愛は呪いに

 丹生が信乃の頭を上からがっと掴んで姿勢を下げさせた。

 しかしそれも無意味。細い棒から、ありえない勢いで煙が吹き出した。一気に廊下が煙と薔薇の香りで満たされる。


 気絶している男たちが急に首を抑えてうめき始める。

 両手で口元を抑えながら、信乃もようやく理解する。


(毒……?)


「この毒使いの郁李、陽生さまに敬意を表して致死性の高い毒を用意させていただきました。薔薇の香りをつけてある、お気に入りです」


 妖艶な微笑みに、信乃の背筋が粟立つ。


 郁李の真の武器は、長槍ではなく、毒。

 つまり暗殺に用いられたのも、植物園で研究されていたものも、毒なのだ。


 しかし、陽生は平然と立ったままだ。


「……お忘れですか。陽生さまは、第二王子。幼少の頃より、たいていの毒には慣らされているのです。しかし、問題はそこじゃない」


 丹生の唇も紫色になって体が震え始めていた。冷や汗が額に滲んでいる。


「郁李さまが、我々の命を盾にとることができる、ということなのです」


 微笑みの理由は、それか。

 信乃の背筋が粟立つ。


 郁李が懐から紫色の液体が揺れる小瓶を取り出した。


「さぁ、陽生さま。彼らの命を助けたければ、すべての武器を捨て去ってくださいませ」


 陽生が振り返って、苦しそうにしている警備隊と丹生を見る。

 そして信乃とも視線が合った。

 陽生の眉をつり上げた険しい表情――おそらくそれは彼の本質でもあるのだろう。

 信乃は息を呑む。そこで、気づいてしまった。


(わたし……苦しくない!?)


 状況に威圧されているだけだったのだ。何故だろう、と理由を思い巡らせて、ひとつの仮定に気づく。

 胸元の辺りの空気が、やけに軽いのだ。

 視線を下げると、そこは液体入りの雨晶あまきら癒雨ゆうを提げている部分だった。


(もしかして、雨晶の……雨薬の効果……?)


 瀬名の推測は当たっていたということのなのだろうか。

 信乃のつくる雨晶は。


 癒やしの力を、持っている。


 陽生はまだ信乃を見ている。寧ろ、何故無事なのだ、と瞳が問うているようだった。

 故に、唇を、動かした。


 ――わたしに任せてください、と。


 陽生は言葉を受け取り、小さく頷いた。


「さぁ、陽生さま。心は決まりましたか?」


 郁李の声が響く。

 隣にいる丹生の顔色はどんどん悪くなっている。

 すっと、信乃は立ちあがってみせた。

 郁李の顔が驚きに染まる。


「何故、ふつうの人間がこのなかで立ちあがれるのですか……!?」

「さて、どうしてでしょう。だけどわたしにとってあなたの毒はちっともこわくなんかないんです。郁李さま。今度はわたしの反撃する番です……その後に解毒薬をいただきます!」


 信乃は腰に提げていた袋から、いちばん大きな雨晶を取り出した。

 なかに液体の揺れている『癒雨ゆう』。父から受け継いだ新しい雨晶。


 郁李が長槍を構え直す。


「あなたに、これが、避けられますかっ!」


 思いきり振りかぶって――信乃は、雨晶を投げた。


「笑止! 近づくことすらできないでしょう!」


 郁李が槍を振る。刃の先端が雨晶に当たり、衝撃で……弾けた。


 ぱんっ!


 液体が――雨が、降る。降り注ぐ。きらきらと、煌めきながら。


 ……霧が、晴れていく。


「これでおしまいですか? 随分と舐められたものですわ」

「はい。だって、あなたへの攻撃を目的としていませんから」

「なんですって……?」


 目的は、解毒なのだから。

 狙い通り、倒れていた丹生や警備隊たちがゆっくりと起き上がる。


「あれ……? 体が……?」

「苦しくないぞ」


 単純な衝撃では雨晶を壊すことはできない。しかし、敵意を持った力でなら可能なのではないだろうか。


 そもそもなかの『雨』を雨薬として治癒に用いる為の、『癒雨』である。

 文字通り役割を果たしてくれた。

 解毒薬を郁李から奪わなくても、信乃が持っていたのだ。


(父上……ありがとうございます……)


 そして命を救われた警備隊たちは、もはや信乃たちの敵ではない。

 まだ仕組みの分からず動揺している郁李を前に、全員が立ち向かうかたちとなる。


 信乃は声を張り上げる。


「もうあなたの毒は効きません。負けを認めて、武器を捨てるのはあなたの方です。わたしたちの人質になってもらいます!」

「まだ……まだ、策はあります!」


 郁李が長槍を構え直す。


 そのとき。


 信乃は、信じられないものを。


 見た。


「きゃっ」


 すぱんっ!

 からからっ……。


 郁李は震えていたのだろう。長槍は陽生の蹴りによりあっけなく弾かれ、床に落ち滑っていく。

 長い睫毛に縁取られた柘榴色の瞳が大きく見開かれる。


「……」


 郁李の前に陽生が仁王立ちになる。

 そして。

 一切の躊躇いなく刀を振り上げ。

 袈裟懸けに斬る。


 ――ざしゅっ。


 視界に、朱い色が、鮮やかに激しく……飛び散った。


 郁李の右肩から左足にかけて。

 服が切り裂かれ。

 弾け飛ぶように血が噴き出て。

 ――そのまま崩れるように背中から倒れた。


「な……んで……」


 郁李妃は。

 人質にするのではなかったのか。


 信乃の心中を察するかのように丹生が冷たく切り捨てる。


「初めから郁李さまも暗殺対象でした」


 へなへなと信乃はその場にへたり込んだ。

 ふたりを視界に入れることはできるものの、見ることができない。


 陽生が、ゆっくりとしゃがむ。

 郁李の返り血で今や全身が真っ赤に染まっていた。しかしそれをまったく厭わずに、郁李の体をゆっくりと膝の上に載せる。

 婚姻関係にある、女性。

 たった今、斬り捨てた相手を。


 ひゅー、ひゅー、と小さな音が信乃の耳に届く。


 かろうじて郁李は息をしていた。

 わずかな力を振り絞っているのだろう。そっと、右の掌で陽生の頬に触れる。


「……あなたがわたくしの存在を少しでも瞳へ入れてくださるのなら、この計画を止めようと父へ進言するつもりでした」


 もうすぐ命の灯が尽きそうなのに、穏やかに微笑んでいる。

 夫へ語りかける言葉は、途切れ途切れでもはっきりとしていた。


「ですが、これはこれでよかったのかもしれません。お優しいあなたは死ぬまでわたくしのことをお忘れにならないでしょう?」


 信乃が雨薬を震えながら取り出そうとするのを、丹生が静かに制する。


「ここで郁李さまが生き延びれば、計画は失敗です。あなたは主を邪魔する為にここにいるのですか?」


 丹生の表情はこの場においても一切変わらない。

 そして正論でもあった。

 信乃はきつく唇を噛む。


 郁李が最期の力を振り絞ろうとしていた。


「……これは、わたくしからの、最後の、贈り物。愛という名の、『呪い』です。……わたくしの、朱ノ鳥の瞳が、あなただけを……」


 満足そうに告げるも、途中で途切れる言葉。

 郁李の掌が緩やかに滑り落ち、陽生の頬には血の跡だけが残る。

 こうして郁李は、短い生涯を終えた。

 愛する夫の膝の上で。

 おびただしい、血の海のなかで。


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