挿話 陽生(二)
決行前夜
*
*
*
夜のもたらす
「——!」
疾風のごとく接近してきた気配に、陽生はすばやく刀を抜いて振り返る。刃を寸止めさせたのは相手が誰か分かったからだ。
ふぅ、と溜息をついて刀をすっと鞘に収める。
威圧する為に声色を低くして問うた。
「どうしてわざわざ気配を消して近づいてきたんだ」
相手……
「私がそうしたかったからです」
「答えになってないな」
やれやれ、と陽生は肩をすくめた。
夜の闇は深く濃い。
見張り番以外は眠っている時間帯だ。
眠れなくなって根城から川辺まで出てきてしまった。それに従者は目ざとく気づいて後をつけてきていたのだろう。
陽生は夜空を見上げた。
月が雲に隠されて、朧気な環を帯びている。
「いよいよ明日だと思うと、どうしても眠れなくなるものだな」
「心中お察しします。しかし、安心してください。主には私がついています」
丹生の手には酒の瓶があった。
ちゃんと、ふたり分の
「ははっ。そうだな」
月の光のように陽生は柔らかに笑みを浮かべた。
ふたりは岩場に座って、盃を交わす。
酒の水面に月が朧気に映る。
(昔はちっとも美味いと思わなかったが、染みるな……)
透明ですっきりとした香り高い酒が五感を潤していく。
ほぅと小さく息を吐き出して、陽生は呟いた。
「お前にはずっと助けられてばかりだ。あらためて礼を言う」
「礼などは要りません。私にとっては主に仕えることが使命であり存在する理由です」
「……使命、か」
一方で、陽生の瞳は夜よりも深く濃い闇に沈んでいく。
「おれにとっては、国だ。明日、必ず
謀反によって王族は陽生以外いなくなってしまった。
未だにその事実を、感情としては受け止めきれないでいる。
父も母も、兄も、もういないのだ。
これからもすべての罪を己が背負って。
ひとりで国を建て直していかねばならない。
国を取り戻した後のことを考えれば考えるほど、不安に呑み込まれそうになっていく。
それは己が弱いからだろうか?
そもそも今回のことは、すべてこの弱さが招いたことでもあるのだ。
「丹生」
陽生は従者の名前を丁寧に口にした。
「明日以降、もしおれが変わってしまったり、迷うようなことがあれば、正しい道へと戻してほしい。それができなかったら……」
一瞬躊躇ったものの、言葉を続ける。
「殺してくれ」
「冗談がお上手になりましたね」
「お前にしか言えないんだ。おれの罪は、深く重たい」
「しかたありませんね、では私も、主に向けて冗談をおひとつ。……あなたはひとりではありません。私やあなたについてきた者は、未来永劫、魂の奥まであなたの配下です。それに、あの娘も」
陽生は弾かれるように、隣に座る丹生の顔を見つめた。
「彼女がいれば、あなたの視界はこれからも明るいでしょう」
「驚いた」
丹生が、雨ツ国の少女のことをわざわざ口に出したのは初めてのことだったから。
「私の方こそ驚きました。まさかあの娘が国を捨ててまであなたを追いかけてくるとは思いませんでした。そして、この数ヶ月、
陽生を
それだけで丹生が言葉に込めた想いが伝わってくるようだ。
「おそらくあなたの霧を晴らしてくれるのは、光ではなくて、雨なのでしょう」
「……うまいことを言う」
「冗談を述べると申しました」
そして、無表情の従者が口元に笑みを浮かべたのも、数年ぶりのことだった。
「まぁ、『試験』を乗り越えられたら、の話ですが」
「……そうだな」
あの娘。つまり、信乃は今、安らかに根城で眠っていることだろう。
慣れない環境で努力する少女を見る度に、巻き込んでしまったという申し訳なさもある。しかし彼女のひたむきな姿勢に励まされてきたのは紛れもない事実だ。
だからこそ、真の意味で巻き込むことについては、未だに躊躇している。
(だけど、信乃なら乗り越えてくれる……かもしれない)
陽生は酒を口にしながら、信乃のことを想う。
自らの誇りに気づかせてくれた少女のことを。
それだけで、不思議と力が漲っていく。
(ほんとうに霧が晴れていくようだ)
「だいたい、あなたが弱いのは皆もよく知っています。それでも、だからこそ。我々は従って、ここまで来たのです」
再び無表情に戻った従者の容赦ない発言に、陽生は情けなく笑ってみせた。
「ありがとう」
いよいよ計画を実行に移すときがくる。
……国を取り戻す為の、『計画』が。
【挿話 了】
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