無事に、すべてを


 もう、真夜中だ。

 酒場の明かりも消えていて、街は昼間とは違う顔を見せていた。


「ありがとう、ひとくん」


 饅頭屋の前まで送ってくれた仁に、信乃は目線を合わせて礼をする。

 ひとりで帰ると言ったものの陽生だけでなく丹生にまで反対されたので、仁に送ってもらうことになったのだ。相変わらず無口で無表情ではあるものの、先を行きつつも時々後ろを振り返ってくれる様はかわいらしかった。

 ふるふる、と仁は首を横に振った。

 そしてすぐに来た道を駆けて行く。

 信乃は仁の姿が見えなくなったのを確認して、こっそりと足音を立てないよう部屋に戻った。


「……」


 あらためてひとりになって、信乃は布団にあおむけになる。

 向日葵が月明かりを浴びている。


(陽生さま、上機嫌だったな)


 思い出した途端、恥ずかしくなって掛け布団を頭から被る。


(あんなことするなんて、説明したのと同じじゃないか)


 それは、つまり――?


 額に、そっと手を遣る。

 たしかに陽生は信乃の額に口づけたのだ。


 信じられない話だ。


 切なくて、くるしくて、うれしい。

 心はふわふわしているのに、体の感覚は敏感になっている。まるで水のなかにいるみたいだ。心地よさに身を預ける。


 誰かを好きになるというのはどういうことなのだろう、と信乃は思う。

 どういうきっかけで。どんな理由で。

 そして、想いがどんどん大きくなっていくのは、どうしてなのだろう。


 部屋いっぱいに感情が満ちても部屋が壊れることはない。

 ただ、心はふわふわして、どこをたゆたっているのか分からなくなりそうだ。

 信乃は両腕を上に向けて伸ばした。


(きらきらして、見える)


 自らの輪郭が、光っているようだ。

 月明かりを受けているからだろう。だけど、それだけではないような気もする。


(陽生さまを好きだと思う世界は、明るいんだ、きっと)



「えええ? お迎えが来たんだって?」

「そうなんです……。昨日の夜更けに。ここにいることは突き止めたから帰ってきなさいと使者に言われてしまって」


 朝ご飯を食べながら信乃はしゅんとうなだれてみせた。


「だけど今日いちにちここで働かせてくださいって強くお願いしたら納得してもらえたので、今日はめいっぱい働かせていただきます。宜しくお願いします」

「いいのかい?」

「元々大祭までというお話でしたから。仕事は全うしたいんです」

「ほんとによく働いてくれる子だねぇ」


 ここまでの会話はすべて信乃と女将によるものである。


「……迎えが来なければずっとうちにいてくれてもよかったのに」


 聞き慣れぬ声に信乃が驚くと、大将が眉をへの字にしていた。


「なーに言ってるんだい! 信乃には信乃の人生があるんだから!」


 ばしばしと女将が大将の背中を叩く。

 信乃は鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 たった数日でも離れがたい気持ちが生まれることを知る。


 そして、とにかく働き、働き、働いたその日の夜。


「お世話になりました! すみません、晩ご飯までいただいてしまって」

「当たり前じゃないか。はい、これが賃金だよ。受け取って」


 麻袋を差し出してきたのは大将。

 女将は朱い箱を渡してきた。信乃が彫った印が押されている。


「信乃。よかったらおうちの方に、うちの饅頭も食べてもらって」

「ありがとうございます。短い間でしたが、とても楽しかったです」

「達者で暮らすんだよ。おや? 後ろの方がお迎えかい?」

「え?」


 後ろを向くと、フードを深く被った人間が立っていた。


(ま、まさか……)


 ちらりと中を覗くと、不機嫌そうな丹生だった。早くしろ、と目が言っている。

 冷や汗が流れる。


「……そ、そうでした。では、わたしはこれでおいとまさせていただきます。明日、たくさんお饅頭が売れますように! またここに来たときには買いに来ますね!」

「ありがとう。元気でやるんだよ」


 すると、すたすたと丹生が歩き出すので、信乃は急いで追いかける。

 未だに信乃は丹生へ苦手意識が消えないのだ。


「あっ、あの、ありがとうございます、……丹生さま」


 背中に向かっておそるおそる声をかける。

 すると、ぴたりと丹生が立ち止まり、振り返った。

 三白眼が信乃を睨んでくる。


「ひとりにさせるのは心配だからという主の配慮です」

「それでも、ありがとうございます。だっていやでしたよね。陽生さまから離れなきゃいけないどころかわたしの迎えなんて」

「その通りです」


 丹生は淡々と答える。


「我が使命はあの方の盾となることです。他の誰かを守る為には存在していません。しかし一方で、許しがたいことではありますが今のあなたには主を守る為にもなる理由があります」

「え……」

「ただ、わたしにはあなたの思考はとうてい理解できません。すべてを捨てて故郷を飛び出してきたと言われたとき、無責任だと思いました。それは今でも変わりません」


 あらためて言われると、信乃は言葉に詰まる。


(だけど)


「理解できないって言うけれど、丹生さまもわたしも、陽生さまの為なら一直線に行動しちゃうところはそっくりですよね。だったら、それでよくありませんか? 共同戦線、みたいな感じで」


 虚を突かれたかのように丹生の動きが止まる。


「……ふん」


 丹生は再び踵を返した。


「好きにすればいいでしょう」


 そしてすたすたと歩き出す。


「ただし、よく覚えておいてください。あなたよりわたしの方が陽生さまを遙かにお慕いしているのです。生まれたときから、わたしはあの御方を守る為に存在しているのですから」


 駄目ではなかったようだ。

 信乃はこっそり安堵する。ちゃんと会話ができたのは、初めてかもしれない。


(いよいよ、明日だ)


 月と星によって照らされた明るい夜空を見上げる。


(無事にすべてを取り戻せますように……)

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