ふたりきりの時間
信乃たちはいつの間にか貧民街にやって来ていた。
昼間とは違う物々しい雰囲気に、信乃の背筋が粟立つ。
曲がりくねった道をしばらく行くと、子どもは急に立ち止まり信乃の左腕から手を離した。黙ったまま道の先を指差す。
「……!」
信乃は両手で口を押さえた。
目の前にあったのは、赤煉瓦造りの建物と建物の間の、細く細い、先の見えない暗い路地。
意味するところを理解し、心臓が大きく跳ねた。
「あっ、あなた、どうして」
子どもは答えない。指差したまま、無表情で立っている。
「……ありがとう!」
意を決して信乃は隙間に飛びこむ。横歩きしないと歩けない狭さだ。外套が壁に擦れる。顔を進行方向に向けることもできなければ、真っ暗で今自分がどれくらい進んでいるのかも分からない。
しかし子どものつくってくれた好機を逃すわけには行かない。必死に信乃は進んだ。
隙間の終着点は唐突に訪れた。壁は突然なくなって、信乃はそのまま横向きに倒れる。
「痛っ」
起き上がって服についた埃を払う。
辺りを見渡して、信乃は息を呑んだ。
草むらのなかに今にも崩れそうな木造の小屋が数軒並んでいる。ひとつの前で数人が焚き火を囲んでいる。
案内してくれた子どもが信乃の隣に立っていた。
「君も一緒に来てくれたの。ねぇ、ここって」
子どもは無言のまま焚き火の方へと走って行く。そのうちのひとりが子どもに気づいて抱きかかえた。
「偉い、よくやった!」
その声に信乃は聞き覚えがあった。
子どもを下ろして、声の主が近づいてくる。
「……三日ぶりだな、信乃」
陽生。
信乃の、逢いたかった、人間。首に提げている雨晶がきらきら輝く。
「あっ、
仁というのは、花売りの子どもの名前なのだろう。
信乃の呆けたような表情に気づいて、陽生が弁解のように説明する。
「昼間に花を買ってやったんだって? 饅頭をもらった、っていう話を聞いていたら、明らかに信乃のことだと分かったんだ。その時点で合格だっていう話になって、隙を見て連れてくるようにお願いしたんだ」
ぽん、ぽん。
陽生が、信乃の頭を優しく撫でる。
不意に信乃の瞳から涙が零れた。
「し、信乃?」
堪えていたもののひとりで不安だった気持ちが溢れてしまった。
陽生が慌てふためく。
「ちょっと待っててくれ」
陽生は焚き火の方へ戻り少し会話をするとすぐに信乃のところへ戻ってきた。
穏やかな笑顔。
信乃と同じように、陽生もゆっくり休息を取ることができたのだろう。
「この三日間。信乃がどう過ごしていたか、話を聞きたいな」
そして自然に右手を繋いでくる。
信乃の涙は引っ込み、代わりに顔が真っ赤に染まる。俯いたまま陽生に連れて行かれ、気づくと草むらから離れた場所にいた。
月が明るく、視界が広がる。
目の前に雨ツ国と同じような小川が流れていた。
「あ、あの、陽生さま。そろそろ」
離してもらえませんか、と続けようとすると。
「駄目」
まるで悪戯っ子のように、信乃の腕ごと上に上げてみせる。
信乃は唇を噛む。
「寿命なんて縮まらないさ」
「……!」
ふたりで川を眺めて、しばしの沈黙。
水の流れる音が耳に届くも、自分の心臓の鼓動の方が大きく聞こえた。
(緊張、伝わってるよね。恥ずかしい……)
「陽生さま」
「ん?」
陽生を見ないようにして、空を見上げたまま。信乃は感情をごまかすように語りかける。
「陽ノ国って、鮮やかですよね。雨ツ国は曇ってるから、こんなに色がはっきりと感じられてびっくりしました。お店もたくさんあるし、皆、優しいし。ずっと昔におっしゃったこと、覚えていますか? わたしには陽ノ国の人々も、自由で羨ましいと思います」
かつて雨ツ国が自由で羨ましいと呟いた陽生。
今にして思えば、第二王子という立場に疲れていた頃でもあったのだろう。
「夜空もこんな鮮明に見ることができますし。雨が降らないのは残念ですが、それぞれの国にそれぞれのいいところがたくさんあるって感じました」
信乃は、食堂でシイラを食べたことや宿にひとりで泊まったこと、それから、住み込みで働いていることを話した。
ひとしきり話し終わるまで陽生は頷きながらうれしそうに耳を傾けてくれた。
「働いちゃうっていうのがなんとも信乃らしい。手に職がないと落ち着かないもんな」
「……う。図星すぎて反論できません。今日は印を彫らせてもらいました。朱ノ鳥と薔薇ですが、せっかくなら王家の花を彫りたかったです」
「おれだって信乃に薔薇なんか彫らせたくなかったよ」
少し頬を膨らませる陽生が年齢よりも幼く見えて、信乃は笑う。
いつの間にかふつうに話せるようになっていた。気がつけば、信乃は夜空ではなくて陽生の横顔を眺めていた。
「そういえば、王家の花って、何ですか?」
「時計草だよ。ちょうどこの時期咲いている、魅惑的な見た目の花さ」
「それなら分かります。見たことがないと思って眺めていたら、通りすがりのひとが教えてくれました。派手だけれど上品で、魅入ってしまいました。いつか、判を彫らせてください。すっごいのをつくってみせますよ」
陽生は右手で頬をかいた。
「……?」
「いや、雨ツ国の人々には申し訳ないけれど、信乃が来てくれてよかったなと思って」
ぽりぽりと陽生が頬をかく。
「おれたちだけだと王座を取り戻すことばかり考えて気詰まりしていたよ。そうやって、奪還した後のことを考えるのは気持ちが明るくなる。丹生に良くも悪くも見張られているからふたりで話す機会なんてなかったけれど、連れ出してよかった」
「たしかに、雨ツ国の工房以来かもしれませんね。看病させていただいたとき」
「あのときはほんとうに助かったよ」
「まさか手紙だけ残して姿を消すとは思いませんでしたが。そういえば、あの手紙……」
「わっ!」
突然陽生が大声をあげる。
耳まで真っ赤になった陽生はなんと信乃から顔を背けた。
「……すべて奪還した後に、きちんと説明させてほしい……」
(それって、どういう意味)
話題を振っておきながら、信乃は俯く。
「しまった。丹生の気配を感じる。そろそろ戻ろうか」
「は、はい」
信乃には気配なんてまったく分からないが仏頂面の従者の怒りをこれ以上買うのは困る。
陽生が心底残念そうに溜息を吐いた。
「……ふたりきりの時間が終わってしまうのか。惜しいな」
ついに信乃は陽生と視線が合ってしまう。柘榴色の瞳は穏やかな光をたゆたえて、信乃を映していた。
陽生が信乃の前髪に触れ、額にそっと口づける。
「よっ……」
信乃は突然のことに口をぱくぱくさせる以外の反応ができない。
「石鹸のいい香りがする。いいところにお世話になっているようで安心したよ。
満足そうに陽生が歩き出す。
勿論、手は繋いだままだ。
どちらの熱か分からない熱を、保ったまま。
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