやけに大きく聞こえていた。
(いつも、そうだ。わたしには大事なことが隠されてばかりだ)
信乃は自らを抱きしめるように両腕を交差させる。
いつの間にか全身が小刻みに震えている。歯の奥までもががちがちと鳴り、足を動かすこともままならない。
むせ返るような血のにおいと、おびただしい血の海が鮮明に五感を刺激してくる。
気を抜くと、意識がどこかへ飛んでしまいそうだ。
陽生のことが、恐ろしくなっていた。
初対面での笑顔に抱いた違和感。あれは、国に害を成す存在は容赦なく切り捨てることができるという彼の本質に、冷徹さに、心の底では気づいていたからかもしれない。
陽生は一切の血を拭おうとせず、事切れた郁李を抱きかかえて、立ちあがった。
視線は郁李に固定されているままだ。
「そうだよな。おれは、許されてはいけないんだ」
あんなに豊かだった表情がすっかりと抜け落ちている。
そのまま陽生は郁李の亡骸を抱えて、緩慢な動きで通路の奥へと消えていく。
血の跡を、延々と残しながら。
……誰も、一言も発しなかったし、動くことすらできなかった。
国じゅうに歓迎された夫婦の結末を。
ただただ、見ているだけしかできなかった。
……そして信乃もまだ動けないでいる。
丹生が、信乃の目の前に立つ。
「この期に及んで、あなたはまだ甘いことを考えていませんか」
三白眼は少しも動じていない。この惨状に、一切、動揺していない。
計画の全貌を知っていたから、実行されても驚くことなんて何ひとつないのだろう。
「奪われた国を取り戻すというのは、血が流れるということのなのです。しかし、主は少しでも流れる血を少なくしようと尽力しました。その結果がこれです。唯一の誤算は、主が、自分で思っている以上にお優しいということだけ」
「や、優しい……?」
信乃はようやく声を発することが、体を動かすことができた。
丹生と信乃の思い描く陽生像は、今でさえ違うというのか。
「あのような遺言を受け取ってしまうなど、お優しい以外に表現のしようがありません。あれは誤算でした。言霊というのは呪いなのです」
それを丹生は呪いと言い放った。
「このまま。呪いにかけられたまま、玉座を取り戻してはいけません。主には未来を見ていただかないと……決して、許されないなんてことはないというのに……」
初めて丹生の眉が下がるのを、悔しそうに吐き捨てるのを、信乃は見た。
「あなたと主は、未来の話をしていたでしょう」
陽生の言葉が脳裏に蘇った途端、自然と、信乃の頬をひとすじの涙が滑り落ちた。
『すべて奪還した後に、きちんと説明させてほしい』
未来の話。
「今のあなたは自分のことばかり考えています。主に対して恐怖心を抱き、己の感情に迷っている。あれは主の王子としての側面にすぎません。何故、一面で物事を判断しようとするのです」
「……一面……」
不意に、信乃のなかに光が蘇る。
人魚の鱗の、輝きを。
雨晶の、煌めきを。
様々な角度から眺めれば眺めるほど、光は多種多様なよろこびを与えてくれた。
それが最初だった。
――何の?
あのひとに、心の一部が、囚われてから。
故郷を捨ててまで。
どうしてここまでついてきたのか。
信乃は震えて動けないでいた体の隅々までを意識する。指先まで感覚が戻ってきたことを、確かめる。
(大丈夫。動ける。動く)
そして、すっと顔を上げた。足に力を込める。落ちたままの鞘を拾う。
「陽生さまのところに、連れていってください」
「ようやく調子を取り戻したな、この間抜けめ」
「……一言余計です」
初めてのくだけた口調に、信乃は苦笑いで返す。
(わたしには、ほんとうの意味で覚悟が足りなかった)
「全速力で追いかければ間に合うでしょう。こちらです」
雨刀を収める。前を、向く。
きゅっと口を結び、信乃は、引きずられてできた血の跡を丹生と共に追いかける。
「ここを曲がれば謁見の間です」
「はい」
信乃と丹生は扉の開いている謁見の間に突入して、立ち止まる。
かつて婚礼の儀に使われた大広間と同じくらい広く、天井が高い。両脇に飾りの彫刻柱がずらりと立ち、さらに左右の壁には朱ノ鳥の物語とおぼしき絵が、絵巻の如く描かれていた。
三段上の上座には玉座があり、今、そこに立って呆然と立ち尽くしているのは
床には割れて飛び散ったグラスと、零したであろう酒でびしゃびしゃになっている。
周りには薄い布を纏ったのみの美しい女性が
――何故か。理由は明白である。
玉座へと伸びる朱い絨毯の途中に立っているのが。
郁李の亡骸を抱えた、おびただしい量の血を浴びたままの陽生だから。
丹生が左腕を伸ばして信乃を制する。まずは見守れ、ということなのだろう。
いつでも飛び出せるように信乃は雨刀の柄に手をかけて構えておく。
ゆっくりと陽生がしゃがみ、郁李の亡骸を絨毯の上にそっと置いた。
それから右膝をつき、己の両手を組む。
「……陽生、貴様、己の妻を殺したというのか……?」
ようやく宝積が口を開く。
「なんという無慈悲な! 貴様は王座の為なら平気で愛する者の命を奪える、冷徹な人間だ。否、人間ですらない。この畜生め!」
「勘違いするな」
ぞっとするような冷たい声。
場を支配する恐ろしい威圧。
ゆらりと陽生が立ちあがり、朱を抜き放つ。
「父上を、兄上を殺したのはどこの誰だ。おれは夫として責任を取ったまでだ。そして、そもそも、玉座を貴様に明け渡した覚えはない。盗っ人猛々しい輩に仁義を説教される覚えはない」
「笑止。貴様の生死が不明なら、王族に嫁いだ愛娘を持っている儂が王位を継承するのが妥当だろう。儂が貴様の代わりに国を守ってやっていたのだ、感謝するがいい」
「民を放っておいて、酒池肉林に興じるのが国を守ることか?」
「口答えの多い蝿め。本来ならば貴様の死体を肴に、華々しく大祭を迎えるつもりでおったのに。しかたないが、ここで蝿のかたちが残らぬまでに叩き潰せばいいだけのことよ!」
どこからともなく兵が現れ、陽生を取り囲む。その数、二十人ほど。
丹生が小さく信乃に耳打ちした。
「走れますね?」
信乃は頷く。
「愛娘の仇! 国賊を捕らえよ、生死は構わぬ!」
宝積の咆吼を合図に兵たちが陽生に襲いかかる。
信乃はそこには加勢しない。向かうのは、担うのは、女性たちの元だ。幸いにも宝積は陽生への怒りでいっぱいになっているようで上座へ跳んできた信乃に気づかない。
比較的正気を保っている女性の背後からちょん、と肩をつつき、声を出さないように人差し指を立ててみせた。すると女性たちが頷いてくれる。気絶している者のからだを揺すって起こした。
小声で信乃は問いかける。
「……あの集団のなかを通らずにここから脱出することはできますか?」
「は、はい。玉座の下に、いざというときの抜け道があります」
三人がかりで動かすと、たしかに穴が空いていて階段が続いていた。
「よかった。すぐにここから逃げて安全な場所へ避難してください」
女性たちは頷いて、順番に階段へ消えた。
全員を逃がして信乃は大きく息を吐き出した。これで、彼女たちはこれ以上の惨劇を目撃することはないだろう。
上座ですっと信乃は立ちあがる。
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