訣別と再会


 工房は整理してきたし、荷物は背負える分だけ背負った。

 信乃は今、香の薫る母の枕元にいる。


「母さま。父さまの雨晶が完成したので差し上げますね」


 桐箱を檻の隙間から忍ばせる。

 最初に完成した『癒雨ゆう』は、母へ贈ろうと決めていた。


「これで思い残すことはありません。信乃は、行ってまいります」


 そこへ、背後から声が轟いた。

「許すとでも思ったのか!」


 信乃が振り向くと、信音が険しい表情で仁王立ちになっていた。信音の傍らには泣き出しそうな紗絢がいる。

 信乃は、穏やかな兄の怒声を初めて聞いたような気がした。

 さらに後ろには表情のまったくよみとれない祖父もいる。白髭を撫でて、溜息をついた。


に懇願されて研究用工房だけは残しておいたが、まさか、こんなことになるとは」


 この子、というのは信乃たちの母親のことだろう。

 信乃の推理はあながち間違っていなかったらしい。


「新しい雨晶、見させてもらった。過去に見たものよりも格段と上質だ。腕をあげたな、信乃」

「爺さま……ありがとうございます」


 瀬名によって、信乃の行動と意図についてはすべて説明されているのだろう。

 しかし思っていた以上に先回りが早かった。

 こっそり出て行くつもりだったけれど、こうなってしまえば説得するまでだ。


「製法も判明したことだし、新しい雨晶は他国にこそ流通させはしないが、強い力となってくれるに違いない。その立役者にいなくなられる訳にはいかん」


 信乃は立ちあがって家族と向き合う。

 祖父の言葉に、信乃は困ったように微笑み返すしかなかった。


「やはり、これを外の国に出すつもりはないのですね」

「薬というのは扱いが難しいのだ」


 信乃は唇を噛む。

 父母の無念を想像すると、心が張り裂けそうになる。

 しかしここで思い留まることはもうできない。


「お願いです。わたしを外の世界に出してください!」


 信乃は精一杯頭を下げる。


「認めない」


 しかし、信音の声は、険しく硬い。


「信乃に『新しい世界』は必要ない。雨ツ国で、稀代の加工士として今後も活躍すればいいんだ。最適な伴侶と子宝に恵まれて、穏やかに暮らしていけばいい。その道が、この場所でなら無限に広がっているんだ!」

「そうよ、信乃。どこにも行く必要なんてない。あたしたち、死ぬまで親友でしょ?」


 親友という言葉が胸に鋭く刺さる。

 意図的なのか計画的なのか。

 信乃にとって紗絢の訴えが、最も情に響き、……辛い。


「話は聞いたわ。信乃を危ない目になんて遭わせたくないの! お願い、諦めてちょうだい」

「……ごめん、紗絢」

「信乃……」


 信音が隣に立つ紗絢の肩を抱く。

「出て行くというなら一族との縁を切る。もう二度と雨ツ国の地を踏むことは許さない。それが耐えられるか?」

「兄さまっ……」


 信音は信乃の反論を許さない。

 苦々しそうに忌々しそうに、言葉を継いだ。


「ずっと、危惧していた。信乃をに渡してなるものかと」


 信音の言葉に、ついに紗絢はぽろぽろと涙を零し始めた。

 一方で最高権力者の長老は沈黙を保っていた。おそらく、信音の首長としての資質を、この成り行きで見極めようとしているのだろう。

 信乃はすっと、背筋を伸ばした。

 渡してなるものかと兄は言うけれど。

 この気持ちを受け取ってもらえるのかどうかすら、信乃には分からないのだ。

 だけど、今、この身を動かしているものは。

 衝動ではなく、確固たる想いひとつ。

 信乃は口を噤んだまま簪を髪から引き抜く。

 肩まで伸びた碧色の髪の毛。

 雨刀を右手に、信乃は、自分のすべきことが鮮明になっているのを感じた。


「!」


 刹那。

 空気をつんざくのは紗絢の悲鳴。


 ざくっ!


 ……はらはらと、碧色の線が虚空を舞い、暗い床に落ちる。

 ざくざくとひと思いに、信乃は髪を短く揃えた。

 全員が唖然としているなか、左手に髪の毛の束を持って信音に突き出す。


「信乃は今、死にました。どうかこの髪の毛と簪で墓をつくってください」


 真っ先に動いたのは紗絢だった。

 泣きながら信乃に飛びついてくる。嗚咽を漏らしながらも、なんとか反論しようとしてくる。


「あんたは……あんたは、ばかよ」

「ごめん。だけど、恋する乙女に敵なんてないんでしょう?」


『恋する乙女の前に敵なんてないのよ』


 それは、かつて紗絢が信乃に言い放った言葉。

 紗絢の涙は引っ込み、代わりに、大きな溜め息が吐き出された。


「……そうね。その通りだわ」


 一方でまだ気の抜けたまま、信音が呟く。


「ま、まさか、髪を切るなんて」


 雨ツ国の女性にとって、髪の毛というのは神聖なもの。

 それを一思いに切ったことで。

 それほどの決意だというのを、信乃はこの場で表してみせたのだ。

 がくりと信音が肩を落とす。


「……もういい。好きにしろ……」

「ありがとうございます」


 そして、信乃はさらに長老に頭を下げた。

「爺さま。信乃を今まで育ててくださってありがとうございました」

「早くお行きなさい。でしょう」


 長老が己の髭を撫でながら言う。

 信乃は、頭を上げた。

 翡翠色の瞳に迷いはない。

 どうやっても生きていけるのだと知った。

 想いを殺すのも生かすのも自分次第で。

 だとしたら、想いに導かれていきたいと信乃は思った。

 紗絢が鼓舞してくれるように笑顔で叫ぶ。


「行ってらっしゃい、信乃!」



 陽ノ国の辺境。緑の濃い森。

 外套の頭巾を目深に被って、信乃は慎重に歩いていた。地図と方位磁針が今の頼りだ。

 野宿にも随分と慣れてきたものの、流石に数日間歩き続けていると疲労は蓄積してくる。


「あ。川がある」


 地図と照らし合わせて、信乃は息を吐いた。間もなく陽生たちの拠点を見つけられるだろう。

 そして貴重な水場に出合えたのだから、洗えるものは洗ってしまいたい。


「よいしょ」


 桜の木は既に葉が生い茂るのみとなっていた。

 川辺には木々が少ないので、少ない空からの光を十分に浴びることができる。大きく深呼吸をしてから、荷物を地面に置いた。

 水面に掌を浸す。透明度の高い水だ。

 勢いよく顔を洗って布で拭く。布靴を脱ぎ、たっつけ袴の裾をまくる。足を浸して、ぶらぶらとさせた。


(煮沸したら飲めそうだな。ちょっと早いけどご飯にしちゃおう)


 視界もいいし、今日はこのままここで野営をしてもいいかもしれない。

 荷物から干し芋を取り出してかじりつつ作業を始めた。

 小さな片手鍋で川の水を汲み、簡易こんろに火をつけて、乾燥米を入れたとき。

 がさ、と背後の茂みから音がした。

 反射的に信乃は雨刀を手にする。

 昼に獣が襲ってくることは滅多にない。しかも、今、獣が苦手とする火をつけたばかりだ。野犬からの逃げ方はだいぶ上達してきたけれど、体力は余計に消耗したくないという思いがある。


 次の物音を待つ為に構えたところで、ぽかん、と口を開けた。

 黄褐色の肌に赤銅色の髪の男性が立っていた。


「……信乃の、幻が見える」


 すなわち、陽生が呆けたように呟く。

 倒れているのを見つけたときと似た藍色の服を着ている。長袖で長い丈。詰め襟は黒との二重。袖は折り返し。

 信乃ははやる気持ちを抑えて、雨刀を収めると立ちあがった。


「本物です」

「しかも幻が喋っている。いや? 髪も短いし、もしや狸が化けているのだろうか」

「人間です」


 まだ事態が飲み込めていないらしい。

 茂みからおそるおそる陽生が歩いてくる。

 向かい合ってもなお、陽生は己の瞳に映る信乃が信じられないらしい。

 信乃は荷物から手紙を取り出す。


「陽生さま。あんな風にお別れするなんてできなくて、追いかけてきてしまいました」

「本物か!」

「ようやく理解していただけましたか、って、きゃっ!」


 陽生は思いきり信乃を抱きしめてきた。


「また会えるなんて……そんなことが現実に起きるなんて」


 声が震えている。


「現実です。あの、ちょっと苦しいので、離していただけませんか」

「あっ。ごめん。つい」


 慌てて陽生が体を離す。

 少し痩せたように見えるものの何ら変わらない姿に信乃は安堵した。泣き出しそうな柘榴色の瞳に信乃が映っている。


「……信乃」


 そっと陽生は右手を信乃の右頬に当てた。


 逃げられない。逃げては、いけない。

 陽生の顔が、唇が、信乃に近づき——


「ごほん」


 わざとらしい咳払い。はっとふたりが振り向くと、同じく茂みに、おかっぱの男性が立って三白眼で睨みつけていた。

 今さらではあるものの信乃と陽生は距離を取る。

 というか、今、陽生は何をしようとしたのだ!?

 混乱するも、丹生の冷たさが信乃を引き戻してくれる。


「何故あなたがこんなところにいるのですか。仮にも雨ツ国の王女であるあなたが」


 他国には内政不干渉であれ。丹生の主張はもっともである。

 だからこそ、信乃はすべてを置いてきたのだ。


「雨ツ国の信乃は、死にました」

「!?」


 ふたりの瞳が見開かれる。

 もう後戻りはできないし、するつもりもない。

 その為の力は蓄えた。

 決意も、確固たるものだ。


「ここにいるのは、国を持たない信乃です。陽生さまのお力になる為に参りました」


 ここからようやく、信乃は信乃自身の物語を始めるのだ。

 己自身の心に恥じぬよう、生きていく為に。




          【第三話 了】

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