雨の亡霊
*
「ふ、ふ、布団だー!」
信乃は案内された極小の部屋に入るやいなや、木製のベッドに飛びこんだ。そして何度も寝返りを打つ。
陽ノ国初日の夜。
もうひとつ、信乃にとって初めての経験は、宿での宿泊。
(うぅ……数ヶ月ぶりにひとりで、やわらかいところで寝られる……)
宿泊施設という存在を知らなかった信乃はたとえどれだけ埃っぽくても、ベッドしか置かれていない狭い空間でも気持ちが昂ぶってしまう。
壁は薄緑色で塗られていて、濃い朱色の枠に囲まれた窓はひとつのみ。開けられることはできそうだが柵がついている。
(大浴場もあるって言われたよね……。あったかいお風呂……入りたい……)
この数ヶ月、がんばって過酷な生活を送ってきたものの。
元は水を潤沢に使える暮らしをしていた、雨ツ国首長の孫なのだ。水浴びで体を洗うことには慣れたけれど温かい湯に浸かれるとなると一気に風呂が恋しくなる。
(もしかして陽生さまはお風呂に入れるよう、気を遣ってくださったのかな)
陽生と再会してからはあっという間すぎて、ふたりだけで話す時間もなかった。
想いを伝えることはできていないし、川辺でどうして顔を近づけてきたのかも分からないままだ。記憶がいろいろと蘇る。
もし、再会したとき、丹生が現れなかったら。
……現れなかったら?
「いやいや! きっと顔にごみでもついていたんだよね、うん」
信乃は、薄っぺらい掛け布団をぎゅっと抱きしめて、顔を埋めた。火照った顔を冷たい布団が鎮めてくれる。
そして小さく呟いた。
「……好き」
自分で発した言葉に驚いてばっとベッドから身を起こす。
「わたしったら今何を」
無意識に口にした言葉。
好き。
言葉にすればするほど、体のなかに染みていくようだった。
そして、力が漲ってくるような気もするのだった。
*
翌日も信乃は街を歩いていた。
空は雲一つなく、からりと晴れている。
常春の国とは聞いていたが、今の時期、雨ツ国は夏でありひたすらに蒸し暑いのにと不思議な気持ちになる。
道路や建物だけでなく、咲いている花も見たことがなかった。
十枚の白い花びらがある大きな花だと思って近寄ってみたら、花びらが五枚で萼も五枚あった。その上にひげのような紫色の服花冠が放射状に広がり、さらにその内側に貴緑色のおしべと紫色のめしべがある。強烈に甘ったるい香りのする不思議な花。
じっと眺めていたら通りがかった男性が『時計草』というのだと教えてくれた。
見たことのない、でいえば、時計草を教えてくれた男性は人力の二輪車に乗っていた。それは『自転車』と呼ぶらしい。自転車の後ろには荷物用のかごがついていて、そこにも車輪がついていたので正確には三輪車なのかもしれない。
さらに歩いて行く。
信乃には見つけなければならないものがあった。
――細すぎて見つけられない道。
その先にある家が陽生たちとの合流場所なのだ。
『ひとりで見つけなければ計画には参加させない』
陽生からかたく言われたことだ。
納得はできなかったけれど、危険な目に遭わせたくないから、というのは信乃にも理解できる。なので、その条件を受けたのだ。
信乃にとって、彼らの仲間となる為の最終試験である。
空を見上げる。
真っ青な晴れ空なんて、雨ツ国では年に数回しか目にすることができない。なんて明るくて眩しいんだろう、と信乃は思う。
亡き父は外の世界に目を向けていた。
兄は、外を恐れた。
そのどちらも信乃には分かるような気がした。
「門みたいになってる……?」
やがて、石畳の先に、人々が集まっている空間を見つけた。巨大な赤煉瓦の壁は扉のない門のようになっていて誰でも通れるようになっている。
信乃もくぐって中に入るとそこは広場になっていて、青空市場が行われていた。たくさんの人間が敷布の上に座って品物を広げている。ざっと数えても五十は店がありそうだ。
器、置物、造花、服、どんなものでも置いてあるようだ。
(もしかしてちょうどいい民族服があるかもしれない)
予想は的中して、古着を売っている女性からぴったりのものを買うことができた。値切ってこなかったから、とさらに靴もおまけでくれたので、靴だけはその場で履き替える。
黒くて分厚い布と革からできていて、紐で調整するようになっている。右だけ紐をするりと抜いて、草履につけていた花柄の布をほそく撚るようにして紐代わりにした。くたびれている布は撚りやすく、結びやすかった。
服はまた頃を見計らって着替えてしまえば、外套を被りっぱなしの状態からようやく解放されるだろう。
そして、信乃は自分の目を疑う出店者を見つけた。
遠目から見ても、明らかな、懐かしい光。
「
ちゃんと白い日よけをつけて手慣れた出店の敷布は他にくらべて倍の広さ。平置きではなくて簡易机にさらに別珍の布をかけている、その上の品物は、雨晶でできた装飾品だった。
(ということは)
信乃の胸が高鳴る。
簡易椅子に座ってにこにこと接客しているのは、瀬名だった。
客はひっきりなしに訪れる。全員が興味深そうに近づいて、買った後は笑顔になって去って行く。
信乃はその様子を見て泣き出しそうになっていた。しばらく眺めているとようやく客が途切れる。
しかし話しかける訳にはいかない。そう、思ったとき。
瀬名が外套を深く被っている信乃の方を見て話しかけてきた。
「ご覧になっていきませんか? 雨の亡霊さん」
「せ……」
名前を呼ぼうとして口を噤む。幸いにもフードで顔はほぼ隠れているので、泣きそうになっているのを悟られないように店の前にしゃがんだ。
雨晶の装飾品がこんな風に売られているなんて、感激もひとしおである。
すると瀬名は後ろに置いていた荷物から、細長い袋を信乃に差し出してきた。
「こんな品物も持ってきたんですが、なかなか表に出せないので困ってたんです。お金は要らないので、おひとつどうですか?」
信乃が受け取って中を見ると、雨刀が入っていた。信乃はしゃがんだまま瀬名を見上げる。視線が合うと、変わらない笑顔が返ってきた。
「雨ツ国の次期首長でもあり、加工士でもある御方が打った短刀です。そうだ、おまけにこれも差し上げましょう。首長さまからです」
(兄さまと、爺さまが……?)
瀬名が次に渡してきたのは信乃が大好きな小麦煎餅。さらに、小さな小さな火打ち石や、髪の毛につける香油を染みこませた紙など、かさばらないものがどんどん出てくる。
「最後にこちらは、私の娘からです。何のことかは分かりませんが、そろそろ新品が必要なのではないかと申しておりました。好みかどうか分かりませんが貰っていただけませんか?」
瀬名が黒地に花柄の布を取り出した。
信乃と紗絢の親友の証。今、右の靴紐と付け替えたばかりの柄。
(紗絢……!)
信乃は鼻の奥が熱くなっているのを感じた。泣かないように堪えて、答える。
「……好みです。大好きです。ありがとうございます」
しかし堪えきれなくなった雫が信乃の頬を伝っていく。
「いえいえ。でもね、亡霊さん。雨ツ国では、いつでも亡霊さんが生き返ることのできるよう、準備万端で待っていますから」
信乃は立ちあがると、瀬名に向かって深く深く頭を下げた。
青空市場を後にした信乃の足取りは軽い。
「あ、そうだ」
瀬名からもらった布を取り出し、左の靴の紐も付け替える。
(片方だけよりかわいい!)
揃った靴紐に、自然と笑みが浮かんだ。今なら、紗絢の細かい服装へのこだわりも解る。
だったら服も着替えてしまおうと決意して、人気のなさそうなところで服も替えてしまう。生地は碧色で、信乃のほんとうの髪色と同じだということがいい。裾には黒い糸で花の絵柄がぐるりと刺繍されている。そしてやわらかく着心地がいい。
ようやく信乃は外套の前を開けることができた。
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