花売りの少年
*
「お風呂……あったかい……」
二日連続で入浴できたことに信乃は心底安堵していた。
しかも昨日は大衆浴場だったが、今日は家庭風呂だ。こそこそせずにかつらもレンズも外すことができる。
やわらかな湯の感触は心地よく、うたた寝してしまいそうになる。
湯槽に肩まで浸かっていると、入浴剤の香りが立ち昇ってくる。
(……工房のにおいがする)
それは、森の香り。新緑の、木々の香りだ。
透明なお湯をすくって香りを嗅ぐ。
そして、自分の手が傷だらけであることに気づいた。
元々雨晶を加工しているときから怪我は日常茶飯事だったけれど、よく見ると、手にも足にも細かい傷痕が増えている。
崖を登ったり、野犬と闘ったり、蛇をさばいたり。なかなかいろいろとやってきた。
雨ツ国にいた頃より筋肉もついた。
身分を偽って働けるくらいには度胸もついた、と思う。
それでも立ち向かおうとしているものは信乃にとって強大だ。
(無事に細い道が見つかりますように)
陽生に、会えますように。
何度となくもう会えないだろうと思ってきた。だけど、機会は巡ってくる。
だからこそ今回は、自分の手で掴んでみせるのだ。
*
「はー、驚いた。あんたってほんと器用なのね。半日でこの出来栄えだなんて、すごすぎるわ。国に帰らなくっても、一生これで食べていけるんじゃない?」
「ありがとうございます」
信乃は苦笑いを浮かべる。
朱ノ鳥と、薔薇の花。つまり、華衣の一族の紋を組み合わせた印。
絵柄を示されて二種類彫ってみたところ、女将にいたく感心された。
「白い紙にこれを押して、饅頭を詰めた箱に巻けば完璧だわ。うんうん。紙を用意するから、あんたはちょっと休憩していいよ。昼食後はひたすら判子押しをしてもらうから、ちょっと散歩しておいで。あっ、饅頭を持たせてあげる。うちの饅頭は陽ノ国でいちばん美味しいんだから」
やはり立て板に水。
返事をする隙もなく、信乃は黒糖饅頭を渡されてお店の外に放り出された。
空は今日も青く、あっけらかんとしている。散歩日和だ。
信乃は今まで通っていない道をなんとか思い出して、歩くことにする。
初日の夜は、足が痛んで夜中に時々目が覚めたけれど、石畳の道を歩くのにも慣れてきた。
赤煉瓦の建物はひとつひとつ個性があって面白い。
自転車は一般的な乗り物のようだ。饅頭屋にも錆びかけのものが置いてあった。
「……?」
人だかりができている建物をちらりと見たら、どうやら派手に飾りつけをしている最中だった。
いよいよ大祭に向けて本格的な準備が始まっているらしい。
木、紙、布でできたものと様々ではあるもののすべてが薔薇の花だ。よく見てみると、民家にも店にも、何かしらの薔薇が軒先に飾られている。
それらはすべて
この国の民たちは、喜んで華衣の一族による支配を受け入れてはいない。
何故なら、反抗する術を持たないから。
王族の壮絶な最期を見聞きしてしまった、から。
信乃はぎゅっと拳を握り、唇を噛む。
(細い道探しをしよう。今のわたしにできるのはそれしかない)
気分転換の為にも、黒糖饅頭をひとつ頬張った。
やわらかくてこくのある生地のなかに、甘くてずっしりとしたこしあんがちょうどいい。
(おいしいー!)
厨房では大将がずっと饅頭を蒸していたし、絶えない来客には女将がてきぱきと接客していた。愛されている店だというのはなんとなく分かる。いい店に出合えたものだ、と密かに喜んでいる。
「ここは……」
やがて、信乃はひときわ老朽化の進んでいる建物が集中している場所に足を踏み入れた。
店は見当たらない。どうやら、住宅街のようだ。
しかし赤煉瓦が激しく崩れているところもあれば、屋根や扉、窓のない家もある。
痩せこけた女性が乳飲み子を背負いながら洗濯物を干していたり、家の前で横になって寝ている老人もいる。
明らかに、饅頭屋の付近とは漂う空気が違っていた。
そんななか信乃の目に留まったのは、道端に座っている子どもだ。痩せこけて、目がぎょろりと動いている。
足元に敷かれたぼろぼろの布の上には、市場のように摘んできたであろう花が置かれていた。
少年、だろうか。
信乃はしゃがんで子どもと向き合った。すると無表情のまま右手で黄色い花を掴み、信乃の前に突き出してきた。左手は掌を上にしてこちらを凝視してくる。
「あっ、そういうことか。商売なんだね」
花を受け取った信乃は、子どもの左手に晋紙幣を渡す。
子どもは返してなるものかと紙幣をぐしゃぐしゃにして服のなかにつっこんだ。
受け取った花は摘んできたばかりなのだろう。艶があり、小さいものの向日葵によく似ている。
「君、商売上手だね」
信乃は微笑みかける。しかし子どもはにこりとも笑わない。
懐から饅頭をみっつ取り出して、信乃はひとつを食べてみせた。そして残りのふたつを包み直して子どもの前に置く。
「商売上手の君にはこれもあげよう。がんばってね」
小さな向日葵を持って信乃は立ちあがった。そろそろお店に戻る頃合いだろう。
すると、無表情だった子どもも信乃につられるようにして立ちあがった。
「……わたしの朱ノ鳥の瞳が、あなただけを映し、翼が、あなただけを守りますように」
かぼそい声だった。
そしてやはり無表情のままではあるものの、子どもは小さく手を振って見送ってくれた。
*
「あんた、それは貧民街の子どもに惚れられちゃったっていうことだよ」
饅頭屋に戻ってきた信乃は女将から貧民街というものの存在を教えられた。
街を散歩してきたら雰囲気の違うところに辿り着いたという話を詳しくしたら、女将が見事に爆笑したのだ。
「ど、どういうことですか」
「それはね、陽ノ国で、最大級の! 愛の! 告白の言葉なんだ」
「ぶっ」
信乃は豆のスープを噴き出しそうになる。
「まぁ子どもの言うことだから放っておけばいいさ。もうあっちには近づかない方がいいよ。さぁ、午後はひたすら判を押してもらうからね」
その言葉通り、午後の信乃の仕事は判をひたすら押すこととなった。
仕事を終え、夕飯を食べ、お風呂に入り。信乃は2階の部屋の薄い布団の上に寝転ぶ。向日葵が視界に入り、昼間の子どものことを思い出す。
大祭は明後日。
そして細い道を見つける期限は明日。
体力は回復した。じっとしていることはできない。
信乃は決意すると、物音を立てないように抜け出した。
初めて夜に外へ出る。晴れている陽ノ国の夜空は紺色で、きらきらと星が瞬いていた。日中より涼しくて風もある。
外套をしっかり羽織ってきて正解だ。
(昼間には気づけない場所があるかもしれないよね)
酒場は賑わっている。最初にご飯を食べた食堂からも笑い声が響いていた。
(……わたしは、今、ひとりなんだ)
唐突に不安に襲われる。
やはり宿へ戻ろうか、と思ったときだった。
くいっと外套の裾を下から引っ張られる。
「何!?」
昼間に出会った貧民街の子どもだった。信乃は表情を和らげて、膝を曲げる。
「どうしたの? こんな時間までお仕事?」
ところが子どもは首を横に振る。それから信乃の左腕を掴んできた。細いのに力強くて引っ張られる。
「えっ、な、何?」
子どもは振り返ることもせずずんずんと歩いて行く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます